第4話 潜入
宿の外が、にわかに騒がしくなった。
複数の馬が嘶く声、重い車輪が土を踏む音、そして人々のざわめき。
――もう来たのか!?
窓からそっと外を窺う。
宿の正面玄関に、立派な紋章の入った豪奢な馬車が数台停まっていた。
強い日差しの中、護衛や侍女らしき人々が慌ただしく動き回っている。
母の声も聞こえてくる。きっと、大忙しなのだろう。
「フィーリア、頼んだよ!」
「はい! かしこまりました!」
フィーリアの元気な返事に、ノアはわずかに安堵した。
だが、すぐに不安が胸を締め付ける。本当にうまくいくのだろうか……。
「姫様の部屋は、二階の一番奥、突き当たりの角部屋だ。豪華な扉だからすぐわかると思うけど……間違えないでね」念を押すように繰り返す。
「しっかり覚えました! お任せください!」フィーリアは自信たっぷりに胸を張る。その小さな姿が、今は頼もしく見えた。
ノアは自室の木のドアをゆっくりと、音を立てないように少しだけ開けた。
廊下に人影はない。
母も階下で忙しくしているだろう。
護衛たちは姫様の部屋の周辺――おそらくドアの前や廊下の要所に配置されているはずだ。
「よし……行ってくれ、フィーリア!」
ノアの声に頷くと、フィーリアはドアの隙間から廊下へと、ふわりと舞い出した。
その小さな背中が見えなくなるまで見送る。
パタン、と静かにドアを閉める。
ドアに背中を預けたまま、僕は大きく息を吐いた。
心臓が、やけにうるさく鼓動している。
――頼むぞ、フィーリア。
待つ時間は、まるで針が止まったかのように遅く感じられた。
どのくらい経っただろうか。
体感では十分にも満たないはずだが、もう一時間くらい経ったような気さえする。
落ち着かなくて、部屋の中を意味もなくうろうろと歩き回る。
その時。
開けていた窓から、ひらりと小さな影が舞い込んできた。
「ノア様っ! ただいま戻りました!」
待ち望んだ声だ。
ノアは窓辺へ駆け寄った。
「フィーリア! どうだった!? 大丈夫だったのか!?」
フィーリアは、少しだけ息を切らせて、興奮した様子でぶんぶんと首を縦に振った。
「はい! ばっちりです! 問題なく実行できました!」
――よかった……!
「本当か!? 見つかったりしなかったか? ちゃんと、姫様本人に渡せたのか?」
矢継ぎ早に質問してしまう。
「もちろんです! お部屋に入る瞬間を狙って、ふわ~っと一緒に入って……。侍女さんが一人いましたけど、全然気づいてませんでした!」フィーリアは得意げに胸を反らす。「それで、姫様が椅子に座ったタイミングを見計らって、目の前のテーブルに、そーっと」
まるでスローモーション映像を再現するかのように、フィーリアは手紙を置く仕草をする。
「手紙は、無事に渡せた、と。それは分かった。それで……姫様は? 何か言ってたか? どんな様子だった?」
一番聞きたいのはそこだ。
手紙を読んで、どう思ったのか。会いに来てくれるのかどうか。
フィーリアは、そこで少しだけ言い淀んだ。
あれ? とノアの心に小さな不安がよぎる。
「えっと……それが……」フィーリアは人差し指を頬に当てて、首を傾げる。「お話は、できませんでした」
「え?」
「手紙を置いた瞬間、姫様は『え?』って感じで驚かれて、すぐに手紙を手に取って……。私が『ノア様からです!』って小声で言ったら、また『えっ!?』ってなって。それで、すぐに手紙を読み始めたんですけど……」
ごくり、とノアは唾を飲み込んだ。
「読み始めたんだけど……どうしたんだ?」
「ちょうどその時、扉の外から騎士の人が『姫様、お茶をお持ちいたしました』って声をかけてきて……。姫様、慌てて手紙をドレスの袖の中に隠しちゃったんです。それで、私も急いで部屋から飛び出してきちゃったので……」
なるほど。
話す時間はなかった、と。
まあ……仕方ないか。
手紙が無事に渡って、読んでもらえたのなら、それで十分だ。
あとは、姫様の判断を待つしかない。
「わかった。よくやってくれた、フィーリア。本当にありがとう」
ノアはフィーリアの頭をそっと撫でた。
彼女はくすぐったそうに目を細める。
「僕たちは、やれるだけのことはやった。あとは、姫様が来てくれるのを信じて、約束の場所へ行こう」
「はい!」
ノアはフィーリアを連れ、裏口からこっそりと宿を抜け出すことにした。
まだ陽が高い。
夕食の準備にはまだ時間がある。
目指すは、宿の裏手……少し離れた雑木林の中にある古い井戸だ。
子供の頃、何度か探検気分で近づいたことがあった。
宿の敷地を抜け、雑木林へと続く小道に入る。
昼間だというのに、木々が生い茂り、少し薄暗い。
「ここ……あんまり人が来なさそうですね」フィーリアが小声で言った。
「ああ。昔から、あまり使われてない井戸なんだ。水も枯れかかってるって話だし」
だからこそ、密会には都合がいい。
歩くこと数分。
木立の向こうに、苔むした石造りの円が見えてきた。
古井戸だ。
石組みは所々崩れかかっていて、蔦が絡みついている。
人気のない場所だった。
――ここで待つしかない。
本当に、姫様は来てくれるだろうか。
ただの宿屋の息子の、怪しげな手紙を信じて。
しかも、「一人で来てください」なんて、無茶な要求までしてしまった。
不安が再び鎌首をもたげる。
もし、来なかったら? 手紙を読んでも、無視されたら?
そうなったら、もう打つ手がないかもしれない。
井戸の縁に腰を下ろす。
石がひんやりと冷たい。
時間が経つのが、やはり遅く感じる。
太陽が西に傾き始めているのが、木々の隙間から見える光の色でわかった。
焦りが募る。
もう、来ないのかもしれない……。
諦めかけた、その時だった。
――カサリ。
背後の茂みが、微かに音を立てた。
ノアは、弾かれたように立ち上がり、音のした方へ振り向いた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
茂みから、一人の人影が現れた。
小柄な……少女?
いや、違う。
着ているものが、質素な旅人のマントで、フードを目深に被っている。顔はよく見えない。
だが、その佇まい、雰囲気には、隠しようのない気品のようなものが漂っていた。
フードの奥から、こちらを窺う視線を感じる。
緊張と……警戒の色。
間違いない。
――姫様だ。
カクヨムで新作書いてます!
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本作を楽しんでいただける読者の方におすすめです!!
ぜひ第1話だけでも読んでみてください!!
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