井86 華雅美と東三条
橘家の令嬢、橘 華雅美は、父親の書斎で一人、引き出しを漁っていた。
……この部屋の鍵を入手するのに2週間以上かかった。
その鍵をコピーした後、父親に気付かれないように戻し、家が無人になる時を狙って、
今こうして、華雅美はようやく部屋に侵入することが出来たのだった。
彼女は引き出しや本棚を、念のため手袋をした指で開き、中に入っている書類を1枚1枚捲っていく。
宍戸家に関わる重要な事項を記した古い書類、書簡、さらに宍戸雪仁の残したメモ等の、秘匿性の高い情報は、さすがに全て金庫にしまわれていると思われるが、
華雅美は、東三条から言われた、ある噂の真相を確かめる為に、何かヒントになる資料を探していた。
………ある噂。
……宍戸雪仁は、自身の死期が迫ってきたことを悟り、妻、宍戸かぐやに遺書を残していた。
だが宍戸かぐやは、彼の存命中は、遺書の確認を拒否し、
そもそも彼が遺書を書くこと自体を許さなかったと聞いている。
遺書が開封されたのは、彼の死後3日後。
それは、遺書というより手紙のようなもので、その内容を法的に纏めたのが華雅美の父、橘鋭利であった。
その手紙は、最初、宍戸かぐやの手に渡されたが、内容を読んだその場で激昂した彼女の手によって、ビリビリに破り捨てられた。
床に散った紙を、橘鋭利は慌ててかき集め、後でテープで補修を試みたという。
が、……破片は全て見つかったのか……?
……父、橘鋭利は、手紙の作成時から宍戸雪仁から相談を受け、その内容を知っていたのか?
そもそも、遺書の内容はどのようなものだったのか?
近くにいた使用人が目撃した時、宍戸かぐやは、宍戸雪仁を呪う言葉を吐いていたと言う。
……その言葉は果たして、彼女を置いて勝手に死んでしまった夫に対しての、怒りの言葉だったのか……、それとも遺書の内容そのものに対するものだったのか……。
最も信頼の置ける使用人の1人であったその老婆は解雇され、この情報は巡りめぐって東三条克徳の耳にも届くことになった。彼は宍戸家の長女、宍戸さやかの許嫁であり、条件が整えば、宍戸家の財産に触れることのある立場てなってもおかしくはない人間なのだ。
宍戸かぐやが受け継いだ遺産は莫大なものであり、その相続に関しては、橘鋭利が相当骨を折って、あらゆる法的な処理を完遂させた。
ただこの噂には、気になる点があった。
宍戸かぐやが手紙を読んだ時、「ゆきひと!私から全てを奪うつもりなの!……許さない!!」と、叫んだと言うのだ。
普段、宍戸かぐやは夫のことを『雪仁さん』と呼んでいた。『まるでかぐや様が小さい頃に呼んでいらっしゃった呼び方のようだったわ……』と、その使用人は語っていたらしい。
東三条克徳は、その話に違和感を覚え、
……宍戸家の遺産相続に関しては、何か秘密が、……言ってしまえば、情報操作、何かしらの裏工作があったのではないかと睨んでいた。
……宍戸家のスキャンダル……?遺書の内容によっては、…ひょっとしたらひょっとすることだってあり得る。
……もし、あくまでも、これはもしもの話でしかないが、…もし、宍戸かぐやに相続の権利が与えられていなかったとしたら……、
橘鋭利は、全力で宍戸かぐやを守るのではないか?
そして、もし、それが今になって明るみに出るようなことがあったなら……、
宍戸家は、吉城寺家や東三条家に、何を期待するのだろうか。宍戸家の2人の子供達は、この二大財閥と政略結婚をしたとは考えられないだろうか。宍戸家が解体されるようなことがあれば、それこそ大騒ぎだ。
全ては推測の域を出ないが……。
東三条は、宍戸さやかの顔を思い出していた。俺はさやかを……自分のものにしたい……。屈服させ、自分がいなければ、生きていけないような少女に……したい……。
宍戸家の絶対王政を崩れた時、あの女帝宍戸かぐやは……、どんな顔をするのだろう。……あの小生意気な宍戸あきらは、俺を見て、何を思うのだろう。
そして橘華雅美……、
あの女はまだ使える。かつての天使のような美しさは失われてしまったが、あれも、使いようによっては強力な武器になる。
橘家を味方に付けておくのも悪くはない。
宍戸さやかは、俺と奴隷契約を結んだと信じきっている。あの美しい少女は……、なんのかんの言って、俺を必要としているんだ。
もし、本当に、宍戸家にスキャンダルがあったとしたら、……婚約は破棄してやろう。代わりに、この東三条克徳は、橘華雅美と婚約をする。
絶望する宍戸さやかは……、可愛らしいペットとして迎え入れてやるのだ。
東三条克徳の妄想は、どんどんと膨らんでいき、……今では、宍戸家には本当に遺産相続のスキャンダルがあるのだと、信じ始めていた。
……だが、それもあながち可能性の低い話とは言えないのだ。
今、克徳の傍らには、興奮した様子の橘華雅美が座っていて、
スマートフォンに撮影した、父、橘鋭利の日記の1ページを表示していた。
……そこには……、このように書かれていた。
『雪仁、手紙は読んだよ。でもね、僕ら貴族は、かぐや姫のお願いには逆らえないんだ。姫が月に帰るまでは、一生振り回されるものなのさ。それは、お前が一番わかっているよな?許せ、雪仁!先に死んだお前が悪いんだぞ。まあ、後は任せろ。あきらくんもさやかちゃんも、まとめて面倒みるよ。』
「パパのこういうとこ、ホンマにいややわあ。」と華雅美が言う。
「なんかママのことより、宍戸かぐやのことが大切~、みたいな言い方やない?
でもこれって、克徳さんが言わはった通り、遺言の内容が、宍戸かぐやの望みと違ってたってことなんかしらね……。」
「ん、ちょっと待って、華雅美?君のお母さんって、確か宍戸家のメイドだったんだよね。」
「そうよぉ。それで宍戸の所に出入りしていたパパに見初められたんよ?……ママもきっと、こんな日記見たら怒ると思うわあ。」
東三条は、何かを考え込むような表情をした後、ゆっくりと口を開いた。
「……ねえ、華雅美?君のお母さんに、その日記を見せてみようか?……」
「え?克徳さん??それはちょっと……ママ、きっと怒るし、悲しむんやないかなあ。ママね、なんか昔色々あったらしくてな……宍戸かぐやのことが好きやないんよ。」
「なら僕もね、君のお母さんと同じ気持ちかもしれないよ……。宍戸かぐやばかりが特別扱いを受けてさ……。
ねえ、華雅美。君のお母さんならさ……、ひょっとしたら君のお父さんが、宍戸雪仁の遺言状をどこかに保管している、ってのを知っている可能性があるんじゃないかな?」
「…え、でも……。」
「その手紙に書いてあることがわかれば、……宍戸かぐやを、困らせることが出来るかもしれないよ。」
「で、でも、……パパだって悲しむかも……」
…………。
「華雅美……。」克徳は深呼吸をすると、目を閉じて息を止め……、
華雅美の肩をギュッと掴み、強い力で彼女を抱き寄せた。
彼は必死に、ある種の吐き気に似た嫌悪感を抑えながら、必要以上に強い力で、彼女の大きな柔らかい胸を、自分の胸板にあてがった。
「痛い。……克徳さん……、痛い。堪忍して……」
克徳は、額に脂汗をかきながら、意識を別なところに持っていこうとしていた。
……ここにいるのは、橘華雅美……、たちばな かがみ……。かがみちゃん……。かわいい……かがみちゃん。
うっとりとした華雅美が、小さな子供のような声で「克徳せんせ……」とポツリと言う。
「華雅美ちゃん……。」
克徳から、小さい時と同じ呼び名で呼ばれた華雅美は、「ぅにゅんん……」と猫のように、喉を鳴らすと、湿り気を帯びた、その女性らしい身体を、克徳の胸の内側で丸めてきた。
克徳は、華雅美の女性らしい身体の感触を我慢しながら、よりきつく目を閉じて、頭の中では、……小さくてボールみたいに跳ねる、……真っ白な小さい少女の姿を想像していた。
……少女はなめらかに身体を反らせて、クスクスと笑いながら、細い腕を肘の関節のところで逆側にしならせて、湾曲した骨格を見せびらかした。
少女の真ん中で、金色のかわいい鈴が、チリンと鳴る。
それはつるんとした綺麗な丸みを帯びていて、
それでいて中央に、ちょっと醜い、虫の腹節みたいな横すじが入っていて……。
そこから下に向かって、ハートの輪郭にくり貫かれた小さな穴から、まっすぐ縦に伸びる切れ込みが、
裏側にまで回り込むようにして入っていた。
その僅かなすき間の中で、小さな金属の球がコロン、と転がる度に
チリン、と
……ちっちゃなかわいい音が鳴る。
「……華雅美ちゃん……華雅美ちゃん……」
克徳は、自分自身に暗示をかけるように、何度も彼女の名前を呟き続け、
やっとの思いで「………好きだよ……。」と言葉を絞り出すと、
華雅美の濡れた唇に、自分の乾いた唇を重ね合わせた。
……そしてすぐに唇を離す。「……お母さんに、日記の画像を見せてくれるね?」
「克徳さんの胸……、すごくドキドキしてはる……」
そう言うと、華雅美が幸せそうに、もたれかかってきた。
克徳は、胃からこみ上げてくる酸っぱい液体を飲み込んで、
「ねえ華雅美……、その日記の画像、お母さんに見せよう……。」と言った。
「……克徳さん」「なあに?」「うちも克徳さんのことが大好き……」と華雅美がどこか切ない顔をして、身体をよじりながら克徳に抱きついてくる。克徳は、彼女から立ち昇る堪えがたい女臭さに、本当に吐きそうになって口を手で覆った。
そんな様子の克徳を見上げながら華雅美が言う。
「ねえ克徳さん……、克徳さんは、宍戸さやかみたいな……、まだおジュース臭い娘と……お痛したいんよね……?
……うちね、それは別にいいんよ?
………うちは、ママとは違うの。でもね……。ほんとはうちも、克徳さんを喜ばせたいの……。どうすればええ?……教えてくだはったら、うち、なんでもする………。」と言って華雅美はそっと立ち上がり、……その柔らかい胸を、彼の鼻に押し付けて……、優しくはさみながら揺らした。
「華雅美……。」
「……はい。」
「…堪えられないよ」
「………?」
「……あんなに……可愛かった女の子が……こんなに穢れた……、不潔な……女に……なって」
「え?」
「ぶよぶよの……豚女……」
克徳の目が血走っている。
「か、克徳さん……?」
「不浄だよ……吐きそうだ……」
口の端に泡を吹いている。
「克徳……さん……?」
「お前にはな……!これが相応しいんだよ!」
そう叫ぶと、いきなり克徳はテーブルにあった布カバー付きの水筒を掴み、その場で側面のチャックを開くと、
無理矢理にカバーを後ろに剥いて、華雅美の身体に水筒の中身をジョボジョボ……とぶち撒け始めた。中のお茶は温くなっていて、濃いお茶のきつい匂いがした。
「あ、克徳さん………あ、あ……」
華雅美は腰が抜けたように、椅子から床にずり落ちて、そのまま、緩くウェーブした髪の上から水筒の中身を浴びせられ続けていた。
「汚いんだよ、お前は!それに臭い!」
克徳はそう叫ぶと、
今度は水筒の注ぎ口を華雅美の唇にあてがって、勢いよくそこへお茶を流し込んでいった。
その瞬間、「くそっ!!」と克徳は叫び、水筒の最後に残っていた、酸化したカテキンの沈殿物を、華雅美の口に擦り付けるようにして飛び散らせた。
……………。
……水筒を倒したまま、克徳は、肩で激しく息をしていた。
彼は……、泣いている華雅美を見て、
……これで俺も終わりか……と考えていた。
「克徳さん……。」
「克徳さん……。克徳さん……。」
克徳がぼんやりとした目線を彼女に向ける。
「うち……、嬉しいんよ………、嬉しいんよ」
華雅美は、涙を流しながら笑っていた。
「克徳さんが………うちのこと、………こんなに愛してくれはって………。うち、ほんまに嬉しい……。」
克徳が改めて焦点を合わせて華雅美の姿を見ると、
……彼女は床にお尻を付けて座ったまま、今まさに自分自身のお茶を、開いた脚の前方に、しゅぅぅぅぅぅ………と溢している最中だった。
「克徳さん、うちを見て……うちは汚くて……、臭い……、ぶよぶよの不潔な虫やさかい……もっとちゃんと見て……、お鼻をつまんで、くさいくさい、て言うてください……」
それを見た東三条克徳は、無言で自身の水筒をしまい、ウール地のグレーのジャケットの乱れを整えた。
「……ねえ、華雅美。」
「君のお母さんに、日記を見せて、宍戸雪仁の手紙のありかを聞くんだ。それが宍戸かぐやにどういう影響を及ぼすか……、それを説明すれば、きっとわかってもらえる。」
華雅美は幸せそうに、子供みたいにあどけない表情で、ぼんやりと宙を見つめていた。
「華雅美?明日は学校だからね……。きちんと清潔にして来るんだよ。知ってるかい?生徒達にとって、君は凄く美人のお姉さんに見えるそうだよ。…そうだ、夜はホテルのディナーに行こう。ドレスを準備して、ヘアメイクもしなさい。飛びきりお洒落をして出掛けよう。
……でも今の君もね、……とっても綺麗だよ……。」
克徳はそう言うと、キャメルのコートを羽織って部屋を出ていった。
次回、『男の子の夢』




