井87 男の子の夢
朝の会が始まる前に席についた3組の子供達は、正面を向いて、東三条先生の立つ教卓の左隣にいる女性に釘付けになっていた。
そこに立つのは教員業務支援員の女性、橘華雅美。
緩めに巻いた亜麻色に近い髪の毛を、……ゆったりしたワンピースの丸襟から覗かせる鎖骨の上に垂らし、
そのふくよかな胸を、淡いピンク色の布の下で、紙風船のように美しく膨らませていた。
白く透き通る肌と、清楚なグロスを輝かせる唇。
そこはずっと微笑みを絶やさず、さきほどからハミングをしている。一番前の席に座る生徒達は、彼女の身体から薫る優しい花の気配と、うっとりとした匂いを浴びて、とろんとした目をしていた。
……最初に見た時から思ってはいたけど……、今日の橘さん……、何て言うか……凄く綺麗……。
ボーイッシュな女子、双葉和歌名は、
自分の男の子みたいな見た目を顧みた後、
橘華雅美の女性らしく丸みを帯びた身体を、羨ましそうに見つめていた。
華雅美は、滲むように柔らかな光の残像を、身体を動かす度にそっと空気の中に残して、きらきらと輝く光の帯を背後に拡散させていた。
そして優しく、……そして誰も知らない、それでいてどこか懐かしい、不思議な旋律の外国の歌を唄っていた。
連続剃髪魔事件の後の、子供達の心のケアをする為、東三条先生の提案で、
朝の会では歌が唄われることになっていたのだ。
それは、クラスのみんなが唄うという療法ではなく、ただ単に華雅美の穏やかな歌声を聞く、というだけのものだった。
……特別、上手いわけではない、ただの素朴な歌声。
だが、それを子供達は、…静かに、…熱心に、吸い込まれるように聞き入っていた。
……橘華雅美は、昔から子供の心を捉えるのが得意なのよね……。
宍戸さやかは、そう思いながらも、彼女の歌に思わず魅了されている自分に気付いていて、少し苛ついていた。
東三条克徳は、華雅美の歌声の持つ、この独特な催眠効果を、今後どのように活用しようかと考えながら、彼女の横顔をじっと見つめていた。
……彼に見つめられた華雅美は、……幸せそうに目を閉じ、精霊に祝福された淡い光を背後に集め、自身の輪郭をぼやかしながら、小鳥のようにさえずっていた。
「……きれい……。」と、前の方の席に座る褐色肌のツインテール少女、高嶺真愛が呟く。
真っ直ぐ前方を見つめる、美少女学級委員、赤城衣埜莉は、橘華雅美の非凡なボーカルテクニックを、簡単な記号を使って、ノートに書き写しながら、……これってテストに出るかしら……、それにしても担任が東三条先生で良かったわ。今度、音楽表現の困難さについて、少しアドバイスをもらおうかしら……と危ういことを考えていた。
……そんな中、秘密少年探偵団の早川雄大は、全く別なことを考えていたのだ。
……第7の不思議……。この前の座敷わらし女子、近藤夢子……。あいつが言うには……男子は、7番目の不思議を知ると『死』か、またはそれに相当する心の崩壊(?)を経験すると言う……。いやあ、なんかカッコいいけど、……さすがに危険すぎるかな……。
……待てよ、じゃあ女子ならどうなるんだ?この件は、村田に手伝ってもらうべきでは?
……いや、俺は何を言っているんだ。……あいつを二度と危険な目に合わせないと約束したじゃないか。
雄大は、ちらっと村田知佳の席の方を振り向き、……何か心配そうにこちらを見ている知佳の様子に気付き、
慌てて目を逸らした。
……まずいな。あいつ、結構鋭いから、俺が七つ目の不思議を探っているのがバレるかもしれない。
……しばらくは村田と距離を置き、単独で行動した方が良さそうだ……。
ところで、剃髪魔を退けた、我ら探偵団の最終兵器、双葉和歌名は……、探偵団の召集をかけた際、「え?……お邪魔虫は、消えますよ……」とウフフと笑い、高嶺真愛と連れだって去っていった。
……とか何とか言ってさ、あいつら勝手に『御手洗さんバッヂ』なるものを作って付けているらしいんだよな……。挙げ句の果てには、マジで、秘密少女探偵団を名乗っているとか、いないとか……。
村田まで引き抜かれたら、大変だ。
……だがそれはともかくとして……。この件は、いったん俺一人で探ってみよう。……その前に。
まずはH先生に相談しておこうかと思う。近藤夢子について、探りを入れてみなければ。
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放課後の音楽室。
東三条克徳が、ドビュッシーの月の光を奏でる中、ピアノの横に置かれたパイプ椅子に腰掛けた橘華雅美は、
スカートの下で斜めに両足を揃えて、ラメの入ったパンプスを煌めかせていた。弧を描くヴィーナスのようなヒップ。熱を帯びたそこは、うっすらと座面に湿り気を与えていて、汗と共に蒸発する香水の薫りが辺りを漂っている。
……ヴェルネーヌ。艶なる宴。
華雅美は、そっと悲しげにハミングし、真っ直ぐに伸ばした背すじに対して、迫り出した大きな胸を、腕の間に挟んで手のひらを腿の上で重ね合わせていた。
淡い桜色に塗られた爪。……突然ピアノの音が止まる。
「克徳せんせ……?」と華雅美が小さな声を出す。
……気付けば音楽室の扉をノックする音が聞こえていて、克徳は「橘さん、お願いします。」と言うと、鍵盤の蓋をそっと閉じた。
「はい。」と華雅美は立ち上がり、綺麗な姿勢でスタッスタッスタッと歩いていくと、扉を開けた。
「失礼します!東三条先生はいらっしゃいますか!」
「…えーっと、早川君?やったっけ?」「はい。」「どないしたの?」「はい!先生に相談があってきました。」
「どうぞ。」と東三条の声がする。
早川雄大は、橘華雅美のことを、ちょっとだけ疑うような目で見て、「先生、その……2人だけで相談できないでしょうか?」と言った。
東三条は一瞬考えるような素振りを見せてから「橘さん、ちょっと外してもらってもいいかな」と言う。
……ああ、克徳さんの秘密少年探偵団やね…。華雅美が目を伏せると、すれ違いざまに東三条は素早く彼女に耳打ちをした。
「……帰りにうちに寄ったら、洗濯をしておいてくれないかな。ここ数日忙しくて……汚れものが溜まっているんだ。」
それを聞いた華雅美が嬉しそうな表情をし、すぐにそれを隠すために……、頬を赤らめて目を逸らした。
「…日記の件、頼んだよ」
……こくりと彼女は頷くと、後は足早に立ち去っていった。
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「6年2組の近藤夢子?」東三条克徳は、雄大に聞き返した。
「その子がどうかしたのかい?」
……克徳は、頭の中で本校の美少女名鑑を捲っていた。筆頭に宍戸さやかや、赤城衣埜莉、高嶺真愛の名が上がってくる。
……赤城と高嶺は、明らかに美少女なんだけどな……、海外の血が入っているのが、あんまり好みではないんだよな……。日本人LOVE……。おっといけない。そうそう……近藤夢子だっけ。
……ああ、あの座敷わらし女子か……。早川雄大……また、マニアックなところを突いてくるな……。さすがだ……。
「近藤夢子について知っていることと言えば……、」克徳はあまり興味がなさそうな顔になりつつ言った。
「……、新聞委員の人気コラムを担当してるうちに、なぞなぞクラブ、なんてのを始めようとしていたな。……勿論、誰も許可してないが。」
……なぞなぞクラブ……?なんだそりゃ。ガキかよ。
雄大は、自分の秘密少年探偵団を棚に上げて、そう思った。
「確か剣持先生の手伝いがてら、しばらくは放課後の理科室を使わせてもらっていたと思うよ。」「……その、なぞなぞクラブが、ですか?」「ああ。クラブといっても、実質一人だがね。……興味があるなら行ってみるといい。まあ、そうだね、言われてみれば、ちょっと変わった子だったかもしれないな。あの子に気に入られたかったら、……何か面白いなぞなぞでも教えてやるといいんじゃないかな。」
一人のクラブ……、か。雄大は、夢子に少し親近感を感じ始めていた。
「ありがとうございます!早速行ってきます!」そう言うと雄大は走り出していた。
……まあ、頑張れよ、少年。克徳はそう思うと、再びピアノに向かいアラベスク第2番 ト長調を弾き始めるのだった。
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早川雄大は、理科室の閉じた扉の前でしばらく考え込み、念のために持ってきた改造ヨーヨーをポケットの中で握っていた。
……まあ、いきなり命の危険はあるまい。ただ、理科室と言えば、2番目の不思議、動く人体模型の件もある。以前、ここに監視カメラを仕掛ける計画もあったが、
H先生は、あくまで御手洗さんの謎を重点的に捜査したかったようで、計画は実現しなかった。
雄大は覚悟を決めて扉をノックし……、「どうぞ」と言う女子の声を聞くと、警戒を怠らないようにしながら、中へ入っていった。
ここは普通の教室と違い、実験用に使う幅の広いテーブルが並べられている。さっそく雄大は、真正面の、背もたれのない四角い椅子の上に、背中を向けて座る近藤夢子の姿を見つけた。彼女は、しきりに何かをノートに書き込んでいるようだった。
おかっぱの頭から伸びる細い首をこちらに向けたまま、顔を上げずに近藤夢子は、「あ、早川くん、来たのね?」と言った。
雄大は「おい。」と言い、「お前さ、7つ目の不思議を知っている、って言ってたよな?」とぶっきらぼうに問いかけた。
「そんなこと、わたし、言ったっけ?」
そう言いながら夢子は顔をこちらに向けてきた。
太めの眉と、細い切れ長の目。彼女の特徴的なおかっぱは、後頭部の途中まで刈り上げられていて、そこは青々としている。
「そう言ってただろ?」と雄大が怒ったような声をして言った。
それを聞いた夢子は、クスクスと笑い、「どうだったかしらね……?あ、そうだ!ねえ、ねえ、きみ?いいこと教えてあげよっか?」と唐突に言ってきた。
「なんだ?言って見ろ。」と雄大が答える。
「あのね、こうやってさ、口の両端に指を入れて、横に引っ張って……い~~~ってした状態で……、」そこまで言うと、夢子は自分の指を口から抜いた。「……『学級文庫』て言ったらどうなると思う?」
「…………は?なんだそりゃ?それは……?ひょっとして、なぞなぞなのか?」
「いいから、いいから。……ねえ、きみ?もし、わからないのなら、……実際にやってみるってのはどう?」
「わからないとは言っていないだろ?ちょっとくらい考えさせろ……」
「アハハハ、怖いんでしょ?」と夢子が表情の読めない顔を、どちらかと言えば、楽しそうに綻ばせながら言ってくる。
雄大が「おい、でもそれをすることで、俺にいったい何の得があるっていうんだ?」と近藤夢子を睨みつけながら言う。
夢子が「……なあんだ、やっばり怖いんだ?」と言い……そして、もう雄大に興味を失ってしまったみたいに、再び机のノートに目を戻してしまった。
しばらくの沈黙の後、
「……それを言ったら……、7つ目の不思議について教えてくれるのか………?」と雄大が静かに言う。
夢子が「わたし、一応6年生なんだけどなあ………。それが上級生に対する口の効き方なのかな?」と言った。
……雄大は……、黙ったまま、両手の人差し指を鉤爪状に折り曲げて……自分の唇の端を、強く横にに引っ掛けると………、
「学級………」と言いかけて、
いったん口から指を離し、「あれ?そこから何て言うんだっけ?」と言った。
「文庫!がっきゅう、ぶんこ!!」と夢子が大きな声を出す。
「……なあ、もう一度聞く。これってなぞなぞなのか?」「違うわよ!…い、い、か、ら!早くやんなさいよ!決断力のない男は…嫌われるわよ!」
「まあ、待てよ。……ここは、なぞなぞクラブなんだろ?
どうだ?近藤夢子、今から俺と勝負しないか?……これからお互いが謎を出し合い、俺がお前を降参させることが出来たら……七不思議について話してもらう、ってのはどうだ?」
夢子は興味を引かれたように身を乗り出してきた。「……ふうん?それで?……もし、わたしが勝ったら?」
「さっきの方法で、学級文庫、とでも何でも言ってやるさ!」「へえ言ったわね!………て、ちょっと、ちょっと?!その取り引きおかしくない??……ま、まあ、いいわ。わたしが負けるわけないし……。そうね、ウフフフ……なんだか面白くなってきたわね……。」
夢子はそう言うと、とっておきのなぞなぞが書かれたノートのページを開き、
それを早川雄大には見せないように胸の上に乗せると、不適に笑うのだった。
次回、『なぞなぞ対決』




