井83 宍戸の華麗なる1日
今日も宍戸雪仁は家を空けていた。
何やら大事な集まりがあるとかで、今日は帰りが遅くなるかも……とさきほど電話をかけてきて、
なんなら先に夕飯を食べていてもいいよ、と橘鋭利に伝えていた。
「……まったく、雪仁のやつ。勝訴したお祝いをしようって言い出したのはあいつなのに……。またすっぽかして……。」
と鋭利が腕を組んで呟く。「かぐやちゃんの気持ちも考えろっていうんだ……。」
「橘様……」
鋭利は慌てて振り返り、独り言を言っているところを聞かれたせいで、顔を赤らめながら「な、なんですか?オホン……」と咳払いをして答えた。
鋭利の目の前には、宍戸家の女中服を着た、若い女性が立っていた。
「……かぐや様がお呼びです。」「は、はあ。」鋭利は間の抜けた返事をしている自分に気付いて、もう一度咳払いをすると「は、はい、わかりました。」と言い直した。
……そしてしばらく、この女中のことをポカンとした顔で見つめる。
「あ、あの、……なにか……?」と彼女は、困ったような、居心地が悪いような…、微妙な表情をして、鋭利の視線から顔を逸らした。
鋭利も、しまった、という顔をして目を逸らす。ここで働くにあたり、支給されたのであろう女中服の胸の部分の布を、パンパンに突っ張らせた彼女は、
まるで他の女中達と違うデザインの制服を着ているように見えた。
「か、かぐやちゃんは、どこにいるんですか?」
「厨房です。B棟の方にいらっしゃいます。」
「わかりました…。」「早く行かれた方が良ろしいかと……。その、怒ってらっしゃいましたから。」
「はあ、まあ、怒っているのはいつものことなので、……あまり気にしない方がいいですよ?」
「はい。わかっているのですが……、怒られるのは私ですので……その、早めに行っていただけると……助かります。」
「あ、すみません!」と言って鋭利は部屋を出ようと歩き出した。……が、何かを思い出したように立ち止まると振り返り、「あ、あの、……初めてお会いしますよね…、お、お名前はなんとおっしゃるんですか?」と、飛びきりの笑顔を作って言った。
「……わ、私は、宍戸家の一メイドでしかありません。…名前など覚えていただかなくて結構です……、あの、かぐや様がお呼びですから…お早く……」
鋭利は、もう一度何か言いかけたが、必死な表情をする彼女の様子を察し、「ではまた。」と言って足早に歩き去っていった。
***************
B棟の居住空間から、また少し離れた所にある、渡り廊下で繋がったコンクリート作りの 建物には、
大きな厨房が付いており、そこではいつも専属のコックや女中達が忙しく働いているはずなのだが…、
今日は静まり返り、ただ、奥から、何か不気味な香りだけが漂ってきていた。
嫌な予感を感じながら、橘鋭利は、丸窓の付いた大きな扉を押して、厨房の中へ入っていった。
「う……」なんだこの臭いは……。
「えいり!遅いわよ!!…あの風船メイドは、ちゃんと仕事してんのかしら?」
割烹着に三角巾。口には白いマスクをした姿の伍代かぐやが、銀色のおたまをビシッとこちらに向けて睨んできた。
「ごめん、かぐやちゃん、遅くなって。……あ、でもあの女中さんのことは責めないでやってくれるかな?」鋭利がそう言うと、かぐやはフンと鼻を鳴らして「まあ、いいわ。」と言った。
「……ところで、かぐやちゃん?……何やってるの……?」
「見たらわかるでしょ?……今日のお祝いの為にゆきひとにディナーを作ってるのよ。」と言ってかぐやが、えへん!といった様子で胸を張る。
「え……」
言葉を詰まらせる鋭利を見て、かぐやが「あ、安心していいわよ?えいりの分もちゃんとあるから!」と言った。
「ちょっと待って?かぐやちゃん、いつもこにいるコックさん達はどうしたの??」
「ああ、あの人達?……いっつも忙しそうにしているから、わたしが全員、暇を出したわ!」「ええ?!ひ、暇を出したって……、かぐやちゃん、その意味知ってる?!首を切ったの??」
「えいり?何を言ってるの、いくら私でも殺しはしないわ……。まあ、いっさいお肉を出さないあいつらには、それくらいしてもバチは当たらないと思うけど……。」と言って、かぐやはコロコロと笑った。
「……で?」鋭利は額に汗をかきながら、警戒したような声を出した。
「ああ、それでね。えいりはゆきひとと長い付き合いでしょ?だからゆきひとの味の好みに合うように、味見をしてほしいのよ。」
「そ、それをかい……?」鋭利が指差した先には、縦長の使い込まれた銀色の鍋があり、側面にドロリとした物を溢れさせながら、グツグツと異様な臭いを発していた。
「あ、熱そうだね……。」と鋭利が、努めて笑顔を作りながら言う。
「そうね、ちょっと熱いかも。」かぐやはそう言うと、厨房の大きな冷蔵庫へ向かっていった。
「今日は暑いから、ここに飲み物を入れておいたわ。飲んでいいわよ。」
……あ、ありがたい。市販品なら間違いないだろう。
「あ、待って、えいり?これもわたしが作ってあげるから。」
え?
かぐやが冷蔵庫から取り出したのは、かの有名な青春爽やか飲料。シルピスの原液だった。
夏の女子高生2人が、汗をかきながら海辺の校舎を走り、窓の側で、腕を交差させながらお互いの口に飲ませ合う。
『体からピース!シルピス!』
「かぐやちゃん?じ、自分でやるよ?」
かぐやには、鋭利の言葉が聞こえていないようで、真剣な顔をして、コップにシルピスの原液を垂らし込んでいた。
……鋭利からのハラハラした目線に気付き、(なによ?)とかぐやは怒ったような顔を向け、「分量は企業秘密よ!」と言って背を向けてしまった。
かぐやは、大きなステンレスの調理台の下にしゃがみこむと、体全体を隠して、こそこそと何かをし始めた。
「かぐやちゃん?…別に隠れなくたって良くない?多少、濃いとか薄いとかは……、僕は気にしないよ?」
「はい、出来たわ!」トン、とかぐやが紙コップに入った薄黄色の液体を台に乗せる。
「……シルピスって黄色かったっけ……。」
かぐやは「びっくりした?凄いでしょ?それ。最近発売したばかりのマンゴー・パイナップル味なの。わたしもまだ飲んだことないのよ!『……小さな期待に胸を膨らませ…パインと乳酸菌、甘酸っぱい青春の、わたしのマンゴーシルピス…』さ、どうぞ召し上がれ!」
「あ、ああ。じゃあいただくよ……」鋭利は、コップの中身をじっと見つめ…、コロイド溶液になりきれずに分離した液体の中で、もやのように、不穏な黄色みが漂っているのを確認していた。
鋭利は、野性の本能(?)で何となく、匂いを嗅がないようにしながら、唇をちょっとだけ付け、「あ、美味しいね!」と言って、かぐやがよそ見している隙に、コップの中身を流しに全部捨てた。
……パイナップル嫌いなんだよね……。舌がピリピリするから……。酢豚に入れる人がいるのも、ちょっと信じられないよ……。
「さて、とっと……。」かぐやが嬉しそうに目を細めながら、鍋の方に近付いていく。
鋭利が、唾をごくりと飲み込んで彼女の一挙手一投足を目で追う。
どこかから持ってきた台に乗って、さらに背伸びをしたかぐやが、自信満々な表情で、大きくて重たそうな蓋を、…グワンと開ける。
「うっ……」
思わず、鋭利の口から声が出る。
「か、かぐやちゃん……そ、それは……?」
かぐやはマスクを顎に下げ、にっこりと微笑むと、
「カレー味のあんこよ!」
と言った。「ホファッ?!」「正直、あんこ味のカレーとね、どっちにしようかと悩んだけど、こっちにしたわ!えいりはどっちが良かった?」
「か、かぐやちゃん??そ、それは人として…その……尊厳を……いや、何と言うか…、いいの??それ……。」
かぐやは、凄い匂いを放つそれを、おたまで掻き回しながら、「ゆきひとは、あんこが大好きだからね~。あ、えいり?ゆきひとは、つぶあんとこしあんのどっちがより好きなのかしら?わたしは、最近こしあんなのよねえ……。でも、あんまり柔らか過ぎるのは、口のまわりに付くのが嫌よねえ。その時にちゃんと拭いておかないと、まわりで固まっちゃうし……あ、そうだ、このカレーにシルピス入れたらいいんじゃない?カレーにヨーグルトを入れるって聞いたことあるわ。乳酸菌とは相性がいいと思うの。」
かぐやは、さっそく彼女のつるんとしたおたまから、溜まったシルピスの原液を下に流し入れていった。
えいりは、口を手で押さえ、「そ、それ味見したの??」と言う。
「わたしはね、料理で味見はしないの。フィーリングを重視しているからね。味見はえいりにまかせるわ。」とかぐやが、おたまをしまいながら言う。
雪仁……お前、大丈夫か………。た、多分あの程度の乳酸菌では、これに含まれるであろうピロリ菌(※)を抑えることは出来ないのでは……。
( ※作者註)ピロリ菌…それは、一度感染すると自然に治癒することはほとんどない、恐ろしい菌。大人になってからの感染は稀で、ほとんどは子供の頃に感染し、そのまま大人になるケースが多いとされている。〇оキペディアにそう書いてありました。
「さ、味見をして」と かぐやが、小皿に取り分けた《それ》を手に、鋭利に迫ってくる。
「いや、……ちょ、ちょっと待って……落ち着こうか……。その食べ合わせは……その……お、美味しくないのでは…?」
「……おいしくない、ですって??なんで食べてもいないのにわかるのよ?」
「いや……その匂い……、と言うか臭い……か、かぐやちゃんは何も感じないの?」
かぐやは、小皿を鼻の方に持っていき、クンクンと匂ってみる。「まあ、ちょっと変な匂いもするけど……これは間違いなくカレーよ。あ、違った。これはカレー味のあんこだったっけ。あんこ味のカレーではないわ……。まあ、どっちも大差ないか。」
「そ、そうかい?でも、それなら僕はあんこ味のカレーの方がいいかな……。だって少なくともカレーだし……。」
かぐやが段々と苛々してきているのが、鋭利には手に取るようにわかった。
「そ、そうだ!かぐやちゃん!前に雪仁の女装時代の話が聞きたいって言ってたよね!」
かぐやの表情が変わる。
「た、確か、資料庫にあの頃の写真が残ってると思うんだ!特別に開けてあげるから、今から見にいかない?あ、後メイドさんに言って、しまってある衣装を出してもらおう!……雪仁が帰ってきたら、かぐやちゃんが、それを着て驚かせるってのはどう??」
かぐやの顔がパアッと明るくなる。「いいわね!それ!まだ入ったことのない部屋も見せてくれるの?素敵!」と言って、小皿を台に置くと、くるっと体を回転させた。
「今すぐ行きましょ!」とかぐやは三角巾と割烹着をその場に投げ捨てる。「ちょ、ちょっと待って」と、鋭利は近くの壁に設置されていた内線電話を取り、『女中部屋』と書かれた番号を押した。
「はい。」「あ、その声は!あなたでしたか。丁度良かった!」「え?ああ橘様ですか。」鋭利は、にこにこしているかぐやに背を向けると小声で囁いた。「……今から、あの、港川さんだっけ?あの人を厨房に呼んでください。」「え?何故ですか。」「…ここに危険な汚染物があります。あの人に来てもらって廃棄、消毒していただいた方がいいと思うんです。」「でも港川さんは、清掃係ではないですよ…」「……え。そうなの?だっていつも、厠を掃除してたけど…」「まあ、でも今は港川さんしかいませんし。……かしこまりました。」「それで……あなたにもお願いがあります。」「はい?なんでしょうか。」「……至急カレーを用意していただきたいんです。それが終わったら、何着か雪仁の昔着ていた女装服を資料室に持ってきてほしいんです。」「それにはメイド長の許可が必要です。」「じゃあ、許可をもらって!……かぐやちゃんが着たがってるって言えば、大丈夫ですよね!」
思わず大声を出した鋭利のことを、かぐやが不審そうに睨む。「どうしたの?えいり?早く行きましょ。」「ああ、そうだね、行こうか。」
2人が厨房を出ていった後、
防護マスクをした港川紀之が入ってくる。
そして、鍋に近付くと、(おや?)という顔をしてマスクを下ろす。次に興味深そうに中を覗き込み、最後には嬉しそうな顔をして手を擦り合わせた。
……これは……ひょっとしたら、ひょっとするのでは……。かぐや様、……あなたがこれに籠めた想い……、
もしや、とんでもない有機肥料を作り出してしまったのでは……。植物に必要な17種類の必須元素を含む、夢の栄養素がここに……。
港川は、鍋の蓋を閉じると、それを大切に胸に抱え、厨房を後にした。……これは、雪仁様……、とてもお喜びになるぞ……。かぐや様は…宍戸家の花達にとっての豊穣の女神に違いない。港川はそう考えると、念のため、そのきつい香りを吸い込まないように息を止めるのだった。
次回、『着せ替え遊び』




