第16話 二人は、一つの部屋で、静かな時間を過ごした。
「ノア……眠れなくて。少しだけ、お話できませんか?」
その問いかけは、命令でも要求でもなかった。
「はい。もちろんです」
ノアは頷いた。
姫の後につづき、彼女が使っている客室――宿で二番目に豪華な部屋と向かう。
あの豪奢な部屋からは少し離れたところにある部屋だった。
重厚な扉の前には、質素な服を着た侍女が一人、心配そうな面持ちで立っていた。
姫と、その後ろに続くノアの姿を認めると、侍女は驚いたように目を見開いた。
「姫様! それに……あなたは宿屋の」侍女はノアを見て、あからさまに眉をひそめた。「このような夜更けに、男性を自室へお連れになるなど、なりません! いけません、姫様!」
侍女は慌てて姫の前に立ちはだかろうとする。
彼女なりに主君を守ろうとしているのだろう。
だが、姫は静かに、しかし強い意志で侍女を見据えた。
「セラ」その声は有無を言わせぬ響きを持っていた。「下がりなさい。今夜は、彼と二人きりにしてください」
「し、しかし、姫様! 万が一にも賊が戻ってきたら……! それに、このようなことが外に知れたら……!」
「騎士たちが廊下を警護しています。心配はいりません」姫はきっぱりと言い切った。「それに……彼がそばにいれば、私は大丈夫です。セラ。これは命令です」
最後の一言は、絶対的な響きを持っていた。
侍女のセラは、唇を噛みしめ、不承不承といった様子で、それでも深く頭を下げた。
「……御意に」
セラは、恨みがましい視線を一瞬だけノアに向けた。
その後、音もなく廊下の隅へと下がり、壁際の闇に溶け込むように気配を消した。
「行きましょう、ノア」
姫は、少しだけ疲れたように息をつくと、ノアを促し、重い扉を開けた。
ノアはそっとドアを閉める。
二人きりの空間。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
姫は、部屋の中央にある豪奢なソファに腰を下ろすようノアに促した。
ノアは、少し戸惑いながらも、言われた通りにソファに腰を下ろす。
月明かりが、大きな窓から差し込み、彼女の横顔を白く照らし出す。
その表情は、やはり硬く、まだ恐怖の色が抜けきっていない。
ノアは、どう言葉をかければいいのかわからず、黙って隣に座っていた。
沈黙が流れる。
やがて、姫がぽつり、と話し始めた。
その声は、やはり震えていた。
「怖かった」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「アランが剣を抜いた瞬間、本当に、死ぬのだと……」彼女は自分の腕を抱きしめるようにして、身体を小さく震わせた。「あの光の壁が砕け散った時、目の前が真っ暗になって……」
普段の凛とした姿からは、想像もできない弱々しさだった。
王家の姫としての仮面が剥がれ落ち、ただ死の恐怖に怯える、一人の少女の姿がそこにはあった。
「あなたの声が、聞こえなかったら」姫は顔を上げ、潤んだ瞳でノアを見た。「あなたの、あの、不思議な力がなければ、私は、きっと……」
言葉は途切れ、姫は再び顔を伏せた。
肩が、小刻みに震えている。
「ノアが……あなたが、ここにいてくれて、本当に良かった」
何の飾りもない感謝と、そして深い安堵。
彼女がどれほどの恐怖と孤独の中にいたのか、ノアには痛いほど伝わってきた。
ノアは、何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉を、その震えを、受け止めることしかできない。
自分がしたことなど、未来の断片を伝えただけだ。
実際に戦い、アランを打ち破ったのは、目の前の彼女自身なのだから。
でも、姫は、ノアの存在そのものに救われたと言っている。
その事実が、ノアの胸を強く打った。
前世では、誰かの役に立つどころか、心配をかけるばかりだった自分が。
今、こうして、誰かの支えになっている。
姫は、意を決したように顔を上げた。
その瞳はまだ潤んでいたが、強い光が宿っている。
「ノア」
彼女は、まっすぐにノアを見つめた。
その眼差しは、先ほどまでの弱さとは違う、何かを切実に求める響きを帯びている。
「一つ、お願いがあります」
声は、やはり少し震えていた。
言い出すのを、躊躇っているのがわかる。
姫は、一呼吸置いた。
その白い頬が、わずかに赤らんでいるように見えるのは、月明かりのせいだろうか。
「眠りにつくまでで、良いのです。どうか……」
彼女は、祈るように言葉を紡いだ。
「私のそばに、いてはいただけませんか?」
貴人としての矜持をかなぐり捨てた、ただ一人の少女としての、切実な願い。
死の淵を共に覗き込み、命を預け合った、唯一心を許せる『仲間』に対する、魂からの懇願だった。
ノアは息を呑んだ。
予想だにしなかった、姫の言葉。
そのあまりにも真摯な響きに、一瞬、戸惑いを覚える。
貴族の、それも姫君が。
宿屋の、ただの息子である自分に。
そばにいてほしい、と。
常識的に考えれば、ありえないことだ。
身分が違いすぎる。
立場が違いすぎる。
だが、ノアは、彼女の瞳の奥にある、まだ癒えぬ恐怖を感じ取っていた。
今、彼女は姫ではなく、ただ助けを求める一人の人間なのだ。
そして、自分を必要としてくれている。
『必ず守る』
そう誓ったはずだ。
そして、実際にそばにいることが、彼女を守る最善の方法かもしれない。
未来視が発現しなければ、自分と姫の命は守られるのだ。
「わかりました」ノアは言った。「姫様が眠りにつかれるまで、ここにいます」
姫の瞳が、わずかに見開かれた。
そして、すぐに、深い安堵の色が広がっていく。
「ありがとう」
その声は、感謝と、そして少しだけ、照れたような響きを含んでいた。
その夜。
二人は、一つの部屋で、静かな時間を過ごした。
姫はベッドに横になった。
疲労は限界のはずなのに、やはりなかなか寝付けないようだった。
時折、浅い呼吸と共に、悪夢でも見ているかのように身じろぎする。
ノアは、ベッドから少し離れた場所に置かれていた、客用の立派な椅子に腰を下ろしていた。
静かに姫を見守る。
触れそうで触れない距離。
聞こえるのは、姫のかすかな寝息と、虫の声だけ。
不意に、姫が薄っすらと目を開けた。
天井をぼんやりと見つめた後、か細い声でノアを呼ぶ。
「ノア」
「はい。ここにいます」
姫は、ゆっくりとノアの方へ顔を向けた。
月明かりに照らされた瞳が、不安げに揺れる。
「あの、迷惑でなければ……」ためらいながらも、姫は言った。「手を握ってはいただけませんか?」
その囁きに、ノアは一瞬戸惑った。
あまりにも親密すぎる行為だ。身分も違いすぎる。
姫は、ノアの戸惑いを察し、慌てて付け加えた。
「ごめんなさい、変なお願いですよね。小さい頃、悪い夢をみた日は、母が、いつもこうしてくれて……」
ノアは、震える姫の白い手に、そっと自分の指を触れさせた。
ひやりとした感触の後、確かな温もりが伝わる。
姫の指が、ためらいがちにノアの手を握り返してきた。
その弱々しい力に込められた信頼を感じながら、ノアはその手を優しく包み込む。
「あたたかい」
安堵したような姫の呟き。
手の震えが、少しずつ収まっていく。
呼吸も穏やかになり、やがて安らかな寝息が聞こえ始めた。
ノアは、再び椅子に腰を下ろした。
姫の手を握ったまま。
(僕が、この手で、守るんだ)
月が傾き、夜明けが近づいてくる。
ノアは、姫の穏やかな寝顔を見つめながら、静かにその時を待っていた。
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ぜひ第1話だけでも読んでみてください!!
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