最初の一歩は『たった五分』
3行あらすじ
病院検査で〈重大な病変なし〉と診断されたアンドレイは、AIから「一日五分の散歩」を命じられる。
散歩は三ヵ月で日課となり、AIは次の指示としてジョギング〈500メートル〉を提示。
体の変化が心を動かし、彼は『月面プロジェクト』へ本格的に歩を進める決意を固める。
《最初の一歩は『たった五分』》
──白い蛍光灯が無機質に照る検査室。
CTスキャンの円筒から抜け出すと、医師がタブレットを示した。
「大動脈、肺、脳……目立つ病変は見当たりません。年齢相応の関節負担だけですね」
胸の奥がほっと緩む。
《LIFE ADVISOR》がすかさず重ねる。
> 《散歩タスクを開始してください——一日五分》
「五分?」
拍子抜けするほど短い。だがAIは続けた。
> 《開始時刻まで残り02:17》
◆五分の散歩
午後四時、靴ひもを結ぶ指がぎこちない。
外気は初夏、草の匂いが鼻腔をくすぐる。
歩幅は短く、膝がきしむ。
しかし五分後、脳裏に微かな電流が走った。
血が巡る快感……忘れていた『体温』が戻る。
帰宅すると通知。
> 《達成。水200mlを摂取し、15分の休息》
ソファに沈む背中へ、汗がじんわり。
呼吸は深まり、瞼が心地よく重い。
◆日常化—90日目
カレンダーは雨印と晴れ印で埋まり、歩数グラフが右肩上がり。
五感描写もログ化され——
・煎った胡桃の匂い
・薄曇りの湿度
・足裏のアスファルト温度
歩くだけで世界が『手触り』を取り戻す。
心拍安静値:72→58
血圧:130/88→118/76
数字の改善が、子どもの通信簿より嬉しい。
◆ジョギング指令
九十八日目の朝、AIが虹色に点滅。
> 《三ヵ月経過を確認。500mジョギングを推奨します》
> 《推定負荷:HRmax 65%/継続時間 3分》
「走る、か……」
心臓が跳ね、汗腺が一斉に開く感覚。
夕方、止みかけの霧雨。
ストレッチ代わりに指で空をなぞり、ゆっくり駆け出す。
—足音がリズムになる。
胸に潮風のような冷たさ。
視界の端で、街灯が流れる光の筋。
300mを過ぎた頃、肺が焼ける。
だが、痛みが快感に近い。
「生きてるぞ」と肉体が叫ぶ。
500m——腕のAIバンドが振動し、停止サイン。
膝に手をつき、冷たい雨粒が額を冷やした。
> 《お疲れさまです。達成率101%》
> 《次のセッションを48時間内に予約しますか?》
息が白く弾む。胸腔がふくらみ、笑いが漏れた。
◆月面プロジェクトへの連結
シャワーの湯気。石鹸のシトラス香。
鏡に映る肩はわずかに張り、腹には薄いライン。
「身体が変われば、夢も動く」——古い格言が脳裏をよぎる。
スマートグラスに新通知。
> 《CFOレベッカ=ヨハンセンとの面談まで残り 07:12:09》
> 《提案書ドラフトをAIと共同編集しますか?》
指が即座に「はい」を選ぶ。
脈拍は安定、視界は澄み、恐怖はない。
> 《ジョギング次回メニュー:800m──承認しますか?》
親指は迷わず、「承認」を押した。
次回予告(週内公開)
800mジョグからフルスーツ姿での国際面談へ。肉体強化を武器に、アンドレイは月面事業の『最初の金』を口説き落とす。