第8話 その手袋を、外しなさい
「どうか、あなたの力を貸してください。いいえ……共に、戦ってください、ノア」
差し出された、白く美しい手。
イリュシア姫の真摯な瞳が、真っ直ぐに少年――ノアを射抜いていた。
――対等の、仲間。
その言葉が、ノアの胸の奥で熱く響いた。
ただの宿屋の息子である自分を、彼女は一人の人間として、共に運命に立ち向かう『戦友』として、認めてくれたのだ。
前世では、誰かの役に立つことなんて、考えられなかった。
病室のベッドの上で、ただ、無力に時が過ぎるのを待つだけだったから。
でも、今は違う。
この健康な身体がある。
未来を知る力がある。
そして――目の前には、自分を信じ、共に戦おうと言ってくれる人がいる。
迷いは、もうなかった。
込み上げてくる熱い感情のままに、ノアは彼女の手を、強く握り返した。
「はい……! 僕にできることなら、なんだって!」
姫の手は、驚くほど柔らかく、そして少しだけ冷たく感じられた。
でも、その握り返す力には、確かな強さが宿っているのをノアは感じ取った。
ノアの肩の上で、フィーリアが嬉しそうに小さな拍手をしている気配がした。
「ありがとう、ノア」イリュシアは、ふわりと微笑んだ。それは、先ほどまでの緊張感を忘れさせるような、年相応の少女らしい、柔らかな笑顔に見えた。「心強い仲間ができて、嬉しいです」
二人は、どちらからともなく手を離した。
短い握手。
だが、ノアにはそれが確かな誓いの儀式のように感じられた。
「さて……」イリュシアは表情を引き締め、現実へと意識を戻す。「まずは宿へ戻りましょう。夕食の席で、例の指輪を持つ者――犯人を見つけ出す。それが、私たちの最初の戦いです」
「はい!」
ノアたちは頷き合い、薄暗い雑木林を後にした。
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宿に戻ると、厨房は戦場のような慌ただしさだった。
香ばしい匂いと湯気が立ち込め、母――アメリが額に汗して駆け回っているのが見えた。
「あら、ノア! 夕食の準備、手伝ってくれる?」
「ごめん、母さん。すぐやるよ!」
ノアは慌ててエプロンをつけ、母の指示に従って野菜を洗い始めた。
「それにしても」アメリは息をつく暇もなく喋り続ける。「姫様、本当に綺麗で、気さくで、素敵な方ねぇ! あんな方がうちなんかに泊まってくださるなんて……お父さんの繋がりかな」
「……父さんが?」
「ええ。ラグナはね、昔……その、ちょっとだけ、王宮と関わりがあったみたいだから」母は少しだけ言い淀んだように見えた。「詳しいことは、私もよく知らないんだけど……」
父と、王宮。
そして、父と繋がりがあった妖精フィーリア。
ノアの知らないところで、色々なことが繋がっているのかもしれない。
でも、今はそれを考えている場合じゃない、とノアは思考を切り替えた。
「母さん、今日のメインって何にするの?」ノアは野菜を刻みながら尋ねた。「あのさ、もし決まってないなら、お願いがあるんだけど……」
ノアの頭の中には、ある作戦が浮かんでいた。
犯人の手袋を、より自然に外させるための、小さな策だ。
「ああ、メインね! もう決まってるわよ!」母は得意げに胸を張った。「ふふ、ノア、あなたの大好物よ! 村特産の猪肉を使った、特製デミグラスソース煮込み!」
「えっ!? 本当に!?」
ノアは思わず声が大きくなった。
猪肉のデミグラスソース煮込み。
濃厚で、少し甘酸っぱいソースがたっぷりの、あの料理。
それは、ノアがまさに提案しようとしていた料理だった。
ソースがたっぷりかかっていて、両手でもってかぶりつくのが基本的な食べ方だ。
「もちろんよ! 姫様にも、この村自慢の味を召し上がっていただかないとね!」母は、ノアの驚きように満足したのか、にこにこと笑っているように見えた。「さあ、ぼやぼやしてないで! どんどん盛り付けを手伝ってちょうだい!」
「うん!」
偶然とはいえ、好都合だ。
運命は、まだ自分たちを見捨てていないのかもしれない、とノアは少しだけ希望を感じた。
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やがて、宿の小さな食堂は、賑やかな喧騒に包まれた。
中央の大きなテーブルには、イリュシア姫。
その隣には、相変わらず涼しい顔をした近衛騎士団長アランが座っている。
他の騎士たちや、質素だが清潔な服を着た侍女たちも席についていた。
豊穣祭の手伝いに来ていた村の娘たちも、隅の方のテーブルで、少し緊張しながらも楽しそうにお喋りをしているのが見える。
ノアは給仕役として、出来上がった料理を運んだり、飲み物を注いだりしながら、食堂全体に注意深く視線を巡らせていた。
特に、姫の護衛たちの――手元に。
前菜、スープ……。
まだ、誰も手袋を外す気配はない。
アランはもちろん、他の騎士たちも、礼儀作法なのか、あるいは警戒心からか、革の手袋をつけたままだった。
侍女たちの中には、レースの手袋をしている者もいる。
焦りが、じわりとノアの胸に広がってくる。
本当に、この方法で犯人を見つけられるのだろうか……?
ノアはちらりとイリュシア姫に視線を送った。
彼女は穏やかな笑みを浮かべ、村の娘たちと談笑していた。
だが、その空色の瞳の奥には、ノアと同じ、鋭い観察の光が宿っているように見えた。
ノアは、彼女と無言のうちに連携しているような感覚を覚えた。
そして――ついに、メインディッシュが運ばれる時が来た。
母が、大きな銀のトレイに山と盛られた猪肉のデミグラスソース煮込みを、誇らしげにテーブルの中央へ置いた。
湯気と共に、食欲をそそる濃厚な香りが広がる。
「さあ、皆様! どうぞ召し上がれ! 村自慢の猪肉を、特製のソースでじっくり煮込みました!」
母の威勢の良い声に、食堂のあちこちから「おおー!」という歓声が上がったのが聞こえた。
ノアも、他の給仕係の村娘たちと一緒に、一人一人に取り分けていく。
たっぷりのソースが、肉の上で艶やかに光っている。
――頼む……!
ノアは心の中で、強く念じた。
ソースが服に跳ねるのを嫌ってか、あるいはナイフとフォークをしっかり使うためか。
騎士の一人が、まず、ごく自然な仕草で革の手袋を両方とも外した。
続いて、別の騎士も。侍女たちも。
皆、目の前の美味しそうな料理に気を取られているようだ。
ノアは、息を詰めて彼らの指先を見た。
指輪はない。
太く、節くれだった騎士の手。
細く、手入れされた侍女の手。
そこには、蛇の意匠など、どこにも見当たらない。
残るは――。
視線が、自然とアランへと集まる。
彼は、優雅な手つきでナイフとフォークを手に取っていた。
そして――右手の、黒い革手袋だけを、ゆっくりと外した。
だが、左手の手袋は、つけたままだった。
アランは、左手袋をつけたまま、実に器用に肉を切り分け始めた。
一見、ソースから手袋を守るための配慮のようにも見える。あるいは左利きなのかもしれない。
だが、他の者は皆、両手を露わにしているのだ。
なぜ、アランだけが片方を頑なに隠すのか?
見る人によっては、それは酷く不自然な光景に映っただろう。
おかしい。
明らかに、不自然だ。
ノアの心臓が、ドクン、ドクンと大きく脈打つ。
間違いない。
あの左手の手袋の下に、きっと……あの蛇の指輪が!
視線が、イリュシア姫と交錯した。
彼女の瞳にも、ノアと同じ確信の色が浮かんでいるように見えた。
静寂を破ったのは、イリュシア姫だった。
彼女は、手にしていたフォークを、カチャン、と静かに皿の上に置いた。
そして、凛とした、しかし氷のように冷たい声で、言った。
食堂にいる、すべての者の視線が、姫へと向いた。
「アラン」
その声は、決して大きくはなかった。
だが、食堂の隅々まで、驚くほどはっきりと響き渡った。
「その手袋を、外しなさい」
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