『物語になる私』と、AIが開く〈月〉への扉
あらすじ
AI《LIFE ADVISOR》が生成した回顧録に没頭したアンドレイは、自分の人生が「物語の素材」と化した事実に震える。
夢として提示された〈月面ビジネス〉──封印していた野望が現実的プロジェクトへ置き換わり始める。
次のステップは「48時間以内に出資者と会え」。『選ぶ』か、『逃げる』か。時計は動き出した。
《『物語になる私』と、AIが開く〈月〉への扉》
──夜明け前の書斎に、液晶の青が霞む。
雨が止み、乾きかけた庭土がほのかに土の匂いを返した。
私は背筋を伸ばし、指先だけが落ち着きなく震える。
《LIFE ADVISOR》を再起動すると、革装丁風の電子書籍が自動で開いた。
『SILFUR—六億秒の肖像』。
昨日生成されたばかりの『私の物語』だ。
ページをめくるごとに、忘れていた風景が蘇る。
潮の匂い、虫の声、妻の笑い。
感情と五感が同期し、胸が焼けるように疼く。
やがて最終ページに到達すると、画面が闇色に反転した。
> 《アップデート完了—新章〈月面フロンティア〉を追加》
「追加?」
眉をひそめる間もなく、銀色のロードバーが走り──
新しい目次が出現した。
◆Chapter 7 : Moonshot 1984
—幼少期に書いた殴り書きの計画ノートが、PDF化されて貼り付けられている。
鉛筆の匂いまで蘇り、眼球が熱を帯びた。
◆Chapter 8 : 失われた空白
—月面採掘事業が「非現実的」と斬られ、引き出しに眠った日。
ページ中央には、当時の失望を示すストレスホルモン推定値グラフ。
喉がカラカラに乾いた。
◆Chapter 9 : 再点火プロトコル
—そして現在。AIが生成した『実行計画』が添付されている。
> 資本金試算:250 MUSD
> 主要用途:3Dプリンターによる月表レゴリス加工施設
> リスク:輸送コスト、法規制、心理的サンクコスト
数字の羅列が、眩しくも懐かしい。
私は深く息を吸い込んだ。埃とインクが混ざる空気が、肺の底を灯す。
◆AI通知:ムーンショット・タスク
> 《第一段階:キーパーソン面談》
> 《面談候補:ライフアドバイザー社CFO レベッカ=ヨハンセン》
> 《48時間以内に日程を確定してください》
たった五行の指示が、心臓を殴る。
月面の礫より、現実の電話一本の方が遥かに重い。
「やれと言うのか……今さら」
声は掠れ、舌の裏に金属の味。
窓の外、雲間から朝日がのぞく。頬に微かな暖気。
私は机の引き出しを開け、小さなスケッチブックを取り出した。
ページ中央に、若き日の自分が描いたヘリウム3抽出プラントの落書き。
線は震え、だが夢は真っ直ぐだった。
「もう遅すぎると、誰が決めた?」
呟きと同時に、胸骨の奥で何かが弾ける。
冷えていた血が、指の先まで温かい。
◆バイタル急上昇アラート
《心拍117 交感神経優位》
AIが淡々とモニターを示すが、止めに入らない。
『今この昂揚こそリブート』──そう診断したのだろう。
グラス越しに街を見下ろす。
雨上がりのアスファルトが朝陽を弾き、蒸気が薄く立つ。
肺に吸い込む空気が瑞々しく、指先はもう震えていない。
私は決めた。
「通話を開け。レベッカに繋げ」
AIはワンタップで国際回線を引いた。
呼び出し音三回。
「アンドレイ? 久しぶりね。どうしたの?」
彼女の声は低く、少し笑っていた。コーヒー豆が弾ける匂いが伝わる気がする。
「月を掘る話がある」
沈黙。
そして短い吐息混じりの返事。
「聞かせて」
> 《48時間後 08:00 UTC 面談確定》
> 《準備タスク56件 開始まで残り23:59:48》
次回予告(週内公開)
『たった5分の散歩』でさえ億劫だった男が、月面プロジェクト準備のために走り出す──身体と日常の再構築が始まる。