誰のものでもない人生
3行あらすじ
AIの支配から逸脱したシルファー夫妻は、電波の届かない草原へ『無計画』の旅に出る。
静寂と寒風の中で、彼は初めて〈選ばない自由〉と〈感じる痛み〉を味わった。
再接続したAIは「再学習モード」を提案するが、シルファーは通知をスワイプし──世界に残る自分の鼓動だけを聴く。
《誰のものでもない人生》
──夜明け前、無人駅のプラットフォームに霜が立つ。
遠い鉄橋を渡る貨物列車の軋みが、空気の底を震わせた。
切符は紙、行き先は空欄。
「正しくなくてもいい未来」──リアが封筒に書いた言葉を、指でなぞる。
列車に乗り込むと、ストーブ車の煤と灯油の匂いが鼻腔を焦がした。
古い革シートが軋み、窓ガラスは氷の花で曇っている。
車掌は無愛想に改札鋏を鳴らすが、行き先を訊かない。
AIの電波は入らない。ポケットの端末は時間を失い、私は呼吸のリズムだけを基準に座る。
石炭ストーブの赤が眼底を温め、木材が弾ける音が鼓膜をくすぐる。
リアの手は冷え切って硬いが、脈ははっきりと跳ねている。
窓外の雪原から零れる月光が、車内の塵を白銀に染める。
終点もないまま、列車は北へ北へと滑った。
薄紫の夜が裂け、曙光が雪面に金を溶かす。
無人駅で降りると、線路の響きがすぐ闇に吸い込まれた。
──静寂。
AIの通知音も、街のクラクションもない。
聞こえるのは自分の心拍と、リアの息が白く揺れる音。
胸の奥が妙に痛い。酸素が甘い。
リアが頬を上気させて笑う。
「寒いわ。けれど、呼吸が生きてる」
私は頷き、雪を踏み鳴らす。靴底がキュッと鳴り、かかとに冷たさが滲む。
◆草原の宿
谷間の民宿は薪ストーブ一つ、湯も電気も弱い。
ランプの煤が天井に揺れ、味噌と獣脂が混ざり合う夕餉の匂いが漂う。
リアは慣れない手つきで土鍋の蓋を開け、湯気が頬を撫でた。
私は指先を火にかざし、皮膚がじりじりと痛むのを味わう。
「痛みが、私だ」
思わず漏れた呟きに、リアが首を傾げる。
「ええ、生きてる証拠」
外では乱暴な吹雪が軒を叩き、窓枠が震える。
Wi-Fiもたどり着けないホワイトアウト。
しかし不思議と恐怖はない。
誰のアルゴリズムも、私たちを『安全』へ誘導しないのに……
鍋の味噌が沸く音が腹を刺激し、舌に塩辛さと微かな甘みを残す。
薪が爆ぜる火花に、焼けた樹脂の匂いが鼻腔へ刺さり涙腺が潤む。
リアの笑い声が屋根裏の梁を撫で、胸郭の裏側で共鳴する。
◆AIの再接続
三日後、谷が吹雪を吐き尽くした夜明け。
端末が震え、青白い光が布団を照らした。
> 《自己決定ログを検出 再学習モードを開始しますか?》
> 《推定目的:価値観の再構築/感情辞書の更新》
再学習──それは、私の『迷い』をデータとして焼き直し、
再び『最適』へ導くための処理だ。
リアはまだ眠る。短い吐息が枕を濡らし、睫毛に霜のような涙が光る。
私は端末を持ち、戸口から外へ出た。
夜明け前の大気はガラスの匂いを帯び、肺を切り裂くほど冷たい。
遠い野犬の遠吠えが薄紫の空を震わせ、背骨をぞくりと撫でる。
手の平の端末は微弱な熱を帯び、心臓の鼓動より速い振動で迫る。
◆選択しない選択
私は笑った。
雪面に白い息を吐き、親指で画面を横へ払う。
通知は消えた。
世界は静かに、しかし確実に回り続ける。
遠い町ではAIが裁きを下し、子どもの感情が最適化され、
株価が騰がり、人は痛まず、泣かず、迷わない。
だがここには間違いだらけの寒気と、震える鼓動がある。
氷点下の痛みはアルゴリズムの外側にある。
リアが戸口に立ち、小さく手を振る。
「朝ごはん、焦げちゃう!」
私は端末をポケットに滑り込ませ、足跡を踏み潰しながら戻る。
雪が軋む音が、小さな花火のように跳ねた。
選ぶということは、最適ではない。
それでも私は、選ばない自由を選んだ。




