井96 接近遭遇
3人のユグドラシルアイドルの目の前には、7本の脚を内側に縮こまらせた、メランフォビアの屍体が横たわっていた。8本の脚のうちの失った1本は、10メートルほど先に転がり、まだ生きているように動いている。
メランフォビアは、そのぶよぶよとした腹の中央で、斑に生えた毛を、いまだ醜く震わせながら、
……皮の被った突起から毒針を半分はみ出させ、そこから力のない噴水のように、周囲に黄緑色の液体を撒き散らして、強い臭いを、アイドル達の鼻に強制的に嗅がせていた。
「……これで、世界樹は悪夢から目覚めるのかしら……。」紅い髪にベタベタとした粘液を張り付けた、ユグドラ・マリオネットが、ヴィゾーヴニルの羽根をレーヴァテインステッキに収納しながら呟く。
「そうね、でも、そうなってくると、ローレンツの預言が外れたことになってしまうわ。」と、ドレスの背中が裂けたユグドラ・ラビリンスが言う。「ねえ、ジェネシス?本当にあなた一人だけで、ローレンツに会いにいくつもりなの?」とラビリンスは七森きの の姿に戻りながら言う。
「ええ。それが逆に安全なはず。ローレンツが私だけに面会を望んでいる限り、その道中の安全は保証するとローズガーデンも約束してくれているし。」とユグドラ・ジェネシスが、自身のレーヴァテインステッキを確認しながら言う。……メランフォビアとの戦闘中、この杖は先端部を展開し、ハンマーのような形に変形した。今は元通りになっているが、こんなことは初めてだった。
「ローズガーデンの約束なんて信じられないよ!」翼の生えた黒猫のネクロンが高い声で叫ぶ。
「……私は、ピジーがどこに行ってしまったのか、それが心配で……」と七森きのが言う。
「ディディ?どう思う?」とマリオネットの姿から、少女の格好に戻った早乙女朱莉が、足元にいたテディベアの前にしゃがみ込んで言った。
ディディと呼ばれたそのぬいぐるみは、礼儀正しくセーラー帽を脱いで、胸の前に抱えると、「今回の一件で、わたくし、ガーデン内にはユグドラアイドルの味方がいるんじゃないかと思えてきました。ピジーさんは、きっと無事です。あの子がここでいなくなったのは、タイミングが良すぎたように思えますし……。
……ああ、さっきの戦いで、左脚の綿が抜けちゃいました。……早く帰って綿菓子が食べたいわ。」と言った。
「うふふ。ピジーのこと心配してくれてありがとう。」と七森きの がディディを抱き上げ、頭のてっぺんにキスをする。
「とにかく、いったんここを離れましょう。」と青い髪の少女、蒼井聖愛が辺りを警戒しながら言う。「 今、私達のレーヴァテインステッキは、力を失っている。十字展開は、少なくとも明日の日の出までは使用できないわ。考えてもみて?……3人同時に喪失するのは、これが初めてなのよ…。しかも、ここは敵地のど真ん中……。急いで離脱しましょう。」
「とにかく早くお風呂に入りたい……」と彼女は、服の上にこびりついた、白く固まった粘液を見ながら言った。
しかしそんなことよりも、なによりも…彼女はメランフォビアと対峙した瞬間に、自制できず着衣の前を汚してしまっていた為、……時間が経つほどに臭ってくる、つんとした刺激臭を気にして、他の2人から一歩離れた。
後の2人はそれを、見て見ぬ振りをし、「聖愛ちゃん、ありがとう……。あの時、聖愛ちゃんがメランフォビアに立ち向かってくれなかったら……、私達、みんなあそこで死んでた……。本当にありがとう。」と言った。
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「………ふう。」
シアタールームに灯りが点り、青ざめて、だが満足そうな顔をした2人の少女の顔が照らし出された。
赤城衣埜莉は頭のリボンを傾けさせながら、汗でベタベタになった、玩具のレーヴァテインステッキを隣のシートに置き、「……やっぱりメランフォビア戦は、神ね………。」と呟いた。
「今見ても、作画がヤバいわよね。」と、宍戸さやかが言う。
衣埜莉は、そんなさやかのことを見て
「……なんか意外。宍戸さんて、もっとお嬢様ぽく喋るかと思ってたんだけど、なんか、こう…、その……もっと話しやすいのね……。」と言って、レーヴァテインステッキを手に取り、ヴィゾーヴニルの羽根をしまった。
「うふふ。」とさやかは笑い、「続きは午後からにしましょうか?……私の部屋でAQDVグッズを見ながらランチしましょ?」と言って、うーーん、と伸びをした。
「見る見る!そして食べる!」と衣埜莉が大きな声を出し、「宍戸さんて、予想以上にお金持ちなのね?……さすがのわたしも驚いたわ……」と言って、広いシアタールームを見渡した。
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さやかと衣埜莉は連れ立って、長い板張りの廊下を歩いていた。
ディーヴァの考察をお互いに情報交換し、衣埜莉は、宍戸さやかの造詣の深さに改めて驚かされていた。
……例えば、メランフォビアの脚が1本だけ残された理由。
さやかの見解によれば、そもそもメランフォビアの8本の脚は、レーヴァテインステッキが8本存在することを暗示しているとのこと。
うち4本がユグドラアイドルの物で、あとの4本は、ローズガーデンの4賢者が持っている可能性を示唆しているのでは、とまことしやかに、さやかは語った。残されたメランフォビアの脚1本は、実は失われた4本目のステッキを表していて、この世界樹の悪夢を具現化した蜘蛛そのものが、4人目のアイドルの正体のヒントになっているのではないか……と饒舌にさやかは喋り続けた。
……いささか、こじつけめいてはいるけれど……、と衣埜莉は思った。……なかなか面白い考察ね。8本のステッキか……。その後のディーヴァシリーズが、アイドルの数を無駄に増やしていったのは、どう考えても失敗だったけど……、原作者のママレード犬さんが迷走して、尚且つ商業主義に走り過ぎたせいで、……こうやって真面目にディーヴァのメッセージを分析する人は減ってしまった。
でも、AQDVの作品としての評価は、年を経るごとに高まり続け、ママレードさんにとってはそれが呪縛となって、次回作を作るごとに、ほとんど精神を病んでいったと言う……。
最新作のUQDVは、ママレードさんが制作から離れることで、それが逆に功を奏し、ディーヴァを愛するスタッフの演出と原点回帰でヒットはしているけど……、
正直、わたしからするとUQには、あの鬼気迫るママレードさんの刻印のようなものが、感じられなくて物足りない。
「だからこそ、今回の映画はママレード犬さんの久々の復帰作として、期待度80%、不安度120%なのよね……」と、さやかが言う。
あれれえ??わたしの思考、口からだだ漏れでしたか??と衣埜莉は顔を赤くして、前髪を意味もなく橫に流す動作を繰り返した。
……2人の少女が、他の人には理解できない専門用語連発で、ペラペラペラペラペラペラ………と語り合いながら廊下の角を曲がる……、
と、突然「おおっと??」と声がして、2人をよけた大きな人影が、……そのままスピンターンをして、華麗に目の前を横切り、「ホールド!」と叫ぶと、ピタリと真正面で正確に静止した。
「あら三上じゃない。今日来てたの?」とさやかが言う。
さやかに声をかけられた、その男は、大きな睫毛をバチバチとさると、腰に手をあてて、しなを作って「あら?」と言った。
衣埜莉は、アワアワと激しく左右を見て、思わず顔を隠そうとした。
「どうしたの?赤城さん。」とさやかが言う。
その男、三上クリスティーヌは、一瞬驚いた顔をして、口を開きかけたが、……すぐに冷静さを取り戻して「あら、さやかちゃん、その子、どなた?お友達?」と言った。
さやかは、衣埜莉の顔を見、クリスティーヌの方に振り返ると「……ええ。そうよ。こちらは赤城衣埜莉さん。この人は三上クリスティーヌ。……赤城さん、気を付けてね。この人は美少女さらいの仲間だから。」と言ってケラケラと笑った。
「あら、人聞きの悪いこと言わないで。」とクリスティーヌは言った。「……まあ、でも確かに……。あなた達、まぶしいわね……。」
「今日もまたお兄様達のレッスン?」
「ええ。そうよ。……さやかちゃんはいいの?ワタシ、アナタにもレッスン付けてあげられるのよ?克徳くんと踊るんでしょ?」とクリスティーヌが言うと、
今度はさやかが慌てて衣埜莉のことを再び振り返り、「あ、赤城さん、今のは、ち、違うの!!三上!!友達が来てるのよ!やめなさい!!」と叫んだ。
克徳………?
衣埜莉は、どこかで聞いた名前だな、と思い、……宍戸さんってボーイフレンドがいるのかな?と、……何となく少し残念に感じている自分に気付いていた。
「あら、ごめんなさい?」とクリスティーヌは言い、「……さやかちゃん?ワタシも世奈ちゃんも、アナタのこと待ってるからね。いつでも連絡して」と呟き、「アディオス!」と叫ぶと手を振りながら去っていった。
「…………。」
「宍戸さん?」「な、なに??」
「あなた、もしかしてアイドルにスカウトされてるの……?」
「え?赤城さん?あなた、三上クリスティーヌのこと知ってるの……?」
「え?あ?その……パ、パンドラプロダクションの、専属振り付け師でしょ?……有名だよね?(小声)」
「まあ、有名と言えば有名ね。……赤城さん、アイドル関係も詳しいのね。」と、さやかは、改めて赤城衣埜莉のことを値踏みするように、彼女の周りをぐるっと回った。
「あなた、可愛いわよね………。」
「な、なに?!急に……。」(まあ、わたしは可愛いけど……、)と衣埜莉はさやかから視線を逸らした。
「あなたが興味があれば、わたし、赤城さんをパンプロに紹介してあげようか?」
…………え。衣埜莉は固まって、ぎこちない表情で辛うじて笑顔を作り……、首を振った。
「あ、そう?まあ、いいわ。………ねえ、赤城さん?今日、このまま泊っていかない?」
「え?」
「わたしね。ディーヴァの衣装、うちの専属のデザイナーに作らせたことがあるの。それ一緒に着て、スタジオで撮影しない?……わたしみたいなオタクの目から見ても、……あなたって、ホント、ジェネシスっぽい雰囲気なのよね………青いウィッグもあるの。ねえ、着てみてくれない?お願い!」とさやかがニコニコしながら途切れなく喋りかけてくる。「ねえ、お願い!赤城さん!何ならモデル料払ってもいいから!」
「え……そんな急に言われても。……じゃ、じゃあ、宍戸さんは……その、ラビリンスの格好するの?」
「う~ん、ラビリンスの格好してもいいけど、……今日はネクロベインでもいいかなあ。」
……ネ、ネクロベイン??いや、待って。宍戸さん、似合うかも……。ちょっと見たいかも……。
「その顔はまんざらでもなさそうね?」と、さやかは嬉しそうに、手を後ろで組んで、踊るように体を左右に揺らした。
「……ちょっと、お母さんに確認してみるね……」衣埜莉はスマホを取り出してluinを素早く打ち込んだ。
「……あ、大丈夫だって。」
「じゃ、決まり!ディナーはとびきり美味しいものを用意させるわ!……じゃあランチは軽いものにしましょ?………あとね、うちね、お風呂がすんごく広いのよ!……貸し切り状態だから、夜、2人で入りましょ?パジャマも貸してあげる!やった!これで寝るまでディーヴァトーク出来るわね!あーー、楽しみ!!」
さやかは、正面から衣埜莉の手を握り、ドキリとさせる笑顔で瞳の奥を見つめてきた。
お金持ちのお風呂……。なんか凄そうね……。
衣埜莉は、……あ、着替えはどうするのかしら?と一瞬疑問に思ったが、通りかかった部屋の中で、女中達が忙しくタオルやベッドカバーを取り替えているところを見て……、まあ心配ないか…… 。と思い、ところで御手洗いどうしようかしら……。ここは安全地帯ではないけど、さすがに1度は行っておかないといけないわね……。と考えていたのだった。
次回、「オフ(炉)会」




