井81 かぐや姫の記憶
「馬鹿なことを言わないでよ。」
宍戸かぐやがそう言うと同時に、手元の鋏が擦り合わさる音がして、重い金属の感触と共に、 山茶花の首が切り落とされた。
可憐な花よりも……、雅な器よりも……、鋏と剣山を愛でていると言われても仕方がないくらいに、作業台の上にずらりと並べられた凶器に目を落としながら、
彼女の娘、宍戸さやかは、臆することなく母親を睨み返していた。
「またアイドルに挑戦してみたいですって?……あなた、頭がどうかしちゃったの?まったく…、三上来栖が何か言ったの?……橘の所から戻ってきたと思ったら、急に学校に戻ると言って、その次はアイドルになるですって??いったいどうなってるのよ?」
「……わたし、そのためなら、宍戸の家から出ていってもいいって思っています……」とさやかが静かに言う。
「は?あなたが宍戸の家を出るのは……、東三条家に入る時よ?だいたいね、女は、ただ一人に愛されればいいの……。それが女の幸せなの。」
「……あなたが本気でそう思っているのは……知ってます。」さやかが感情を押し殺した声で言う。
かぐやがフンと鼻を鳴らす。「は?アイドルですって?……1万人の有象無象に愛されて、それに何の意味があるって言うの?……まさか、あなた、雨宮の口車に乗せられてるんじゃないでしょうね?……東三条はこのことを知っているの?あなた、夫を失望させるような言動は慎みなさいよ??」
かぐやはそう言うと、疲れたように背もたれに深く体重を預けた。
さやか……あなたには想像も出来ないでしょうけどね…宍戸家だって永久には続かないのよ……。いつか全てが失われる時が訪れる可能性だってある。何がアイドルよ。そんな不確かなことに、あなたの運命を委ねるわけにはいかないの……。
もちろん、私の目が黒いうちは、宍戸家の資産を、誰にも渡しはしない。それでもね……東三条家や吉城寺家の力が必要になる時は、いつか必ず来るのよ。
……雪仁さん……。何故、あなたは私に、全てを残してくれなかったの……。雪仁さん……。会いたい。会ってお話がしたい……。何故、あなたが子供達に、……そして、なによりもあなたが愛してやまなかったはずのかぐや姫に……、全てを残そうとしなかったのかを聞きたい……。
いえ……、本当は全部どうでもいい……。
ただ、あなたに会って、あの頃みたいに、その大きな胸の中で抱き締めていてもらいたい………ただ、それだけ。それだけが私の望み………雪仁さん……。
かぐやの目が、ほんやりと遠くを見つめるようになると、
これより先は、まともな会話が出来なくなってしまうということが、……さやかにはわかっていた。
……わたしは、この人とは違う。わたしには…わたしのやり方がある……。さやかはそっと音を立てないように後ろに下がり、母親の部屋を出ていった。
……かぐやは、娘が部屋を出ていく気配に気付いていた。
ただ、それも、もうどうでも良かった。
今は過去を思い出す時間。
かぐやはグリーンのニットと、ベージュのカーゴパンツを合わせた落ち着いた大人の女性の服の中で、
身体を少しずつ縮ませていき……やがて、小さく縮みきった身体に対して、ぶかぶかになったインナーごと、大人のかぐやの殻から、もぞもぞと抜け出していった。
10歳になったかぐやは、まだ身体の丸みのない、痩せて筋張った小麦色の手足を、
日焼けしていない剥き出しの白い胴体部分から、にょきっと付き出させて、
何も身に付けていないことを気にする様子もなく、部屋の中を歩き出した。
急に扉がバタンと開く。
「おーい雪仁?いるか?」
「うわっっ」
驚いて慌てて扉を閉める音。「か、か、かぐやちゃん??」とうわずった若い男性の声がする。
閉めた扉を背に、天井を向いて呼吸を整えている、この男性は、
橘鋭利。
20代中頃の短髪の青年だった。精悍な印象のする顔と、細く整えた眉。スポーツマンらしい肩幅の広い、がっちりとした体型。
ワイシャツの袖を捲り上げ、日に焼けた腕を扉にピタリと付けながら、「……まいったな」と呟いて目を閉じていた。
やがて鋭利は覚悟を決めると「か、かぐやちゃん??な、なんで裸なの?……ゆ、雪仁は、どこ??」と言って、
頭の中から、さっき見た少女の白い背中と、その下に滑らかに続く、つるんとした桃たろう姫を追い出そうとした。
「ゆきひとが、わたしのことを笑ったの!だから追い出してやったのよ!」と、扉の向こうでかぐやが高い声で叫ぶ。
「え?なんで?…て、言うか、かぐやちゃん、その格好どうしたの??」
「ゆきひとが悪いのよ!わたしのワンピースの背中を見て、学校の水着の形に日焼けした跡がパンダみたい!って言ってバカにして笑ったの!……許せない!!」
「そ、それで……?」
「だから今から、日焼けしていないところも、全部日焼けすることにしたの!今、その準備をしていたとこ!」
「……え…」
「えいり!ここのおうち、おっきいプールが2つあるでしょ?あの誰も使ってない外のプールを、今から貸し切りにさせてもらうわ!」
「だ、だからって、その……今部屋で脱ぐ必要はないんじゃ……」
「先に準備してるのよ。だって全体を焼き直したら意味ないでしょ?もうすでに焼けたところがもっと濃くなるだけだし……だからすでに焼けているところ、…腕、脚だけ布で覆うことを思いついたの。
……あ、ここにゆきひとの園芸用のアームカバーがあるわ、いち、にい、さん……、丁度4本あるから、これでいいわね。手と脚にこれを付けるわね!」
「え?それって、あの黒いメッシュのちょっと透けてるやつ?」
「そうよ?……ああ、でも多分心配ないわ、大丈夫。これは、めが細かいから日は通さないはず……。
あ、でも顔を覆うのはさすがに苦しいから、そこは今日持ってきた麦わら帽子を被るので済ませるわ!」
「……あのつば広の白いやつかい……?お嬢様風のリボンが付いたやつ……。」
「そうよ?何か問題でも?わたしはお嬢様よ?」
「……いや………。そ、その、もう、…その格好になったの……?」
「ええ、……あ、ちょっと待って……。よし、出来たわ。完璧!首もとに、スカーフも巻いてみたわ。……これで、白く残った身体の部分以外を全部隠せたと思う。」
「その……、かぐやちゃん……今君は、白い麦わら帽子と、スカーフを巻いて、手足には黒いメッシュのアームカバーを嵌めて……。えっと…、後は全部……その、肌を……出してるの……?」「そうよ?あなた、今、何を聞いていたの?」「いや、念のため、聞いただけ……」
「えいり?あなたも一緒に来る?」
「……。」
「えいり?そこにいるの?」
「……いや。やめておくよ………。雪仁に殺される……。」
***************
遅めの昼食の席についた、かぐやと、橘鋭利は、黙って食事が運ばれてくるのを待っていた。
彼女の、逆スク水作戦がうまくいったかは、神のみぞ知る……、かぐやは、もう興味を失ったのか、その件については何も言わなかった。
「……雪仁のやつ、急に仕事が入ったからって……かぐやちゃんをほっぱらかしにして……。困ったやつだ。」と言いながら鋭利が、ちらっとかぐやのことを伺うようにして顔を向ける。
「……まったく、ゆきひとは小さい男ね。わたしが少し怒ったからって逃げ出して……。」かぐやはプンスカと怒りながらフォークの柄をテーブルクロスに、ドンドンと打ちつけていた。
「か、かぐやちゃん?その銀のフォーク、きっと高いよ……、それにこのテーブルクロスも……。見るからに16世紀後期風だし……。」
かぐやはフンと鼻を鳴らし、「なに、この古臭い柄……」と言った後、「………それで?えいりは何で今日ここにいるの?」と聞いてきた。
鋭利は、「ああ、僕は、宍戸家の顧問弁護士だからね。色々と雪仁のややこしいトラブルの解決に向けて、今日は相談しに来たんだよ。」と言いながら、散らかったフォークを元の位置に戻した。
「トラブル?どんなトラブルよ?」とかぐやが怪訝な顔をして言う。
「え?詳細は話せないよ、さすがに。……まあ、でも心配しないで、かぐやちゃん。こう見えて、僕は優秀なんだぜ?」と鋭利が言うと、
「どうだか……、逆にあなた、見た目は優秀そうだけど、抜けてるところがあるから心配ね……」とかぐやが彼を、心から案ずるような口調で言った。
給仕がランチを運んでくる。
「いやあ、これはまた美味しそうだな。きのこのフィユタージュ包みか。バターと塩、それにこしょうだけのシンプルな味付けっぽいね。ん~いい香りだ。鶏の出汁かな?さ、かぐやちゃん、雪仁はいないけど、遠慮なくさっそく、いただこう。」
鋭利は「いただきます」と手を合わせると、パイ生地にナイフを入れ、大きく切られたマッシュルームと共に、それを口に入れた。
「んーうまい。玉ねぎとパセリの香りもまた絶妙だね。……て、かぐやちゃん。食べないの?」
白い食器の上に乗ったきのこのフランス料理を睨みながら、かぐやはテーブルの下に手を入れて、唇を真一文字に結んでいた。
「どうしたの?……きのこ嫌い?」
「お肉が食べたい……」
「ん?」と鋭利が聞き返す。
「わたし、おにくがたべたい!」
「ま、まあ。今はランチだし……。ほら、これ健康そうだし、……何より凄く美味しいよ?ほら、冷めないうちにおあがりよ。」
「ゆきひとが出すゴハンは、い~~~っつも、野菜ときのこと魚ばっかし!!わたし、もう飽きた!!わ、た、し、は、に、く、が、た、べ、た、い~~!」かぐやは椅子の下で脚をバタバタさせてテーブルを揺らした。
「ゆきひとが、どうしてわたしに野菜ばっかし食べさせるのか、知ってるんだからね?!」
「そ、そりゃ、かぐやちゃんに健康でいてほしいからだろ…?」
「違う!ゆきひとはわたしに消化のいい栄養タップリなものだけ食べさせて、……いい肥料を回収するつもりなのよ!!」
ぶーーー、っと、鋭利は口から食べたものを吹き出して、ゲホゲホっと咳き込んだ。
「なによ?!えいり汚ない!!」
「ちょ、ちょっと、待って?かぐやちゃん??」テーブルナプキンで汚れを拭き取りながら、鋭利が叫ぶ。「だ、誰がそんなこと言ったの?」「誰って……実際、ゆきひとが集めてたし……その、コンポなんとか、という箱から。」「コンポスター?」「そう、そう、そんな名前のやつ。」「い、今どき人間のは使わないと思うけどな……多分。江戸時代じゃないんだから……。」
「そうなの?……でもわたし、ゆきひとのところに通うようになってから、毎月、主治医に検査を出してるわよ。耳かきと、お鼻のやつ……。あ、なんなら、お口のよだれは毎週、提出してるわよ?」
おおっと、かぐやちゃん……。それは、ひょっとしたら、君が宍戸家の許嫁として相応しいかどうかを、品定めされているのではないかな……。雪仁……、お前は王族か何かなのか……?
「と、とにかく、かぐやちゃん?これは食事中に話す話題じゃないね。」
「どうして?」
「ど、どうしてって……。その…ほら?ちょっと、ばっちくないかい?」
かぐやはキョトンとした顔をして、次に鋭利を疑うような目になり、「……ゆきひとは、わたしのをキレイだって言ってたわよ?本当の意味で美しい、って。……なあに?えいりは……、そう思ってないってことなの?」
「え?ま、待って待って!話がおかしい方に行ってるよ??き、汚ないとは言ってないよ、……多分。」「でも、あなた、今ばっちいって言ったわ。」
鋭利は「いや、でも、だって、その……、そうだ!見てもいないのに綺麗かどうかなんてわからないよ!じゃ、この話はこれくらいにしようか……」と言うと、すっかり冷めた料理を頬張り始めた。あ、味がしないよ……。
「わたしの体から出たものは、……全部大切なものだ、ってゆきひとは言ったわ。」……そ、そうなの??雪仁、それマジで言ってる?鋭利は、目の前にいる少女から目を逸らして、必死に水で食べ物を流し込んでいた。
かぐやは考え込むように眉間にしわを寄せて、……崩したパイ生地の中から出てきた、立派な柄のエリンギを、
フォークでブスブスと突き刺しながら「……ゆきひとは、このうちのお庭を花でいっぱいにするんだ、って言ってたわ……。」と不満そうに呟いていた。
「ま、そういうことなら、いいんじゃないかな……多分……。」と橘鋭利は言い、……雪仁のやつ……、帰ってきたら事情聴取だからな……と、心の中で考え、親友の涼しげな顔を思い出して、若干イラッとするのだった………。
次回、『かぐや姫の花』




