第1話 【未来視】発動 ― 今夜、僕と姫様は血塗れで死ぬ
ひどい熱だった。
身体の芯から凍えるようで、がたがたと震えが止まらない。
「ノア、大丈夫?」
優しい声。母親の声だ。
重い瞼を、少年――ノアは、どうにかこじ開ける。
すぐ間近に、心配そうな母親――アメリの顔があった。
喉が、からからに乾いている。声を出そうとしても、うまく音にならない。
差し出された水を、ただ受け入れるしかなかった。
ごくり。
冷たい水が喉を通った、その瞬間。
奔流のような記憶が、ノアの脳髄を焼いた。
――消毒液の匂い。無機質な機械の音。母の……泣く声。
途切れ途切れの映像が明滅する。
白い天井。
ぴくりとも動かない自身の身体。
ベッドの上で、ただ無為に過ごした十七年の日々。
ああ、そうだ。
自分は――死んだのだった。
後悔だけが、乾いた胸を締め付ける。
『ごめんね、強く産んであげられなくて』
そう言って泣いていた母に、『ありがとう』と――そのたった一言が、どうしても言えなかった。
あの時も、声が出なかったのだ。
「ノア?」
母の声。アメリの声が、ノアを現実に引き戻す。
覗き込むアメリの顔が、涙に滲んでいた前世の母と重なって見えた。
「……母さん」掠れた声で、今度こそ言葉を絞り出す。「ありがとう。僕を、産んでくれて」
「ノア? 急にどうしたの」アメリは驚きつつも、ノアの手をそっと握った。その温もりが、じわりと沁みる。「大丈夫。ただの熱よ。ゆっくりおやすみなさい」
熱に浮かされる意識の底で、ノアは強く、強く思った。
今度こそ、生きる。
ちゃんと、生きるのだ。
誰かを守れるくらい、強く――。
その決意だけを抱いて、ノアは再び意識の闇へと沈んでいった。
---
窓から射す光が眩しい。
部屋に満ちる空気が、やけに美味く感じられた。
深く、息を吸う。
身体に力が漲ってくるのがわかる。嘘のようだ。あれほどの熱も悪寒も、綺麗さっぱり消え失せている。
試しに手足を動かしてみる。
軽い。どこにも痛みはない。自由に、思い通りに、動く。
――この身体なら、やれる。
前世では、諦めるしかなかった、たくさんのことが。
そんな確信が、胸の奥から湧き上がってきた。
階段を降りると、小気味よい包丁の音が聞こえる。香ばしい匂いも漂ってきた。
ここは【陽だまり亭】。
母とノアの二人で切り盛りしている、小さな宿屋だ。
父――ラグナは、ノアが物心つく前に死んだと聞いている。それ以上のことは、よく知らない。
「おはよう、ノア。もう大丈夫なの?」厨房から、アメリの明るい声が飛んできた。
「うん。すっかり。もう元気だよ」
「よかったわ」アメリは手を止め、ノアの顔をじっと見つめた。どこか探るような眼差しだ。「昨日は、ずいぶん魘されていたみたいだけど……何か、変な夢でも見たの?」
「え? ああ、夢……」
本当のことなど言えるはずもない。転生したなんて、信じてもらえるわけがない。
「よく覚えてないや。でも、すごく苦しかったのは確かかな」
「そう……」アメリは少し視線を伏せた。「ノア。あなた、昨日、熱に浮かされて言ってたこと、覚えてる? 『ありがとう、産んでくれて』って。『今度こそ、生きる。誰かを守れるように』って……」
「……言った、かな」
「ええ」アメリは頷く。声が、微かに震えているように聞こえた。「まるで……そう、あなたのお父さんが言いそうなことだったから。驚いちゃって……」
「父さんが?」
「あの人は……ラグナはね、優しい人だったわ。でも、少し……優しすぎたのかもしれない」アメリは、どこか遠くを見るような目をした。「あなたがまだ、私のお腹の中にいた頃よ。ラグナが、こんなことを言っていたの」
母の真剣な眼差しに、ノアはごくりと唾を呑んだ。
「『この子は、きっと特別な子だ。普通には生きられないかもしれない。もし……いつか、この子が本当の意味で【目覚めた】なら。その時は、村はずれの森にある古い泉へ導いてやってくれ』……って」
【目覚めた】――。
前世の記憶を取り戻した自分は、確かに【目覚めた】と言えるのかもしれない。父の言う通りに。
「母さん」ノアは真っ直ぐにアメリを見つめた。「僕、その泉に行ってみたい」
アメリは、ふう、と長い息を吐いた。諦めたような、それでいて少しだけ誇らしそうな、複雑な表情だ。
「……仕方ないわね。あなたは、ラグナの息子だもの。危ないことだけはしないでちょうだいね」
「うん。ありがとう、母さん。行ってくる」
心配をかけたくなくて、努めて明るい声を出した。
ノアは【陽だまり亭】を飛び出した。
父が遺した言葉。その意味を確かめに。
そして、この新しい人生で、自分が何をすべきかを見つけるために。
---
村はずれの森。
木々が鬱蒼と茂り、昼間だというのに薄暗い。
湿った土と苔の匂いが鼻をつく。
しん、としていて、どこか寂しい空気だ。人も寄り付かないのだろう。
歩き続けると、不意に視界が開けた。
泉があった。
陽光が木々の隙間から降り注ぎ、水面をきらきらと照らしている。
思ったよりも、美しい場所だった。
だが、水は少なく、淀んでいるようにも見える。満ちているとは言い難い。
――ここが、父さんが言っていた泉か。
泉のほとりに、そっと立つ。
その、瞬間だった。
水面が、静かに、波紋を描いた。
中心から淡い光の粒子が立ち昇り始める。ゆらゆらと、頼りなげに。
光は集まり、次第に輪郭を帯びていく。
それは、小さな人の形をしていた。
――少女?
いや、違う。水面に、ふわりと浮いている。
透き通るような薄い羽。銀色の髪。
明らかに、人間ではない。
妖精、だろうか。
儚く、触れたら消えてしまいそうなほど、綺麗だった。
その瞳が、ノアを捉えた。まっすぐに。
「きみは……?」声が、少し震えた。
「私はフィーリア。この泉に棲む者です」澄んだ声。
「泉の……妖精……。あの、父さんのことを知ってる? ラグナっていうんだけど」
「ええ。ラグナ様……」フィーリアの声に、懐かしむような響きが混じる。「あの方は、この泉と……そして私と、繋がっていましたから」
彼女は少し寂しそうに微笑んだ。
「ラグナ様は、偉大な方でした。多くの悲劇から、この世界を……守ってこられた。人知れず、見えざる脅威と、ずっと戦っておられたのです」
父さんが? 世界を?
ただの宿屋の主人じゃなかったのか?
信じられない。だが、目の前の妖精は嘘をついているようには到底見えなかった。
「父さんは……どうして、死んだの?」
「最後の旅で……ある方を守るために、その命を……」フィーリアは、そっと目を伏せた。長い睫毛が陰を作る。「その影響で、今、この泉の力も失われつつあります。ラグナ様が施した守りも弱まり……世界を覆う悪意が、再び力を増しているのかもしれません」
悪意……?
よくわからない。
だが、父が何か途方もなく大きなものと戦っていたらしいことだけは伝わってきた。
「ラグナ様は、未来を視ておられたのでしょう」フィーリアは、再びノアを見た。その瞳は何かを見定めるかのようだ。「私に、これを託して……こう言いました。『いつか、我が血を受け継ぎ、強い魂を持つ者がここへ現れる。その者が【目覚めた】時、これを渡してほしい』と」
フィーリアが差し出したのは、古びた銀の指輪だった。
派手さはないが、中央には深い青色の石が嵌めこまれている。静かな輝きを放っていた。
「【運命の指輪】。未来に起こる『悲劇』の断片を映し出す力があります。あなたには、これを受け継ぐ資格がある」
「資格……? 僕に、そんなものが……」
「血筋だけではありません」フィーリアは、ノアの瞳の奥を見透かすように言った。「あなたは一度、死を経験している。それでも尚、『生きたい』と強く願った。その魂の輝きこそが、運命を切り開く力となり得るのです。痛みを知るあなただからこそ、他者の苦しみに寄り添うことができる。それこそが、この指輪が求める資質。ラグナ様が遺した、最後の希望なのです」
ノアの魂。前世の記憶。死の経験。
この妖精には、すべてお見通しらしい。恐ろしいほどに。
「ですが」フィーリアは静かに続けた。「この力は、あなたに重い運命を背負わせるでしょう。お父様のように、世界の歪みと……悪意と向き合うことになる。それでも、受け取りますか?」
重い、運命。
父が背負ったもの。自分が?
――自分に、できるのか……?
前世の、何もできなかった自分が脳裏をよぎる。
病院のベッドの上で、ただ無為に時を過ごし、母を泣かせていただけの自分。
――でも。
今度こそ、違う生き方をすると決めたじゃないか。
誰かを守れるように、強くなると。そう、誓ったはずだ。
ノアは、こくりと頷いた。迷いはもうなかった。
「父さんが遺したものが、それなら。僕が継ぐ」
フィーリアから指輪を受け取る。
左手の人差し指にはめると、ひんやりとした感触があった。
まるで最初からそこにあったかのように、指にぴったりと馴染んだ。
「ありがとう、フィーリア。僕は……誰かを守りたいんだ。父さんが守ろうとしたものがあるなら、僕もそれを守りたい」
「はい、ノア様」フィーリアは、どこか嬉しそうに頷いた。「では、早速。力を試してみてください。指輪に意識を集中して……」
ノアは目を閉じた。
指輪に、意識を向ける。銀の感触、石の冷たさ。そこに、精神を集中させる。
瞬間――!
視界が、反転した。
――どこだ、ここ……!? 【陽だまり亭】の……客室か!?
宿で一番、豪奢な部屋だ。普段は滅多に使う客などいない、特別な部屋。
――なんだ、この匂い……!
鼻をつく、鉄錆の濃い臭気。
腹が、熱い。
じわり、と何かが服に広がっていく不快な感覚。
濡れた服が、肌に張り付いて気持ち悪い。
恐る恐る、視線を落とす。
――赤。どす黒い、赤。
血だ。
自分の、腹から流れ出た、血。
寒い。急激に体温が奪われていくのがわかる。意識が遠のきそうだ。
――なんだ……これ……痛い……死ぬ……のか……? また……?
すぐ隣。
誰かが、倒れている。気配でわかる。
金色の髪が、磨かれた床に広がって……。
空色の、豪奢なドレス。それも、無残に赤黒く汚れている。
胸元からだ。夥しい量の血が、泉のように溢れ出ている。
床に、リンゴの形をした金のペンダントが……ぽつんと落ちているのが見えた。
その人は、もう――息を、していなかった。
見開かれたままの青い瞳は、ただ虚ろに、薄暗い天井を映している。
――ひ、姫様……!? なんで……僕と、一緒に……!?
恐怖と混乱のまま、顔を上げる。
黒い影が、そこに立っていた。
深くフードを被り、顔は見えない。
だが、氷のように冷たい殺気だけが、肌をびりびりと刺す。
男の手には、剣。
その切っ先から、粘ついた血が……ぽたり……ぽたりと滴り落ちている。
自分と、姫様の――血だ。
男が、何の感情も窺わせずに、剣を振り上げた。
ゆっくりと。絶望的なほど、ゆっくりと。まるで悪夢の一場面のように。
――やめろッ!
叫びたいのに、声にならない。喉がひきつる。
身体が鉛のように重い。指一本、動かせない。
前世、死の間際に感じたあの無力感が、再びノアの全身を捉える。
――また、死ぬのか……? せっかく、生き返ったのに……? こんな……何もできずに……!? 嫌だ……そんなの、絶対に嫌だッ!!
伸ばそうとした手は、ぴくりとも動かない。
冷たい鋼の光が、振り下ろされる。
すぐ、そこまで――
ぶつり。
唐突に、映像が途切れた。
「――っ! はぁっ、はぁっ……はぁっ……!」
現実。
静かな泉のほとりに、ノアは引き戻されていた。
呼吸が荒い。全身、冷や汗でぐっしょり濡れている。
腹の鈍痛も、鼻に残る鉄錆の匂いも、まだ生々しく感じられた。
吐き気がこみ上げ、咄嗟に口元を押さえる。
身体が、がくがくと震える。止まらない。
心臓が肋骨を内側から叩きつけるように、馬鹿みたいに速く脈打っている。うるさいほどだ。
――今夜……僕と、姫様が……あの部屋で、殺される……?
恐怖。圧倒的な恐怖が、全身を支配していた。
やっと手に入れたこの身体で、また何もできずに死ぬのか?
前世と、寸分違わぬ無力さで?
――冗談じゃないッ!!
奥歯を、ギリ、と噛みしめる。
震える手で、強く拳を握りしめた。爪が食い込む痛みで、わずかに恐怖が和らぐ。
無理やり、思考を切り替える。冷静になれ。考えろ。
なぜ殺される? 誰に? あの黒衣の男は一体……。姫様が狙われる理由は? なんで僕が一緒に……?
疑問ばかりが次々と湧き上がる。
だが、今は情報が足りなすぎる。考えても仕方がない。
――とにかく、悲劇を回避しなければならない。
できるか? そんなことが可能なのか? 否――やり遂げるのだ。必ず。
できるとかできないとかじゃない。やるんだ。絶対に。
ノアは顔を上げた。
顔色は蒼白だったが、その瞳には、揺るぎない意志の光が宿っていた。
「フィーリア……」掠れた声で、絞り出す。「見えたよ。最悪の未来だ。僕と姫様が、今夜、宿で……殺される」
「そんな……! やはり、悪意の残滓が、そこまで……!」フィーリアが息を呑む気配がした。
「大丈夫だ」ノアは言った。自分に強く言い聞かせるように。「死なない。絶対に。姫様も……死なせない」
――悪意? 知ったことか。それが自分の運命だって言うなら……僕が、この手で変えてやる!
決意は、固まった。
その決意を真正面から受け止めるように、フィーリアは力強く頷いた。
「ノア様なら、きっとできます! あなたの手で、新しい未来を掴んでください!」フィーリアが、そっとノアの肩に触れる。小さくて、少しだけ温かい感触だった。
「さあ、行きましょう! 未来を変えに!」
「フィーリアも、一緒に来てくれるのか?」
「はい。私は指輪の所有者と共に在るもの。ラグナ様とも、長い旅を共にしました」
「そっか。……よろしくな、フィーリア」
独りじゃない。
その事実が、ほんの少しだけノアの心を軽くした。
枯れかけた泉を後にする。
今夜、起こるはずの悲劇を、捻じ曲げるために。この手で。
---
村に戻ると、空気が妙に浮ついていた。
明日の豊穣祭の準備もあるのだろう。だが、それだけじゃない。
今日到着したという姫を、一目見ようという野次馬で、広場はごった返している。普段の静かな村とはまるで違う喧騒だ。
――早く宿に戻らないと。母に話して、何か……いや、何を話す? 未来が見えたなんて……。
人混みをかき分けて進む。苛立ちが募る。
見慣れた【陽だまり亭】の古びた看板が見えてきた。
その時だった。
不意に、周囲の喧騒が遠のいた気がした。
ざわめいていた人々の視線が、広場の一点に吸い寄せられている。
――彼女が、いた。
陽の光を一身に浴びて、金の髪がきらきらと輝いている。
空の色をそのまま写し取ったような、鮮やかな青いドレス。
騒がしい広場の中で、そこだけ空気が違う。まるで舞台の上のようだ。
圧倒的な存在感。
あまりに眩しくて、ノアは思わず息を呑む。
姫だ。――未来視で見た、あの。
肩に乗ったフィーリアが、小さく「……きれい」と呟くのが聞こえた。
不意に。
姫が、こちらを見た。
何重にもなった人垣の、その向こうから。
まっすぐに。ノアの存在だけを、正確に捉えたかのように。
周囲のざわめきが完全に消える。
世界に、まるで二人だけしかいないような、奇妙な錯覚。
澄み切った、空色の瞳。
ただ美しいだけじゃない。
強い意志の光と、どこか、こちらの心の奥底まで見透かすような深さがそこにはあった。
視線が、絡みつくように、合った。
どくり、と心臓が大きく跳ねた。
綺麗だ――そう思った。
その、眩いばかりの輝き。
それと、数時間前に見たばかりの『死』の残像。
薄暗い客室の床に広がっていた、生々しい血の赤。
全ての光を失い、虚ろに天井を見上げていた、あの青い瞳。
残酷なほど鮮やかに、二つの光景が脳裏で重なった。
今、目の前で輝いている、この暖かな『生』の光が。
今夜、あんなにも無残に奪われるというのか?
こんなにも理不尽に?
――この人が……今夜、死ぬ……?
その事実を改めて突きつけられた瞬間、ぞくり、と悪寒が背筋を駆け上がった。
――冗談じゃない!
前世の無力感が、痛みと共に蘇る。
ベッドの上で、何もできず、ただ母の涙を見ていることしかできなかった自分。
もう、あんな思いは、絶対に嫌だ。二度と。
今は、違う。
この、自由に動く身体がある。
そして――未来を知る力が、この手にあるのだから。
――絶対に、死なせるものか!
衝動が、揺るぎない決意へと変わる。
考えるよりも早く、身体が動いていた。
人混みを掻き分け、ノアはまっすぐに駆け出していた。
彼女の元へ。
今夜、失われるはずのその輝きを、守るために。
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