第9話 イリュシア・ネージュ・メッツァガルド
「その手袋を、外しなさい」
繰り返された姫の声。
大きくはないのに、妙にはっきりとノアの耳に届く。
有無を言わせぬ響き。
主君からの、絶対的な命令だ。
アランは、すぐには動かなかった。
手にしていたナイフとフォークを、ことり、と静かに皿の上に置く。
その動きは普段通り、落ち着いているようにノアの目には映った。
アランは、やがてゆっくりと口を開いた。
声はどこまでも柔らかく、丁寧だ。
「……姫様。大変申し訳ございませんが、それはご容赦いただけませんでしょうか」
「何か理由があるのですか?」
「は……」アランは、少しだけ視線を伏せた。本当に申し訳なさそうな素振りだ、とノアは思った。「実は……以前の戦いで、この左手に、少々見苦しい傷を負ってしまいまして。まだ治りきっておらず、とても皆様の御前でお見せできるような状態では……。お食事の席で、皆様の気分を害しては申し訳ないと……」
もっともらしい話だった。
騎士としての務め、周囲への配慮。
完璧な言い訳だ。
他の騎士たちの中に、その言葉に納得したような顔をしている者がいるのを見た。
姫はアランの言葉にうなずいた。
「アラン。騎士にとって、任務で負った傷は誉れです」
凛とした声。
食堂の隅々まで響き渡る。
「それを隠すことこそ、騎士の名誉を汚す行為ではありませんか?」姫はつづけた。「見苦しいなどと、誰が思いましょう。あなたの忠誠と勇気の証を、誰が笑うというのですか」
姫は、ゆっくりと周りを見渡した。
その視線を受け、何人かが慌てて首を横に振るのをノアは見た。
「もし、万が一にも、あなたの傷を嘲笑うような不心得者がこの場にいるならば――」姫の声に、明確な怒気がこもるのをノアは感じた。「この私、イリュシア・ネージュ・メッツァガルドが、断じて許しません」
場の空気が、さらに張り詰めるのをノアは感じた。
誰もがアランの次の言葉を待っている。
――さあ、外せ。その手袋を。その下に隠されたものを、見せろ。
ノアは心の中で叫んだ。
しかし。
アランは、それでも動かなかった。
重い沈黙。
「アラン」姫が、低く、鋭く名を呼んだ。
最後通告のように、ノアには聞こえた。
やがて、アランは再び口を開いた。
その声は、先ほどまでの柔らかな響きを失い、硬く、そして絞り出すような響きを帯びていた。
「……お許しください、姫様。ですが……どうしても、この手袋をお見せするわけにはまいりません」
「理由を聞きましょう」姫の声は変わらず、冷徹だった。
「それは」アランは言葉を切った。わずかに震える声。「皆様に笑われるとか、そのようなことを恐れているのでは……断じて、ありません」
アランは顔を上げた。
「これは……ただ、私の、醜い我儘なのです」
「我儘……?」
「はい」アランは力なく頷いた。「この傷は……騎士としての誉れなどでは、決してない。むしろ……私の、未熟さ、愚かさの証。見るに堪えない、醜悪な……私自身の、一部なのです」
その声は、悲痛な響きさえ帯びていた。
「だから……誰にも、見られたくない。見せたくない。これは……私の、矮小な、エゴなのです。どうか……どうか、この見苦しいエゴを、お許しいただけませんでしょうか」
そう言うと、アランは再び深く頭を下げた。
肩が、微かに震えているように見えた。
それは、あまりにも真に迫った懇願だった。
騎士としての誇りではなく、一個人の、痛切な叫び。
――違う。
ノアは叫びたかった。
これは演技だ。
姫様を……皆を欺くための、巧妙な芝居なのだ。
だが、ノアには何も言えなかった。
証拠がない。
未来視を見たなどと言っても、信じてもらえるはずがない。
姫は、黙ってアランを見つめていた。
その表情からは、感情を読み取ることは難しい。
沈黙の後、姫は、ふぅ、と静かに息を吐いた。
それは、諦めとも、あるいは別の決意を固めたともとれる、複雑な響きを持っていた。
「……わかりました、アラン」その声は、先ほどまでの厳しさをわずかに和らげ、どこか疲れたような響きさえ含んでいた。「あなたの気持ちを尊重します。無理強いをしてしまい、申し訳ございません」
「……は。ありがたき、お言葉にございます」
アランは、深く頭を下げたまま、そう答えた。
その声に、安堵の色が滲んでいるのを、ノアは聞き逃さなかった。
姫が矛を収めたことで、食堂の空気は、ほんの少しだけ、緩んだ。
皆、無言で食事を再開したが、その味など、誰にもわからなかっただろう。
ノアも、ただ機械的に空になった皿を下げ、水を注ぐだけだった。
――犯人は、アランだ。ほぼ、間違いない。
ノアは確信していた。
あの異常なまでの拒絶。エゴだと言い訳した、その必死さ。
すべてが、彼が何かを隠している証拠だ。
宴はつづいていた。
不意に、イリュシア姫がカトラリーを皿の上に置いた。
カチャン、という小さな音が、妙に大きく響く。
まだ食事は、半分も終わっていない。
姫は、真っ直ぐにノアを見た。
その瞳には強い決意の色が宿っている。
「宿屋の少年」イリュシアの凛とした声が、静かに響いた。「少し、よろしいですか」
えっ、とノアは内心で戸惑った。
だが、姫の真剣な眼差しに、否応はない。
「は、はい……」ノアがかろうじて返事をすると、姫はすっと席を立った。
「姫様!? まだお食事の途中ですが……」
一番に反応したのは、やはりアランだった。
驚きと不審を隠せない様子で、彼もナイフとフォークを置き、立ち上がりかける。
「少し、外の空気を吸ってきます」姫は、アランの言葉を遮るように、きっぱりと言った。「彼と、二人きりで話したいことがありますので」
その言葉に、食堂がどよめいた。
不自然な状況だ。
なぜ、宿屋の小僧と姫が二人きりで?
しかも、まだ食事が終わる前に?
誰もが、そう思っただろう。
しかし、姫は周囲の動揺など意に介さない。
有無を言わせぬ強い視線でアランを一瞥すると、くるりと背を向け、ノアに顎で促した。
「行きましょう」
ノアは背中に突き刺さるような視線を感じながら、姫の後を追って宿の裏口へと向かった。
ぎぃ、と扉が軋む音を立てて開く。
ひやりとした夜気が、火照った頬に心地よかった。
空には星が瞬き、虫の声だけが聞こえる。
二人は、人目につかない宿の壁際に並んで立った。
「……強引でしたか?」姫が、少しだけ悪戯っぽく微笑んで言った。
「い、いえ……。でも、驚きました」
「あのままでは、埒が明かないでしょう」姫はすぐに真剣な表情に戻った。「アランは、何かを隠している。それは、ほぼ間違いない。問題は、それが何か、そして、いつ動くか……」
姫は、そこで言葉を切った。
ノアも、ゴクリと唾を飲む。
これからどうするべきか、具体的な策を練らなければならない。時間は、あまり残されていないのかもしれないのだから。
姫が再び口を開こうとした、まさにその瞬間だった。
――ガッシャァァァンッ!! バリィィンッ!!
窓ガラスが無残に砕け散る轟音が、夜の静寂を引き裂いた。
二人は、弾かれたように顔を見合わせた。
カクヨムで新作書いてます!
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ぜひ第1話だけでも読んでみてください!!
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