第17話 リンドゥ村と、従姉のネリィ
ガタン、ゴトン――数日間、ノアたちの世界はその単調なリズムに支配されていた。
窓の外を流れる景色にも既視感が漂い始めている。
王都への道のりの長さを実感していた、そんな折だった。
「姫様、まもなくリンドゥ村に到着いたします」
馬車の前席から、御者の声が届いた。
「王都への長旅も考慮し、ここで二日間、滞在する予定となっております。馬の十分な休息と蹄鉄の確認、物資の補給に加え、皆様にも英気を養っていただきたく存じます」
リンドゥ村。
街道沿いの活気ある村だ。
旅人向けの施設が充実しており、しばし羽を伸ばすには良い場所だろう。
そして、ノアにとっては、母の妹――叔母が暮らす、僅かながらに縁のある土地でもあった。
馬車は速度を緩め、石畳が敷かれた村の中心にある広場へと滑るように停止した。
車窓越しに広がる光景は、懐かしい。
荷を運ぶ商人たちの威勢の良い掛け声。
露店に並ぶ色とりどりの品々。
家畜の鳴き声と香ばしい焼き菓子の匂い。
村全体が生き生きとしたエネルギーに満ちている。
「到着しましたね」
姫――イリュシアが静かに呟き、隣で微睡んでいた侍女のセラが、はっと目を開けた。
扉が開かれ、護衛騎士の手を借りて姫が優雅に降り立つ。
セラ、そしてノアもそれに続いた。
久しぶりに踏む安定した地面と、馬車の中とは違う新鮮な空気。
ノアは無意識に深く息を吸い込んだ。
肩の上では、フィーリアも小さな羽をぱたぱたと動かしている。
彼女にとっても、この開放感は心地よいのだろう。
「人がいっぱい! 活気がありますね、ノア様!」
『ああ。僕の村とは全然違うな……』
「姫様、あちらの【銀の竪琴亭】に滞在中の部屋を用意いたしました。村で最も格式高い宿とのことでございます。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
騎士が指し示したのは、広場に面したひときわ立派な三階建ての宿屋だった。
美しい木彫りの竪琴の看板が掲げられている。
一行がその宿へ向かおうと歩き出した、まさにその時だった。
「あれーっ!? ノアじゃない! 本当にノア!?」
弾けるように明るく、よく通る声が広場の喧騒を突き抜けてきた。
ノアはその声の主をすぐに悟った。
懐かしくて、少しだけ胸が温かくなるような声。
振り向くと。
人波をかき分け、少女が満面の笑みでこちらへ駆け寄ってくるところだった。
太陽の光を弾く栗色のポニーテール。
ポニーテールの根本には、青い鳥の髪飾りをつけていた。
それは、昔、ノアが誕生日のプレゼントで贈ったものだった。
ノアより二つ年上の従姉――ネリィだ。
「ネリィ姉さん!」
思いがけない人物との再会に、ノアの顔にも自然と笑みがこぼれる。
「やっぱりノアだ! もう、何年ぶり!? 元気だった? え、なんでこんなところに? アメリ叔母さんは一緒じゃないの?」
ネリィは昔と変わらぬ親密さでノアの腕を掴んだ。
「母さんは村にいるよ。僕は今、王都に行く途中で……」
「ええーっ!? ノアが王都へ!? すごいじゃない! 何かの修行? それとも、遂に騎士団に!?」
目を輝かせて問い詰めるネリィの視線が、ノアの後ろに立つ姫とセラ、そして物々しい護衛の騎士たちへと注がれた。
息をのむほど美しい姫、隙のない侍女、屈強な護衛たち。
明らかに普通の旅ではない、特別な一行であることは一目瞭然だった。
「えっと、こちらはイリュシア様。僕は、訳あって王都までお供させていただくことになって……」
言葉を探しながら説明するノアに、イリュシア姫が静かに一歩前に出た。
貴人としての威厳を保ちつつも、相手に緊張を与えない、絶妙な微笑みを浮かべている。
「はじめまして。わたくしはイリュシアと申します。ノアには、この旅で大変お世話になっているのです」
「は、はじめまして……! イリュシア様……!」
ネリィは完全に舞い上がっていた。
顔を真っ赤にし、慌てて慣れない貴族風のお辞儀をする。
「わたくしはネリィと申します! ノアの、従姉にあたります!」
憧憬と緊張が入り混じった声。
姫の圧倒的な美しさと気品に、完全に心を奪われている様子だ。
「まあ、ノアのご親戚。ご縁ですわね」姫は穏やかに微笑んだ。「私たちは、この【銀の竪琴亭】に二日ほど滞在する予定です。もし、明日あたり、お時間が許すようでしたら、お茶でもご一緒しませんか? ノアの昔のお話など、ぜひ伺ってみたいものです」
「えっ!? わたくしのような者が、そのような……よろしいのでしょうか!?」
ネリィは信じられない、というように目を白黒させている。
姫からの思いがけない誘いに、戸惑いを隠せないようだ。
だが、その瞳の奥には、好奇心と、そして断るにはあまりにも魅力的な申し出に対する、わずかな期待が揺らめいていた。
「ええ、ぜひ。明日の午後あたり、いかがでしょうか?」
「はいっ! 必ず、伺わせていただきます!」
ネリィは深々と頭を下げた。
「ノア、頑張ってね」
そう言って、ネリィは微笑んだ。
懐かしい笑みだった。
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【銀の竪琴亭】の最上階。
ノアは、その部屋の広さと豪華さに、ただただ圧倒されていた。
姫の強い意向により、ノアは姫と同じ部屋で二日間を過ごすことになった。
表向きは『特別従者』として、姫の身辺警護のため――ということになっている。
本当の理由は、姫とノア、そしておそらくフィーリアしか知らない。
もし、ノアの身に危険が及べば、未来視が発動するはずだ。
万が一の脅威に対する最後の切り札として、姫はノアを傍に置くことを決めたのだ。
少し宿を見てこよう、とノアは思った。
「姫様」
ノアの声に、姫がゆっくりと目を開けた。
「どうしました、ノア?」
「すみません。少しだけ、外の空気を吸ってきてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん」姫は小さく頷いた。「何かあれば、すぐに知らせるのですよ」
「はい。ありがとうございます」
ノアは軽く会釈し、音を立てないように部屋の扉を開け、廊下へと出た。
廊下には、数歩おきに屈強な護衛騎士が立ち、厳重な警備体制が敷かれている。
彼らはノアを一瞥したが、特に何も言わなかった。
ノアは階段を下りて一階へと向かった。
一階には、宿泊客が自由に使えるラウンジがあった。
暖炉には静かに火が燃え、柔らかな絨毯の上にはいくつかの革張りのソファやテーブルが置かれている。壁には鹿の剥製や古い絵画が飾られ、落ち着いた雰囲気だ。
夕食にはまだ早い時間帯なのか、ラウンジにはノア以外に人影はまばらだった。
ノアは、一番隅にある一人掛けのソファに深く腰を下ろした。
ふかふかの革が身体を受け止め、ほんの少しだけ、張り詰めていた気が緩む。
――少し、疲れたな……。
ぼんやりと暖炉の炎を見つめる。
ゆらめくオレンジ色の光。
パチパチと薪が静かに爆ぜる音だけが、やけに大きく耳に届いた。
不意に、声がかかった。
「失礼いたします。そちらにいらっしゃるのは、イリュシア姫様の従者の方でいらっしゃいますか?」
慌てて顔を上げる。
そこに見知らぬ女性が立っていた。
いつからそこにいたのか、気配すら感じなかった。
年の頃は二十代半ばだろうか。
上質な、しかし華美ではない旅装に身を包んでいる。
切れ長の瞳は理知的で、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「はい、一応、従者です」
女性は、ふわりと優雅に微笑んだ。
「やはり、そうでしたか。申し訳ありません、突然。わたくし、エステルと申します。しがない魔法具職人でして」
「魔法具……職人……?」
「ええ。この村には、材料の仕入れと情報交換のために立ち寄っておりました」エステルは自然な仕草で、しかし有無を言わせぬ雰囲気でノアの隣のソファを示した。「ちょうど、イリュシア姫様がご滞在と伺って驚いていたところです。少しだけ、お時間を頂戴しても?」
断る理由もない。
「ええ、どうぞ」
ノアが頷くと、エステルは音もなく隣のソファに腰を下ろした。
微かに、薬草のような独特の香りがした。
一瞬の沈黙。
暖炉の薪がパチリと音を立てた。
エステルは、何かを切り出すタイミングを計るように、静かにノアを見つめている。
その視線はやはり、穏やかだが鋭い。
やがて、彼女は少しだけ身を乗り出し、声を潜めた。
まるで、秘密を打ち明けるかのように。
「実は、姫様の護衛の中に、顔見知りがおりまして」
「……顔見知り?」
ノアは眉をひそめる。
話が見えない。
一体、何が言いたいのだろうか。
「はい」エステルは頷く。その瞳が、意味ありげに細められた。「護衛、というより……姫付きの侍女をされている、セラ。ご存知ですか?」
なぜ、ここでセラさんの名前が?
「……知っていますが」ノアは慎重に言葉を選んだ。
「まあ、ご存知でしたか」エステルは嬉しそうに微笑む。だが、その目は笑っていない。「わたくし、セラとは同郷なのです。幼馴染というほど近くはありませんでしたが、昔から互いをよく知る間柄でして」
彼女は、そこで言葉を切った。
まるで、ノアの反応を窺うかのように。
ノアは黙って次の言葉を待つ。
「それで……」エステルの声のトーンが、さらに一段階、低くなった。真剣な響きを帯びている。「先日、姫様を襲ったという騎士……アラン様が、邪教徒だったという噂を耳にしまして。驚きました。まさか、あの実直そうな方が、と」
ノアは、思わず息を呑んだ。
「それで、思ったのです。もしかしたら、これは姫様にお伝えしておかなければならないのではないか、と」
「何をですか?」
エステルは、ノアの目を真っ直ぐに見据えた。
そして、静かに、しかしはっきりと告げた。
「セラとアランは、かつて――深く愛し合った、恋仲だった時期があるのです」
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