井95 男と女と
「ブラボー!!!」
振り付け師兼ダンサー三上クリスティーヌは、宍戸家のダンススタジオで、割れんばかりの拍手をしながら、よく透る声で叫んだ。
肩で息をする宍戸あきらと、吉城寺紫園。汗をかいた肌をトレーナーに吸い付けながら、
あきらと紫園は向かい合うと、歯を見せ合って笑った。
「紫園くん、やったね!ほぼノーミスだ!これなら本番でも大丈夫だよ。……でも念のため、本来の男側の振り付けも、もう一回やっとく?」とあきらは言って、紫園の額に張り付いた前髪をそっと横に分けた。
「いいえ、今日はこれで充分です。あきらさんはカンペキ主義者ですね。」
「まあ、紫園くんがそれでいいと言うならいいけど……。それにしても、紫園くん、髪伸びたね?」とあきらは言うと、紫園の周りをぐるっと回り、うなじの全部隠れた後ろ姿を見やった。
「……あきらさんは、長いの嫌いですか……?」
「いや、そんなことないけど。フォーマルな服で、髪が長いのも素敵だと思うよ。」
紫園は赤くなりながら、「……本番は……、期待しておいてください……」と言って俯いた。
「紫園くん、ちょっと向こうで座って休憩してて。僕、三上さんとお話してくるから。」
そう言うと、あきらは表情を固くしてクリスティーヌの方へ歩いていった。
「三上さん。」
「あなた達完璧だったわよ!…………。
………なあに?その怖い顔は?」
「三上さん。……確かに僕と紫園くんのコンビネーションは仕上がってきました。……でも、肝心のお相手はいつになったら合流するんです??もう日がありませんよ?!」
「お相手……?あきらちゃん、……何のこと言ってるの?」クリスティーヌが怪訝そうな顔をして、あきらの目を見つめ返す。
「もう誰も合流しないわよ?あきらちゃんは誰の参加を期待しているの?….…あ?もしかして……さやかちゃん??」
「な、なんで、さやかの名前が出てくるんですか?違いますよ、紫園くんが本番と同じ組み合わせで練習しないと意味ないでしょ!!」さやかのことを言われたあきらは、思わず小声になって、クリスティーヌの耳元に詰め寄る。
クリスティーヌは、この美男子の汗のにおいに動揺しながら、こう答えた。
「その点なら、紫園ちゃんはもうバッチリでしょうが?何を言ってるのよ。」
「……え?じゃあ、紫園くんは、僕のいない日も練習してたってことですか?」
「もちろんそうよ!衣装合わせも必要だし。……まあ、ワタシとしては、ホントはそれもあきらちゃんと一緒にやりたかったんだけどねえ……。紫園ちゃんが、どうしても、当日にあきらちゃんのことを驚かせたいって言って………。健気よねえ……。だから、心配しないで!あきらちゃんは黙って楽しみに待っていなさい。」クリスティーがそう言うと、
あきらは「 まあ、そういうことなら、いいですけど……」と、渋々といった様子で引き下がった。
だがすぐに思い出したようにクリスティーヌに再び詰め寄る。
「三上さん、さっき、さやかがどうとか言いましたよね?……さやかと話したんですか?………その舞踏会のことを……。」
「……それがね?あきらちゃん、冷静に聞いてね……」言いにくそうにクリスティーヌは目を逸らしながら答える。「……どうやら、さややかちゃん、……東三条克徳くんと踊るらしいのよ……。」
「まさか??あんなに嫌がっていたのに、あり得ない!!また、母の企みか何かですか??」
「それが私にも分からないのよ。……どうやら最近、克徳くんと橘華雅美ちゃんが接近しているらしくてね……。克徳くん、学校に華雅美ちゃんを招いて、傍に置いているらしいのよ…。
橘と言えば、宍戸家の顧問であり、実質相談役みたいな役割を担っているような部分もあるでしょ?
かぐやさんも、牽制したいんじゃないかしら?かぐやさんだって、橘の娘を支配出来るほどの権力(?)はないでしょうし……。何と言ったって、あの橘鋭利の娘ですしね……。全く。華雅美ちゃんも何考えているのかしら……?」
あきらは「……その件、僕も聞いています。不穏ですよね……。東三条め、あいつ、何を考えているんだ。」と言って、
「……三上さん、今日これから僕、母に呼ばれていまして……。僕に何か渡す物があるとか……。紫園くんも、もうオーケーだと言うし……、まだ少し早いけど、今日はこれで終わりにします。シャワーを浴びてから行きますので……」と言い、
……紫園の方に歩いていき、何か話しかけたかと思うと……紫園が真っ赤な顔をして手をブンブンと振った。
あきらが「そう?じゃ、僕は一人で行くね。……シャワーとか浴場は自由に使っていいからね?」
と言いながら、タオルを首にかけ去っていった。
***************
「クリスティーヌさん……」
難しい顔をして宙を睨んでいたクリスティーヌの傍に、小さな体をした吉城寺紫園が、いつの間にか立っていて、
ツンツンとトレーナーの裾を引っ張ってきた。
「あら、なあに?紫園ちゃん。」とクリスティーヌは柔和な表情に戻って、優しく声をかけた。
「聞きたいことがあるんです。」
「なあに?どうぞ?何でも聞いて。それにしてもえらいわねえ。あなたって、勉強熱心なのねえ。
あそこかしら?あなたが足をブラッシュするところでは、あきらちゃんとカウントが異なるから、意識してスピンターンをする必要があるわよね。まあ、あなた、もうだいたい出来てるけどね?」
「はい、ありがとうございます。……でも、ぼくが聞きたいのは、……今回のダンスと関係はあるんですけど………でも、ダンスとは別のことなんです。」
「あら、なあに?」……ひょっとして…恋の悩み?
紫園は恥ずかしそうに、自分の人差し指を、意味もなくトレーナーの胸の辺りで回しながら、こう言った。
「クリスティーヌさんは、その……、
スタンディングオベーション …するんですか?」
「…………。」
「え?……紫園ちゃん?ワタシ、聞き間違えたかしら?あなたスタンディングオベーションって言った?」
「はい……。」紫園の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「ど、どうしてまた?……なんで、そ、それを聞こうと思ったの?」
「……あの、……クリスティーヌさんって……男でも女でもないですよね?だ、だから……オベーションする時、スタンディングなのか……座ったままでブーインクなのか……知りたくて。」
「ちょ、ちょっと待って?……まあ、百歩譲って、わたしみたいな謎の生き物を見て……、どっちか?てのが気になる、ってのは分からなくもないわよ……」
紫園が、じゃあ、と期待を込めた目で、クリスティーヌの答えを待っているのを見て……、
「でもね?!紫園ちゃん?そもそも、なんでこの質問をしようと思ったのよ??」とクリスティーヌが思わず大声で叫ぶ。
「……」
「あの、ですね………。クリスティーヌさんが見てくれたダンスの練習……男役と、女役を両方練習したじゃないですか……」
「そうね。ダンスの全体像を理解するために、あなた達にはそうしてもらったわ。」
「ぼく、男の人をもっと理解したいんです!!」
「ええ?」
「……それで、
……逆にあきらさんには……女の子のことを、もっとわかってもらいたいんです……あきらさんて、すごく大人に見えて、たまに女の子のこと全然わかってない、ってなる時があるから………。クリスティーヌさん、ぼくね?ぼくが男の人のことをわかってあげる代わりに、あきらさんに、女の子のことをわかってもらおうと思うんです……。
で、その橋渡しが出来るのは、両方の気持ちがわかるクリスティーヌさんしかいないって、ぼく、思ってるんです。……だからお願いします。」
………お願い、って、ワタシ、この子に何をお願いされてるの……?具体的には何よ……。スタンディングオベーションについて、教えろと?
あきらちゃん……、アナタも罪な男ね……。ワタシにだって乙女の恥じらいはあるのよ……。
「クリスティーヌさん!男の人のこと、教えてください!お願いします!!」と言って紫園がペコリと頭を下げる。「あと、あきらさんにも……女の子について、教えてあげてください!」
「お、女の子の何を教えてあげればいいのよ……?」と警戒するようにクリスティーヌが尋ねる。
「お、女の子は……好きな人の前では素直になれないとか……。」と紫園が目を伏せながら言う。
「……でも、アナタ達、許嫁でしょ?それに、見た感じほぼ相思相愛じゃない……」
「ソーシソーアイって何ですか?」
「両想いってこと。」
「あ、その言葉知ってます。両刀使い、とも
言いますよね?」
「……その言葉どこで聞いたのよ………。アナタ…、ワタシに対してわざと言ってない……?」
「クリスティーヌさん。」
「今度はなあに?」
「クリスティーヌさんは、その……今もシ●ポが付いてるんですか。」
……なに、その伏せ字は………。幼さを武器に、この子、容赦ないわね……。
「アナタ………、それを知りたいと言うのなら……ワタシと一緒にお風呂で汗を流す?」「そ、それはちょっと……。」
「……じゃあ、大人をからかわないの。」
「ごめんなさい……。」紫園はそう言うと、肩まで伸びた自分の髪を触り、
……あきらさんは女の子のエプロン姿が好き。……あきらさんは女の子とお風呂に入りたがる、ちょっとエッチな人……。でも、すごくカッコよくて、頼りになって、ロマンチックで、優しい人……。と考えていた。
……あきらさんは、舞踏会当日、ぼくのドレス姿を見てなんて言うだろう……。ぼく、タキシードを着たあきらさんを飾る、綺麗な羽根になって……、ダンスホールのてっぺんまで、回転しながら上っていけるかな……。会場のみんなは、ぼく達を見上げながら、……なんて素敵なカップルなんだろう……と、うっとりするんだ……。
紫園は、幸せそうに微笑み、一人きりでクイックステップのバウンスを浮遊するように表現し、
思わずクリスティーヌの顔を綻ばせていたのだった。
***************
あきらは、どこか沈痛な面持ちで、母親の部屋へと向かっていた。
僕に渡す物があるって……いったい何だろう。誤解だった僕の許嫁騒動の後、ここしばらくは、あの人は何も干渉してこなかった。
舞踏会の準備は着々と進んでいるようだけど、今回は三上さんを招いたりして、かなり力を入れているみたいだ。
社交界では今まで噂を聞いてこなかった、吉城寺家のご子息が、今回の件の罪滅ぼしの意味があるのか招待され、ほとんど僕が世話係を任されている。
さやかは東三条に近付いているが……、母に強制されている可能性がある。ここにきて橘家も関わりを強めてきた。……考えることが一杯ある。
あきらがドアをノックすると、中から「どうぞ。」と声が聞こえた。
顔を伏せながら、あきらが入室すると、
「やあ、あきら君、お久し振り。」と、落ち着いていて、それでいて快活ともいえる声がかかった。
あきらが顔を上げると、
籐の椅子に脚を組んで座った宍戸かぐやの右側に、背すじをピンと伸ばして立つスーツ姿の男がいた。「大きくなったね。……ここから見ると雪仁にそっくりだ」と言って笑う。
「橘……、鋭利……。」あきらは一瞬驚いたような顔をして、すぐに真顔に戻った。
橘鋭利は、宍戸かぐやと同じく、実年齢よりも10歳以上若く見える容姿を保っていた。
「何故、あなたがここに?」
「ちょっと相続に関して、法的な手続きが必要でね。まあ、ここにサインすればいいだけだけど……僕は立ち会い人として呼ばれたのさ。」
宍戸かぐやが口を開く。
「宝石屋がね……ろくなデザインを仕上げてこないの。……頭に来たから全部解約したわ……」
「相変わらずだね……」と橘鋭利が苦笑いする。
「だから、ほら、これ。あなたにあげるわ。舞踏会までに必要でしょ。」
かぐやは、桐の小箱に入れられた、銀色の指輪を差し出した。
「え?でも、これ、あなたが命よりも大切にしているものじゃ……?」あきらが驚いて言う。
「それがわかっているなら、黙って受け取りなさい。あなたは、雪仁さんの忘れ形見……。雪仁さんも文句は言わないわ。私がもらった、この婚約指輪……。今度はあなたが使いなさい。」
「はい、サインして。」と鋭利が紙とペンを差し出す。
あきらは戸惑いながら、母親の顔を見、……これは受け取らなきゃいけない流れだな……正直いらないけど………。と考え、ペンを手に取り、慣れた手付きで素早くサインをするのだった。
次回、『接近遭遇』




