井85 かぐやと世奈
名門女子校の中等部のセーラー服を着た、伍代かぐやが、車の後部座席で単語帳を捲っている。
「試験が近いんだっけ?こんなことしてて大丈夫なの?」と運転席に座る橘鋭利が言い、信号待ちをしながら、ハンドルをポンポンと指で叩く。
顔を上げたかぐやが、「えいりこそ、今日は大丈夫なの?私を送って」と言う。
「言っただろ?今朝は丁度こっちに用事があったんだ。まあ、今日の大会は雪仁も応援してるから、……頑張ってね!」と鋭利がウィンクすると、
かぐやは、フンと鼻を鳴らし、「別に頑張るほどのことではないわ。」と言った。
動き出した車の流れに乗って、鋭利は正面に見えるビル群をちらりと目に収めつつ「着物じゃなくて、制服なんだね?」と言う。
「そうよ?校外の活動は基本全部制服よ。部活動では永興蔡の時だけよ、着物を着るのは。」
「その時は、雪仁と一緒に見に行くからね。」「あなた達が来ると、目立つのよね……。まわりがキャアキャア煩いし。」「アハハ、それは光栄だね。さあ、着いたよ。頑張っていっておいで。帰りはそのまま宍戸の家に泊まるんだったよね。おうちの人は大丈夫なの?」と鋭利が言う。かぐやは「私はね?もう殆ど宍戸の人間みたいなものよ?」と言って、 胸元に隠している、細いネックレスに繋がった指輪の輪郭を大事そうに触っていた。
かぐやは、簡単な手提げに入った道具一式を肩に担ぐと、「じゃ、5時にまた迎えにきてね。」と言い、バタンと後部ドアを閉じて砂利道に足を下ろした。鋭利はプッとクラクションを軽く鳴らすと、そのまま折り返して、車道へと戻っていった。
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「今の男の人、だれ?」と背中から声がかかる。
「あら、お早う。」と、かぐやが振り返ると、そこにはクラスメートの雨宮世奈が顔をしかめて立っていた。
黒い髪を高い位置でポニーテールにした彼女は、うなじから出た細い毛を、セーラー襟に柔らかく散らしながら、ポリポリと首の後ろを掻いて「朝から、やめてよね……気分が悪いわ。」と言った。
「あなたの男嫌いも相当なものね。昔、何か嫌なことでもあったの?」
「別にないけど……」「じゃあ、なんでよ?」
世奈は一瞬考えるような素振りをして、すぐに「地球上の男はみんな絶滅すればいいと思うの。だって、ちっとも可愛くないし。」と言った。
「そう?男の人って可愛い時もあるわよ?……私はね、どちらかと言えば、女の方が絶滅すれば面白いと思うけど?」とかぐやが言う。
「……私達は一生わかり合えないわね……」と世奈が笑いながら言い、「とにかく!伍代さん!私はこの部活にかけてきた!あなたもそうだと思う!頑張りましょ!」と叫ぶと、2人は連れ立って建物の中に入っていった。
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その建物のロビーには、「第44回華團流茶道大会」というポスターが掲示されていた。
見れば、ここには他校から来た女子中学生達が、所々グループになって沢山来ていて、皆緊張した面持ちでなにかを話していた。
しかも、ここに来ているのは、引率の先生も含めて全て女性で、受付に座る人も、着物を着た身綺麗な女の人達だった。
世奈は、この大会の運営方法を興味深そうに観察し、しきりと感心しているようにも見えた。
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今回の大会は、かぐやが亭主役、世奈が客役であった。
「始めてください……」と厳かに進行役の女性が言い、手元のストップウォッチのボタンを押す。
まずはかぐやが、襖に見立てた競技用の衝立てについた扉を横向きに開き、客役に向かってお辞儀をする。
続いて世奈も礼を返す。
客役の世奈の座る位置とは反対側に、着物を着た3人の審査員が正座をして並んでおり、クリップボードに挟んだ紙に、かぐや達が動く度に何かを書き込んでいた。
茶道に必要とされる緊張感が徐々に高まっていく中、かぐやは、自分も体の準備も整っていくのを感じていた。世奈も、亭主役が出来るくらいに緊張が高まっていたが、僅かに座り直し、心臓のドキドキを忘れようとしていた。……ここで私が亭主役をしてしまったら、減点も減点。多分その場で失格だわ……。とにかく冷静に……まだ先は長い。難所も何回かあるから、落ち着いて…落ち着いて…平常心で……練習の通りに……。
セーラー服を着たかぐやは、畳の縁を模して、簡易的にテープで引かれた空間の内側へ、右足からそろりそろりと入っていった。
かぐやは、白い象牙で出来た蓋付きのホーローおまると、茶褐色の痰壺を、釜の横にそっと置いた。
それに比べて茶碗の方は、茶の色がよくわかる、透明な切子ガラス細工のものだった。痰壺は、釉薬を用いて焼かれたもので、黒色の中に、複雑な濃淡が表現されているのが見てとれる。
この伝統的な形の痰壺の側面には、模様が複雑な景色を見せていて、内側にこびりついた塊のような柄と合わせて、味わい深い風情があった。
かぐやは、ホーローのおまるの把手を掴む自分の手が、指先までまっすぐ揃うよう意識して、布カバーの付いた蓋を、指を反らすような所作で、上から丁寧に回し取り外していった。
客役の世奈は、いいわ!練習通りよ!……なんなら今までで一番かも!と思い、かと言ってそれが表情に出ないように感情を圧し殺していた。
かぐやは、柄杓を水平に持ち、左手で柄を持つと、回しながら右手に持ち変え、ホーローのおまるを肥溜めに見立てて、中に貼られたお湯を掬い取る動作を3回行い、
次にポンと柄杓を置いた。
次にかぐやは流れるように、ふくさを掴み、白いおまるの外側を丸く拭い取るまねをして、茶道具を清めていった。
そのまま、かぐやは座る位置を少し直して、呼吸を整えながら次の作法の準備を始めた。
……ガラスの器を右手前、左真横、右真横と動かし、スカートのすぐ側に寄せる。
小さな耳掻きに似た茶杓を、ふくさで清め、左手の人差し指と中指で挟む。かぐやは制服のスカートの上から、茶杓のスプーン部分を臀部にあてがう振りをして、
……そこにある穴から、内側を掻き出すように回す所作をゆっくりと繰り返した。やがて目の前のお盆に置かれた、小さな筒状の容れ物から杓を使って、中にあるあんこを掬い出し、杓をトントン、と叩いて下に落とす。
その後はふくさを再び手に取り、スカートを履いた上から、前から後ろに向かって3往復拭き取る動作をして、かぐやは自分の穢れた部分を清める型を披露した。
……いやはや。伍代さんは相変わらず所作が綺麗ね……。と世奈は思わず見惚れてしまい、……ここまでは、ほぼパーフェクト。審査員の心象もかなり良さげだわ……。
私もミスしないように気を付けなくちゃ……と緊張感を新たにしていた。
裏千毛茶道 和風炉 薄茶の平点前。これは、そもそも競技には向かない、精神性の高い礼儀作法の鍛錬のようなものであったが、戦後の、良家の女子の花嫁修業に組み込まれた流行から、時代を経て、
徐々に変化して、現在では女子校に必ずある部活動の一つになり、今や全国大会が開かれるスポーツのような位置付けとなっていた。
元々の茶道の意味は、室町時代の女子の御手洗いの正しい所作を学ぶことであり、安土桃山から江戸、明治を経て、洗練されていったものであった。
この道の根幹にある、最も重要な概念は、
……その所作の最中は、実際に御手洗いを我慢しながらやる、ということであった。
我慢自体は他人から見えないが、
『本当と同じの手洗いの動作』を行いつつ、
その実、『決して本当にしてはいけない』、というルールの中、心と体を相反させて所作を行わなければいけない為、これは、ある種のハードなスポーツである、とも捉えられていた。
制服のスカートの上から巻いたかぐやの腰紐は、本番1時間前からぱんぱんに膨らんでおり、湯袋は満杯で、茶道の精神の理想に近い状態となっていた。それでも、かぐやは脂汗ひとつかかず、涼しい顔で一つ一つの所作をこなしていく。
それは日々のトレーニング、腹筋とスクワットの賜物であった。
かぐやは、耳掻き状の茶杓を上に向け、客役の世奈に、いよいよあんこの固まりをすすめてきた。
世奈は、柔らかいあんこの固まりを緊張で震える両手で持ち、少し持ち上げると、頭を下げ、人差し指と親指を使ってそれを練るように丸める動きをした。
世奈はお盆に、それを軽く擦り付けると、紺色のスカートのポケットから、懐紙を取り出し、開いたそれの上で丁寧にあんこを平らに均し、中に濾し切れていない粒状のあんがあれば、それを選り分けていった。最後に懐紙をたたみ直し、それを使って爪の間に詰まったあんこの柔らかい汚れを取り除く。
その際、親指は決して内側に入れないようにし、穢れた懐紙はテープで貼った畳の縁に乗らないように、内側に置いた後、再度たたみ直してポケットに戻した。
審査員達は、この2人の計算しつくされた作法に魅了され、採点ボードに静かに何かを書き込んでいた。
かぐやは、表情も変えずに左手で、ホーローのおまるの把手を掴み、
素早く膝を立てたスカートの下に、それを滑り入れた。
そのままの姿勢で、痰壺を両手で抱えると、
長い髪を前に垂らして、壺の中に俯くと、
ゆっくりと唾を垂らす振りをする。
次にスカートの下に入れていた白いおまるを引き出すと、あらかじめ中に張られていた湯を、透明なガラス細工の器に掬って、膝の前に戻した。
そして柄杓を手に取り、痰壺の中を掬い取り、器に移し替えるまねをする。
その間、一瞬かぐやの肩が痙攣したようにブルッと震え、ぴくっと首が突っ張ったが……すぐに持ち直して一連の動作に戻るところを、世奈は気付いていた。
伍代さん……相当我慢してるわね……。あの体の反射動作は演じられるものではない……。湯袋の中の量が多ければ多いほど、所作は美しいとされるから、ポイントは高いはず。女の子は湯袋から湯道の距離が短いからね……あと少し。私も頑張らなくちゃ……。
左手を9時の位置に、右手を11時の位置にして器を持ったかぐやは、右手の人差し指を湯の中に入れて、ゆっくりと「の」の字に掻き回した。早く終わらせたいはずなのに、我慢の量が多いほど、ゆっくり動作をするのは、まさに裏千毛流の真骨頂であり、神髄であった。
競技が全てが終わった後、一人になった時の解放感を含めて、本当の完成といえるところが、茶道は精神性の高い習い事だ、といわれる由縁でもあった。
その深い精神性は、世奈にとって、
後のパンドラプロダクションの根幹を形作る
元となるのだが、……今はまだ彼女の中では、はっきりとしない、一筋の想い、のようなものでしかなかった。
「……どうぞ、お確かめください。」
かぐやの意思の強いしっかりとした声が、静まり返った会場に響く。
「はい。」世奈もしっかりとした受け答えをし、 手のひらを綺麗に床に付けて、背中をまっすぐに保ったまま、肘を軽く曲げてゆっくりとお辞儀をする。
世奈は、右手で抱えた器を左手に乗せ、包み込むように右手を添えて、中を覗き込んだ。
「春の色づいた若い芽のように、この浅い緑は、ほとんど山吹色に似て、透き通る中にも混ざり合わない湯だまりが、健康な少女の気配を、ゆったりと立ち登らせておりますね。」
「畏れ入ります。どうぞ薫りをお楽しみください。」
世奈は右手で湯を張った透明な器を、時計回りに2周させ、わざと鼻を「スッ」と鳴らして薫りを勢いよく吸い込んだ。
この無色無臭のお湯を、いかに表現するかで、大きく芸術点が加算されるのだ。
「普通であれば、淹れたては無臭であるにもかかわらず、時間を置くと少しずつ薫りは強くなってまいります。ただ今回のお点前では、湯袋に溜め置いた時間が長い為、最初から強い亜麻仁漚嫵の薫りがいたします。まさに少女の時を閉じ込めた琥珀の薫りと呼ぶのが相応しいかと。」
「あんこもまた、柔らかい中に、形の残った小豆が散見され、適度な粘り気と、その強い薫りが、いまだ爪の間に残るようで、かぐわしい名残を感じます。」
世奈は、セーラー服を着たかぐやの、紺色のスカートに巻かれた腰紐をじっと見つめていた。やっぱり凄いわね、この人……。きっと、もう、パンパンなのに、顔色一つ変えない。……結果が楽しみになってきたわ……。
「有り難う御座います。もう少し楽しんでいかれますか?」とかぐやが微笑みながら言う。
「おしまいにしてください。」世奈は両手をついて、縁テープの外に置いた透明な器を、眺め、もう一度、湯の様子をじっくりと眺める動作を繰り返した。
かぐやが右手で器を取り、さっ、と左手でホーローのおまるの中に残り湯を捨てる。
女子中学生くらいの大会の場合だと、このホーロー引きのおまるが使われることが多いが、これは本来だと伊万里焼の白と相場が決まっているものだった。競技ではない、正式な席で行われる、表千毛流の実際の会では、白の内側に残って黄色く石化した汚れが、この茶器を味わい深いものとするとされていた。
江戸時代から明治にかけては、早ければ7歳から正式な会に参加していたらしいが、
現代では、20歳を越えないと、表千毛流のお点前を実演することは許されていない。資格を取ることもかなり難しい為、実際に免状を手にし、実演が出来る歳となると、
30歳を越えてから、というのが殆どであった。
かぐやは、柄杓を上から掴み、釜の上に伏せた。
ようやくここで、ふくさを取り、右手でスカートの前側を清める仕草を始める。
ここは、いつまでも清めない、というわけにはいかない場所だが、この動作は遅ければ遅いほどよいとされていた。それは、その方が、客人も残り香を楽しめるという、深いおもてなしの精神を表しているのだった。
かぐやは、ふくさを左手に持ち替えて、そのまま痰壺に捨てる。
まさに一期一会。同じものは2度と使わない。
かぐやは、手のひらを正座したスカートの膝の上に置き、プリーツの入った裾を右、左、右、と3回軽く捲ると……、
そこで正客である世奈より、拝見所望があった。
かぐやは表情を変えずに、世奈の正面に向き直り、審査員には背を向けた形で、腰紐の位置をずらして、制服のスカートの前側を掴んで上にまくり上げた。
白く、軽く妊娠でもしたように膨らんでいるお腹を縁取る、黒いアンダースコートのウェスト部分。少しずれたところの皮膚には、ゴムの跡がくっきりと残っていた。
……そして、黒いアンダースコートの中央は……、1/3くらいがぐっしょりと濡れていて、重たそうに肌に張り付いていた。
なんてこと……?!こ、この人…………、どこかのタイミングで少しお湯をかけてしまっていたのに、……そのまま持ち直したと言うの?……気付かなかった……、スカートの下に、ホーローの湯張りを入れたあの時かしら……?
あ、あり得ない……な、なんていうフィジカル……、そして精神力……。またそれで顔色一つ変えていないなんて………、
……な、なんか凄いを通り越して、怖いわ、この人。
……でも、もうそろそろ限界ね……。ここらで終わりにしましょう。
「結構なお点前でした……」
かぐやが左手でスカートに手を添え、親指、人差し指、中指を折り畳みながら乱れを直す。そして左膝から立ち上がり、左回りで歩き、
主客と審査員に総礼をしてふすまに見立てた衝立ての扉を閉めた。
審査員達は思わずちらりとお互いの顔を見合わせ、ふうぅ………と深い満足げな溜め息を吐いていた……。
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「伍代さん!早く、早く!御手洗いに行って結果を出してきて!凄いわ!あなた!
さあて、出てくるのはコップ何杯分かしらね?!置いてある分じゃ足りなかったりして!……これ、中学生の部では新記録かもよ?これだけの量を我慢しきるなんて!……さ、早く行ってきなさいよ…!」興奮した様子の世奈を、かぐやは何故か冷たい目で見ていた。
「な、なによ?そ、その目は……?」
「あなたね……、練習より長過ぎるのよ。」
「え?だから早く行ってきなさいよ」
「あと、なに?なんで予定になかったご所望までしたの…?」
「え、いや、だって、あれ、審査員に見せれば芸術点稼げるじゃん……まあ、今日のあれは見せてたら減点だったけど……、そ、そうね、危なかったわね……ごめんね?そ、その……早く行かなくていいの……?」
かぐやは、特別感情も込めず「あなた、一緒に来て、私のを紙コップに全部受けなさい?」と言った。
「え?」
「聞こえなかったの?
私、いっぱいのコップを審査室に持ってくのも嫌だし、測るのもめんどくさいから嫌。計量コップごとに一回一回止めなきゃいけないのも嫌だから、……あなたさ、私の下で待機して素早く入れ替えなさいよ。」
「え」
「なに?嫌ならいいのよ?ああ、もういいわ!めんどうだから全部流してきちゃうわ。」「で、でも!それじゃ、私達失格しちゃう!!」「じゃ協力なさい。」「………。」
「…………。」
こうして、伍代かぐやと雨宮世奈の、夏の県大会は、『計測失敗による失格』ということで終わりを告げ、
世奈は、1年生の時からこの時のために青春をかけてきた自分のことを顧み……、
腑抜けたように、青い空を見つめていた。
……私……、なんか違うことを始めようかな……。
直接の原因でないにせよ、この挫折からの空白期間が、雨宮世奈、伝説のパンドラプロダクション立ち上げのきっかけとなったことは……
誰も知らない………。
次回、『華雅美と東三条』




