井90 害虫駆除
「ギョエエぇぇぇぇぇぇぇ!!」
如月ひみこは、魏志倭人伝改スタイルのまま、部屋を駆け回り、そのままの姿で廊下に飛び出しそうになったところで、慌ててUターンして、
傍に干してあった黄緑色のワンピースをひっ掴むと、それを上から羽織った。
そして素早くノートPCを手に取り、浅いパンプスを足に突っ掛けると、部屋を飛び出した。
「GGGGG!!!!おぅぇぇぇぇ……」ひみこは、必死に吐き気を我慢し、小脇にノートPCを抱えたまま、廊下の壁に手を付いて、額に脂汗を吹き出させていた。
身体中に冷や汗が湧き出して、背中を冷たいものが伝う。気付けば、スカートの中で開いたひみこの脚の間に、湿った絆創膏が落ちてきて、絨毯の上に転がっていた。
それに気付いた様子もなく、ひみこはしばらく肩で息をした後、……ふらつく足取りで、同じ階にある休憩室へ向かっていった。
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休憩室のピカピカに磨かれた床に佇む如月ひみこは、足元に人知れずひみつのひみこちゃんを写し込みながら、ぼんやりと宙を見つめていた。
………もう、終わりだ……。私の部屋に……Gが………3匹も出てきた……。
どうしたらいいの……。
ひみこの頬を涙が伝う。
……嫌だよ……女の子はね、Gをヤる方法なんて知らないんだよ……。
……Gの後始末はどうするの?だいたい私、あんな汚いものには最初から触れないし……。気持ち悪いよ……。不潔だし、バイ菌だって一杯だよ……?女の子はね、一生Gなんか知らずにいる方がいいの。純粋なままで……。Gなんてものが世の中に存在するなんて……考えたくない……。誰も、可愛い女の子と、Gを結び付けて考えてほしくないよ……。不潔、不潔、不潔!!アイドルはね?Gなんていう穢れたものは知らないし、考えたこともないんだから!!
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……ある暑い夏の日。田舎のおばあちゃんの家に遊びにきていた、夏休み。
誰もいない縁側から空を見上げると、背の高い入道雲がもくもくと立ち上がっているのが見える。
チリリンと鳴る風鈴。そして飲み終えたラムネの瓶。
汗で体に張りついてくる、肩紐式のワンピースの胸に、パタパタと風を送りながら、
小学生の雛咲御影は、ふと思いついて、扇風機の前に立ってみた。
そして、風を強にすると、スカートを掴んで、扇風機の首にガバッと被せる。
……あ”あ”あ”、ぎもぢいいい………。
爽やかな冷たい風が、真下から体を駆け上がって、首に抜けていく。
御影は、気球のように膨らんだワンピースの中で、汗でべたべたになった、下半身のしわしわの布を、捻りながら太ももまで下ろし、肌に直接風をあて始めた。
くすぐったいような感覚がして、御影はさらに距離を近付けて、扇風機の骨組みに、自分の身体を乗せてみた。ああ、風が……気持ちいいな……なんかさ……このまま、ぜぇ~~んぶ脱いじゃった方が、気持ちいいんだろうな……暑いから、プールに入る時みたいに、お着替えしちゃったら……、もっと……涼しくて……、もおっと解放感があって、もっともおっと気持ちよくなるんだろうな……。
田舎の日本家屋と、生け垣に囲まれた庭。辺りには蝉の声だけが鳴り響き、……爆弾が落ちた後の夏のように、この過疎の村には、見渡す限り、ひとっこひとりいない……。御影は、改めて辺りに誰もいないことを、何度も確かめると……、自分の両腕を上げながらスカート全体を捲り上げ、今と変わらぬひみつのひみこちゃんをお庭に向かって全部出してしまった……。丁度、
その瞬間だった……あの、黒い虫が足元を走っていったのだ。
御影は、頭の中を白い光が突き抜けるような衝撃を覚え、物言わずそのままの姿で尻餅をついて、……気が遠くなっていった……。
少女が初めてGを知ったあの日。その記憶は、嫌悪感と共に消され、……ひみこの心には黒い虫の残像以外何も残らなかった。あと、滅茶苦茶、蚊に刺されていた以外は……。
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……いつまでも、くよくよしてるなんて、……私らしくないわ!
虫だけに無視……な~んてね……。う~ん……キレが足りないわね。なら、3匹のGで3G……。
……3Gだとスマホも使えないわね。せいぜいガラケーよ。
てか、その考え方だと5Gで、Gの数、増えちゃってんじゃない!!ダメダメ!……かと言ってショートメールの時代には戻れないのが現代っ子ってものよ!
6G時代はもうすぐそこなのよ!ひみつのひみこのぱ邪馬台国が、さらに高画質、より高音質の内容でお届け出来る未来も、すぐそこに迫ってきてるのね!私には文明という武器がある!
ひみこは休憩室のソファに腰掛けて、ノートパソコンを開いてメールを送っていた。
『《至急》助けて!ドラッグストアマスター片山沙吟師匠!』
しばらく待つと、返信メールが送られてくる。
『 パルサンを炊くにせよ、
巣に持ち帰る系の毒をばら撒くにせよ、
どのみち部屋で死体を発見し、後処理は行わなければならないわ。それが無理なんでしょ?
なんなら私が行ってあげようか? 』
……そうしたいのはやまやまだけど……。私は小学生男子という設定なのよね。師匠をパンプロビルに呼ぶには無理があるすぎるわ……。
『それなら、親に業者を呼んでもらいなさいな。』
……社長か……。私がビルにあれを持ち込んだことがバレたら怒られるんだろうなあ……。絶対、サリーの稽古で連れてきちゃったよね………私。
あれ?そういえば……。
ひみこの頭に、昆虫博士、早見恋歌の顔が浮かんだ。あの子、自分は昆虫バスターだ、とか何とかって言ってなかったっけ………。
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早見恋歌こと、闇の煉獄ちゃんは、
パンプロビルを見上げ、……とうとう来たわね……と唾を飲み込んでいた。
入り口で、ひみこからもらったQRコードを提示し、駅の改札のようなゲートをくぐる。
それと同時に体温チェックがされ、簡単な金属探知もされたようだった。
エレベーターホールの手前には、体格の良い女性の警備員が立っており、そのうちの1人が、恋歌のところへ歩いてくる。
「いらっしゃい。鞄を見せてくれる?」
恋歌は持ってきていた紫色のトートバッグを開き、中の物を長テーブルの上に出していった。
ヘアスプレー、化粧セット、お財布、ウェットティッシュ、マスクポーチ、スマートフォン、ミニタオル……。
「ごめんなさいね。社の決まりなの。外からのお客さんは一応確認させてもらっているのよ。」「大丈夫です。」「あなた、サリーの舞台に出る早見恋歌ちゃんよね。」「はい。」「申請書には、如月ひみこちゃんのお部屋に行くことになっているわね。間違いない?」「間違いありません。」「その、スプレー、あまり見かけない銘柄ね。ちょっと確認させてもらうわね?」
警備員は、軽く宙にスプレーを吹き、手を仰ぐと香りを確認した。
「悪いけど、スマホはここで預からせてもらうわ。」「はい。それも聞いています。」恋歌はその他の持ち物をトートバッグにしまい直していく。
……さっきのヘアスプレーは韓国製の物で、今回は、殺虫剤と偽って部屋に噴霧するつもりのものだ。はなからゴキブリ達を退治するつもりなんてない。私の目的はただ一つ。
如月ひみこの部屋にカルキ様の子供を産卵することだ……。出来れば、キッチンかお風呂場にしたい。素早く事に及ぶことが出来るように、今日の彼女は、珍しくスラックススタイルではなく、スカートを履いていた。
スースーする………。
恋歌は、不安そうにスカートの裾を引っ張った。不安の理由はそれだけではない。
……カルキ様の命令で、一昨日から早見恋歌は、
……御手洗いに行った後、後ろを拭くことを許されていなかった。さらに下布の交換も許可されておらず、3日間同じものを着用し続けていたのだ。
ファブリセッシュ類の除菌も禁止され、恋歌は苦肉の策として、中に匂い袋を入れて、臭いを誤魔化していた。
……まあ、あのエセバンパイアも言ってたし、洗わないのはお肌に良いらしいから、いいんだけどね……。
恋歌はカルキ様から頂いた、黒い首輪を付け、奴隷である証拠として、そこに南京錠のチャームを提げていた。そしてそれは実際に施錠されていた。……しかも鍵はカルキ様が持っている為、お風呂の時でも、外すことは出来なかった。
『私の南京虫ちゃん……』とカルキ様は愛おしそうに、恋歌の頭を撫で、無抵抗の彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
……ひとしきり唾液を交換し合った後、カルキ様は
『早く如月ひみこを味わいたいわ……』と言って立ち上がった。
『あなたのお部屋、いつもいい匂いがするから、私、ロマンチックな気分になるの…』と、カルキ様は言い、ゴキブリの水槽から発せられる腐敗臭を、鼻から胸一杯に吸い込むと、再び恋歌の手を握った。
『さ、頑張っていっていらっしゃい。……何なら如月ひみこを先に味わっても構わないわよ?後でお話聞かせてね?』
とカルキ様は言うと、恋歌のこめかみを両手で抱えるようにして掴み、彼女の鼻の頭の先に、チュッと軽くキスをした。
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「じゃ、これでオーケーよ。申請した時間を過ぎるようなら、必ず連絡をして下さい。……まあ、これは如月さんがわかっているとは思うけど。」警備員はそう言うと、インカムに何か連絡して、恋歌をエレベーターに案内した。
……エレベーターが上昇していく。
今日の彼女のコーデは、首輪から派生したゾンビ系アリス・スタイルで、汚し加工を施したトランプ柄の水色のメイド服に、鎖や鋲の付いたアクセサリーをぶら下げていた。メイクは、目の回りを真っ黒に塗りつぶし、口紅もまた黒いものにしている。全部の指には髑髏や蛇の形をした指輪を嵌め、脚には蜘蛛の巣を模した粗いニーソックスを履いていた。
恋歌は、そんな自分の姿を、エレベーター内の鏡で確認し、……この格好なら、万一、3日目のあそこの汚れが見えても気にならないはずね……。と考えていた。
目的の階に到達すると、古いデパートのように、チン、とベルが鳴り、扉が開いた。
早見恋歌は、廊下を進み、前もって教えてもらっていた番号の扉の前に立つと、
インターホンのボタンを押し、カメラの前に自分の体の位置を合わせた。
「どうぞ。」と声がして、鍵がカチャリと自動で開く音がする。
緊張した面持ちで、恋歌がドアレバーを下ろすと、甘い香りが彼女の鼻腔をくすぐった。
玄関に並んだ靴のレイアウトを見た途端、恋歌は、
……あ、ここって、ぱ邪馬台国の配信で見たことあるとこだ……と思わずテンションが上がるのを感じていた。
「……おはよ。」
予想外の声がして、恋歌が顔を上げると……、
……目の前には、珍獣ゴスロリヤンキーバンパイア振琴深海が立っていた。
「……どうして?!何故、あなたがここに?」
と恋歌が動揺して叫ぶ。
深海は表情を変えず、
「ひみこ姐さんはね、この部屋には一秒たりともいられない、って言ってね。……しばらくアタイと部屋を交換することになったんだよ。諸事情でアタイは姐さんの部屋に詳しいし、姐さんはアタイの部屋なら安心して過ごせるからね。
……ほんとはゴキブリなんてアタイが駆除してあげるって言ったんだけどね……。姐さん、一匹いたら卵が1万個だとか何とか言ってね、知り合いの専門家にお願いしたって言うから、誰かと思ったら……、
専門家ってあなたのことだったのね。」と言った。
「……1万個ってことはないと思うわ……一匹につき20くらいで、それが10回と考えると……200匹くらいね。」と恋歌が言う。
「…あなたなら知ってるかもしれないけど、あれは薄茶色か黒い小豆みたいな形の鞘になっていてね、硬い皮に覆われた中に入っているのよ。」「見たことあるわ。あれ、臭いでしょ。小学生のホームレス生活の時、暇でね。何かと思って触り過ぎて破いちゃったわ。」「あれ自体は無臭よ。臭いの元は、フンと死骸のせい。……可哀想に。破いたら卵は乾燥して死んでしまうわ。……それにしても、1万個とはね……。
……あれ?て、いうことは如月さんはここにいないってこと?」そう言うと、恋歌は、深海の顔をじっと見た。
すると深海が「ねえ、聞いていい?」と言う。
「……なあに?」
「アンタ、ひみこ姐さんに何をしたの?」
「………。」
「パンプロビルは害虫対策が完璧なはずよ。アンタ、サリーの稽古の時に、ロッカールームでゴキブリを処理したそうね?姐さんから聞いたわ。」
「………。」
「偶然過ぎない?その後に姐さんの鞄からゴキブリが出てくるなんて……。」
「……きっとロッカーで入り込んだのよ。」
「アンタ、昆虫に詳しいのよね?……アンタ、ひみこ姐さんに、この部屋に自分が呼ばれるよう、仕組んだんじゃないの?」
「………。」
深海が静かに言う。「アンタさ………、姐さんのファンでしょ?」
「だったらなに?」と恋歌が深海を睨み付ける。
「……正体を現したわね、……ストーカーめ……。アンタは、姐さんに付く悪い虫。……アタイが追い払ってあげるわ……!!」
そう言うと振琴深海は牙をむき、左右に揃った八重歯を白く光らせると同時に、赤いマニュキュアをした爪をこちらに向けて、引き裂くようなポーズで構えるのだった。
次回、『死闘』




