井89 イナゴの日
マリー・ウェンズデー役、振琴深海と、ラペル・サラマンダー役、早見恋歌は、
某ハンバーガーショップ店内で、向かい合わせに座り、ポテトを摘まんでいた。
「……アンタさ、もうお腹大丈夫なの?」黒いゴスロリドレスに、短いショールを纏ったままの姿で、
深海は、もぐもぐと口をうごかしながら言った。
今回は、別々の容器からポテトを食べつつ、恋歌が答える。「……それよりも、あなたこそ、どうして平気なのよ?」
「さあ?アタイは衛生の悪い環境でも、結構平気なのよね。だってバンパイアだし……。」と深海が青白い顔で微笑む。
「……確かに、あなた、そんな不健康そうな顔してるけど、肌は綺麗よね。なんか内臓まで健康そう……」と言って、恋歌は最近荒れてきた肌を隠す為に伸ばし始めた髪を、神経質そうに額の上に撫で付けた。
深海は、恋歌の額のにきびを見ながら「ホームレス当時ね、ほら、こう、体中、垢だらけだったのよね~。逆に肌がプロテクトされてたせいか、拾われてお風呂に入ってみたら、お肌がつるっつる。アンタも、あんまり石鹸で洗い過ぎると、お肌のバリア機能が低下するわよ?乾燥はお肌の大敵!
それにね?バンパイアたるアタイなんか、命にかかわるからね、真冬であっても、日傘、日焼け止めは必須よ! もちろん日焼け止めは保湿成分配合のやつね。」と言った。
「………参考になるわ。」と恋歌がぽつりと言って長いポテトを摘まむ。
***キャアアアア!!!***
急に奥のテーブルで女性達の悲鳴が上がる。
咄嗟に深海が立ち上がり、すぐに警戒したように身を低く屈める。
女性の悲鳴がテーブルごとに次々と伝播していき、深海達のテーブルの後ろにまで到達してきた。
「あ。」
と、恋歌が小さく声を上げて床を指差すと、
……そこには黒いゴキブリが一匹立ち止まっていた。
その子は、戸惑ったように左右に触覚を揺らし、真っ白い床に黒い体を無防備に目立たせて、足がすくんでしまっていた。
「ほら、早く逃げないと、殺されるわよ?」
恋歌が立ち上がり、優しく靴の爪先で虫の鼻先の床を、ツンと蹴る。
「真冬のゴキブリは動きが鈍いわよね。これなら簡単に殺れるわ。」と深海が言い、学校帰りの鞄から、教科書を取り出してくるくると丸めた。
「……やめてよ、可哀想でしょ……」と恋歌は静かに言い、深海の前に立ち塞がる。
その隙にゴキブリは、カサカサカサ………と走り出し、辺りに悲鳴を発生させながら、店の出口の方へ走り去っていった。
「………。」
二人の少女は何事もなかったように座り直し、再びポテトを摘まみ始める。
「アンタさ?優しいとこあんのね?……虫が好きなの?」と深海が、先採りいちごシェイクをすすりながら言う。
「ええ。……実はね、パパが昆虫学者なの。だから小さい頃から虫に親しむ機会が多かったのよ。」
「ふうん」
「………。」(もぐもぐ)
「………。」(ジュルジュル)
「あのさ、あなた世界一美しいゴキブリって知ってる?」恋歌がポテトを指揮棒のように振って塩を落とす。
「知らないわね。」と深海が言う。
「……、中南米に生息してる、2センチくらいのちっちゃい子なんだけどね、
……グリーンバナナローチって言ってね、鮮やかな黄緑色で、触覚はオレンジ色なの。」
「へえ……あ、これか」と言って、深海が、検索したスマホの画面をこちらに見せてくる。
「そう、それよ。可愛くない?」「確かに。」
「でもさ、」と恋歌が言う。「中身は普通のゴキブリなのよね。ただ色が違うだけで。」
「……結局、どっちもキモチワルイってこと?」と深海が言う。
「逆よ!どっちも可愛いってことよ!」と恋歌が叫ぶと、
「まあね……でもアタイ達の商売のことを鑑みるとさ……、見た目って大事よね……」と言って、深海はズズズ……とストローをすするのだった。
**************
「……如月さん」
早見恋歌は、レッスン場にあるロッカールームで、如月ひみこを呼び止めた。
今日は珍しく、パンドラプロダクションの筆頭スーパーアイドル(?)如月ひみこが、舞台の練習に来ていて、
その代わりに、振琴深海と真咲瑠香は、他の仕事の都合で参加していなかった。
「なあに?恋歌ちゃん」と、ひみこはふわりと、ガーゼのようなスカートを翻すと、《きゅるぴん♡》と目をぱちぱちさせて恥ずかしそうに微笑んだ。
「う……」と、恋歌は一瞬怯み、「き、如月さん、役について、その、少し教えて欲しいんですけど……」と言った。
「どんなことかしら?あ!あなたも差し入れのエナジードリンク飲んでね?」とひみこが爽やかに笑う。
「あ、ありがとうございます……。その、実は、私が聞きたいのは……、サリーが、ラペルのことをどう思っているかってことなんです…。ほら、マリーがサリーのことを好きになっちゃったから、ラペルはサリーに嫉妬するじゃないですか?それで色々と嫌がらせをしてしまって……、またそれが逆にマリーを怒らせて……。サリーが去り際に、ラペルに喋るあの台詞、彼女にはあんまり響かないと思いますし、逆に決まり文句みたいなものがマリーの件については刺さりやすいと思うんですよ?さりとてマリーとサリーが黙り込んで、マリーとラペルの関係性より深い魂の交流が出来るのだとしたら……、サリーはマリーのことを無理~とか思うのもありー?とか、考えてくと、結局マリーのことを、サリーはどう思っているんでしょうね?如月さん。」
「え?え~~っと……。」と如月ひみこが目をさまよわせて、サリーがマリーのサリーがなんですって……?と誰かに助けを求めるようにキョロキョロと辺りを見回した。
その隙をついて、早見恋歌は、半開きになったロッカーから覗いていた如月ひみこのバッグに、
自分のポケットに忍ばせていた袋を開けて……、
3匹のクロゴキブリを滑り込ませた。
そして、ひみこがロッカーに目線を戻した瞬間に、今度はもう一方のポケットからゴキブリを取り出し、床に向けてポイッと放った。
「ウギャアァァァァァァァ…………」
ゴキブリを視界に捉えたひみこが、断末魔に似た叫び声を上げた。
「如月さん?!」「たしゅけてぇぇぇぇ!!!」
ひみこが涙目になって、じたばたと暴れ回る。「如月さん!私に任せて!」
恋歌は近くにあったタオルを掴み、それを二つに折って即席の器を作ると、投げ網漁の要領でバッと宙に放り、
床で静止するゴキブリを引っ掛けるようにして掬い上げたかと思うと、そのままブンブンと遠心力を利用して振り回した。
呆気に取られたひみこの目の前で、恋歌はタオルをぐるぐると振り回しながら、ロッカールームの外へ出ていき、片手で廊下の窓を開けると、回転させたタオルごと、ゴキブリを屋外に投げ捨てた。
……再びロッカーに戻ってきた恋歌を見て、
ひみこは「助かったわ……あ、あれは、つ、潰したの……?」と言い、
……すぐに潰れたあれを想像して、おえっ、となった。
「潰してないわ。逃がしただけ。」と恋歌が答える。
ほとんど泣いている如月ひみこを見ながら、恋歌は
「私ね、ああいう害虫の駆除は得意なのよ。……実はね、私のお父さんが、昆虫学者だったから。……虫は怖くないの。」と言って、ぎこちなく笑ってみせた。
「もし、虫のことで困ったら、私に言ってくださいね。蚊でも蛾でも、何でも私に相談して……。さっきの虫ね?冬でも活動してるんだよ?もし、放置したら、来年の春には大繁殖して大量発生するから。早めの対策がお薦めよ……」と、恋歌が言うと、如月ひみこは思わずRe:birthしそうになって、生まれ変わる為に、お手洗いに走っていってしまった……。
………カルキ様……。これでいいんですよね……。
早見恋歌こと、闇の煉獄は、暗い顔をして物思いに沈んでいた。
カルキ様は、私に、『如月ひみこを仲間にせよ』と言ってきた。狙うなら頭から……。白魔術、黒魔術の垣根を超えて、あの如月ひみここと、サリー・ホッパーが、邪悪と聖の間に起こった争いの特異点となっている可能性は高い……。
私は如月ひみこに近付き、そして彼女を闇の世界に引き摺り込む。
その後はカルキ様が全てを取り計らってくれる……。
計画通り、今日私は種を蒔いた。後はそれが実を結ぶのを待つだけだ……。
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如月ひみこは、脚をもつれさせながら、御手洗いに走っていた。
毛むくじゃらの、黒く細い脚と、油ぎった皮膜の、葉脈のような羽根。固く飛び出した触覚……。そのイメージが、ひみこの頭の中を渦巻き……、
やがてそれは、朧気な影のような状態から、具体的な形を現し、いつの間にか、黒い虫は、腹の出た中年男性の姿になって、ひみこに迫ってきた。
男の剥げかかった髪は、油膜のようにテカっている。顔もべたべたして、青いひげ剃りの跡が、頬を斑に覆っている。
……そして、その男は、何故か何も身に付けていなかった……。その浅黒い、ぶよぶよした、だらしない体をひみこに見せつけながら、段差になって節で分かれた腹の、
……さらに下にある毛むくじゃらになった場所をこちら側に付き出して、縮れた長い毛を散らした白い脚を開くと、腕も肘のところで折って上にあげ、
……がに股でカサカサカサカサと音を立てた。
男の脚の付け根では、小さな茶色い芋虫が頭を立ち上げているのが見え……、その視線に気付いた男は、ひみこのことを見つめながら、それを一生懸命に触り始めた……。
『ねえ、僕のGを見て?』と男が、少年のような可愛い高い声で言う。ひみこは恐怖で固まって動けなくなった。
その時、パシーン!と破裂音がして、目の前の中年男性はペタンコに潰されて、
……頭からはピンク色の脳味噌と、……お尻からはぬめるような腸を飛び出させて、床の上で痙攣していた……。それと同時にひみこは、泣きながら胃の中のものを、一気に御手洗いに向かって吐きもどしていた。
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再誕を終えた如月ひみこは、まだ青ざめた顔をしつつも、どこか安心した表情で、お手洗いを後にしていた。
……こればかりは紙マスクにするわけにはいかないわよね……。
まあ、でも、見ました?皆さん。ここ最近の健康志向による体質改善で……、
ひみこちゃんのけろッピは、それはそれは綺麗なものでございましたよね?
規制、修正、補正なしでも、……*キラ*キラ*キラ*キラ*……て、してませんでしたか?……え?はい?ああ、していませんでしたか。そうですよねえ……。わたし、『G』なんて……大嫌い……。キモチワルイ……不潔……死ね……絶滅しろ………。
ロッカールームに戻ると、早見恋歌は、まだそこにいて、「大丈夫ですか?」と聞いてきた。ひみこは、半開きになったままのロッカーから、自分の80年代風のボストンバッグを取り出すと、それをランドセルの肩紐のようにして背負った。
「まあ、その、大丈夫よ。ありがと……。」とひみこは呟き溜め息をついた。
「如月さん、気を落とさないでください。……」恋歌は、ひみこのボストンバッグをじっと見つめながら言った。
「如月さん、知ってますか?……ハチミツは、花の蜜を吸った蜜蜂達のゲロなんですよ?」
「………。」
「蜂達は巣の中で、吐いては飲むを繰り返して、更に羽根を使って余計な水分を蒸発させるんです。それで、糖度の高い、腐らない蜜を作っているんです。」
「…………慰めてくれてありがと。」
……ひみこちゃんは、上から蜂蜜、下からお紅茶を出す、森の妖精よ………。穢れたところなんて、いっさいないの。さっきの幻覚は……ネット上の悪質サイトの影響ね……もう私、いっそネットはチャイルドロックしようかしら……。な、なによ?プン!だからって、私は子供じゃないですからね??どっちかって言うとアダルト寄り……。
こういう下界での付き合いって…この手のハプニングがあるから、ホント嫌!
あ”あ”ぁぁぁ……、それならずっと天埜衣巫みたいな美少女と、パンプロの聖域で一生つるんでたいわあ……。
…このロッカールーム、二度と使用しないわ………。帰ってお風呂入ろっと……。
如月ひみこは、そう考えると、肩にボストンバッグを掛け直し、「じゃあね」とぐったりとした顔でレッスン場を後にするのであった。
(カサカサカサカサ…………)
次回、『害虫駆除』




