井8 嘘と嘘
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国語の授業が終わると、
双葉和歌名は、早速立ち上がって、教室の後ろにあるロッカーに向かっていた。
それを見ていた高嶺真愛が駆け寄ってくる。
「和歌ちゃん、どうかしたの?」
和歌名は少し迷ってから、真愛に相談することにした。
「……なるほど。さやかちゃんもリコーダーを盗られていたのなら、確かにさやかちゃんもヒガイシャだよね。後であのバカ早川に昨日の朝のことを聞くとしても…、先にそっちを確かめたいね…さやかちゃんのことを疑うの、気分が悪いしね。」真愛は目を閉じて眉間にしわを寄せると、腕を組んで頭を傾けながら、何度も頷いた。ツインテールが、片方に傾いだ天秤のように見える。
「じゃあ、真愛ちゃん、わたしがさやかちゃんのロッカーを見ている間、ちょっとガードしていて。」「まかせて、わか様!」真愛が胸を張って、ワンピースの上から心臓の辺りに5本の指を立てる。ピンク色のワンピースが、淡いブラウンの肌に映えて、…今日もとても可愛い。
和歌名は、探偵かスパイか、泥棒?のように上履きを爪先立てて、猫背になって素早く移動した。…わか様、逆に、それ、怪しくないですか?真愛は、後ろからこの背の高い短めの癖っ毛の親友を見つめ、笑いをこらえていた。
和歌名が真剣な顔付きで、宍戸さやかのロッカーに手を入れる。…すぐにリコーダー袋は見つかった。緊張で汗ばみ始めた手で、それをぎゅっと握る……。
手応えがなく、ふにゃりと袋は潰れた。
やっぱり。さやかちゃんもリコーダーを盗られて?いる。これで、さやかちゃんへの疑いは晴れたよね、と和歌名がロッカーから手を抜こうとした時、
何かごわごわした手触りのものが指に触れた。和歌名は一瞬迷ってから手を引いたが、やはり気になって、もう一度指先でつまむと、思い切ってそれを外に取り出してみた。
「きゃっ」和歌名は自分の手の中を見て小さく叫んだ。
和歌名の手の中には、固まった鼻血のついた白い不織布マスクが握られていた。
「ど、どうしたの?!和歌ちゃん!」和歌名から背を向けて、教室の方を見張っていた真愛が振り返って言う。「な、なんでもない。」咄嗟に和歌名は自分のジーンズのポケットに、マスクを捩じ込んだ。
「な、なかったよ。さやかちゃんのリコーダー、やっぱりなかった。」急いで真愛の耳に小さく囁く。真愛はくすぐったそうに身をよじった後、「そっか、さやかちゃんもヒガイシャか…。」と言って、考え込むような表情になった。
……今日の衣埜莉ちゃんのこともあったし、みんなは、もう鼻血が出ているのかな。わたしは……、まだ、だ。
嫌になる。こういうところも、わたしは…、
「和歌ちゃん!」「ん?」「あのバカ早川に、さやかちゃんが犯人じゃないと言わないと!」「あ、うん、そうだね。」「レッツゴー!」真愛の口で八重歯がきらりと光った。
「早川!」真愛が腰に手をあてて、仁王立ちする。「あんた、さっき、さやかちゃんがどうとか、寝ぼけたこと言ってたわよね?」「は?なんだよ、お前らが黙ってろって言ったから、俺、ちゃんと誰にも言ってねーからな!」
3階から屋上へ続く、施錠された扉の前の踊り場に連れ込まれた早川雄大は、女子2人に挟まれて、焦りの表情を浮かべていた。
「…ほう、それは忠実でよろしい。」真愛が「褒めてつかわす」と言い(わか様、後はよろしくお願いします)とおどけた様子で腰を引いて後ずさりしていった。
和歌名は、(ちょっと!?)と声を出さずに真愛を責めたが、すぐに雄大の方へ向き直ると真面目な顔をして言った。
「早川くん、さっき、昨日さやかちゃんが朝当番の時間にいたって、言ってたじゃない?」
「あー、嘘じゃねーよ。」雄大は、赤い顔をしてポケットに手を入れ、目を逸らしながら答える。「なんなの、その態度、ムカつく。」真愛が、和歌名の背中から顔を出して雄大に向かって指を突き付ける。
「もう、真愛ちゃん!」「ごめんなさ~い」真愛が文字通りテヘペロをして後ろに下がる。
「早川くん、実はね、リコーダーを隠したのは、さやかちゃんじゃないことがわかったの。」「は?」「内緒だけどね、さっきこっそり、さやかちゃんのロッカーを見てみたら…、」和歌名は、まだポケットに入りっぱなしになっているマスクのことを思い出してしまい、口をもごもごとさせて、いったん言葉を切った。
「おい、なに言ってんだよ、俺は、宍戸がリコーダーを盗ってるところを、この目で見たんだぞ!」
「ん?そう……え?は、はい?」和歌名が慌てて聞き返す。
真愛が前に飛び出してくる。「なによ!あんたこそ、デタラメ言わないで!」
「お前こそ、いちいちうるせーな!俺はな、昨日の朝、遅れず朝当番の時間に来たんだ。そしたら、教室に先に来てるやつの気配がしたから、」「てっきり日向のやつがもう来てるのかと思ってさ。あいつ、俺が遅刻するって散々バカにしてたからよ、俺、頭にきてて、」「その話長いの?」雄大は真愛を無視して話を続ける。「それで、俺、日向を驚かそうと思ってさ、こっそり音を立てないように教室に入ったんだ。」
……早川雄大は、唇を舌で湿らせると、一度手を擦り合わせてから、そうっとそうっと、扉に手をかけて、ゆっくりと横に滑らせていった。
細く開けた扉の隙間から、人気のない静かな教室が見えてくる。どことなく冷たい空気が流れ出してきた後に、雄大の目に、先に登校していた女子の後ろ姿が目に入った。ビックリさせてやろうと、ニヤリとして忍び寄る体勢に入ったその時、
そこにいるのが日向ではないことに気付いて、足を止めた。
…あれは、……宍戸……?あいつ、日直でもないのに、なにしてるんだ?
後ろ姿の宍戸さやかは、教室の後ろの壁に備え付けられた、扉のないロッカーの辺りで何かを探しているような雰囲気だった。
声をかけようか、どうしようかと迷っていると、宍戸さやかが、他の人のロッカーを順繰りに確認しているのがわかった。
何をしているのかが気になって、雄大は瞼を薄く閉じて、彼女の手元にピントを合わせようとした。
……あれは、リコーダー、か?
宍戸さやかは、何人かのロッカー内のリコーダー袋を確認しているようだった。そのうち、自分のロッカーから茶色のリコーダー袋だけを取り出して、素早くチャックを開けた。次にスカートのポケットから何かを取り出すと、自分のリコーダーの吹き口に、それをこすりつけている?ように見えた……。
長い黒髪で、青白い肌の宍戸さやかは、幽霊のようだった。
「なにしてんのよ?」突然、背中から声がかかって、雄大は垂直に飛び上がった。
「意外。早川、ちゃんと来たのね」「お、おう」
女子の日直の日向がガラリと教室の扉を開ける。「あ、おはよー、さやかちゃん、もう来てたんだ~」
宍戸さやかが振り向く。感情の乏しい表情。いつものぎこちない笑顔で、すまなそうに笑う。他人を拒絶しているわけではないが、心を許しているわけでもない。そんな微妙なクラスメイトとの距離感が、例えそれが彼女自身のせいではあっても、彼女を孤独に見せている。
雄大は、もう彼女の手にはリコーダーがないことを確認した後、いったい宍戸さやかは何をしていたのだろうと訝しんで、顔をちらりと見やった。
……宍戸さやかの顔からは、何も伺い知ることはできなかった。人形みたいに固まったその顔は、彼のことなど認識していない風にも見えて、雄大は「なんなんだよ」と言って、目を逸らし、日向と日直の仕事を始めた。
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「……それ、本当なのね?」和歌名がぽつりと言うと、「俺、本当だって、さっきも言ったよな?どんだけ、疑われてんだよ、俺。」と雄大が言う。
和歌名は、自分の記憶の中に、何かひっかかるようなことがある気がして、額にしわを寄せていた。あれ?わたし、なにか忘れていない?……音楽室?わたし、なにか東三条先生と話してなかったっけ?…あれ?わたし、なにか大切なことを忘れていない?
考え始めると、…どこからか甘い香りが漂ってくるような気がして、頭の前の方がズキンと痛んだ。
「で、でも、今の話だと早川くんは、実際にさやかちゃんが隠したところを見たわけじゃないんだよね?」和歌名が頭を振って片目をこすりながら言う。
「バカか、あれは宍戸がやったんで間違いないよ。」「バカとはなによ!バカにバカと言われる筋合いはないわ!」「いいのよ、真愛ちゃん。」
和歌名は諦めたように、意味もなくひらひらと水平に手を振り、「とにかくね、さっき言いかけたのは、さやかちゃんもリコーダーがなくなっていた、ということなの。」
「わたし達もヒガイシャなの」と真愛が和歌名の白いブラウスの裾を引っ張りながら言った。
……わたし達も、か。
予鈴が鳴る。
3人が階段を下りていく前に、真愛が言う。「あんたは1人で先に行って。一緒だと思われたくないし。」「へいへい」と雄大が答える。
「早川くん、このことは誰にも内緒だからね!先生にもだよ!」和歌名が呼び止めると「……わかったよ。それにしても、双葉が珍しいな。それって、お前の方が嘘をつくことにならないか?」と言って、雄大は1人で階段を下りていった。
「なによ、今の!いちいちムカつく奴ね!」真愛がツインテールの片側を手の甲で弾きながら言う。
……その通りだ。わかっている。…これは、いつまでも黙っていられる話ではない。でも、でも、わたしの心のどこか、記憶のどこかで、誰かが、『さやかちゃんは犯人ではない』と言っている、…気がする。
さやかちゃん本人に聞けたらいいのに…。
教室に戻る途中の廊下で、和歌名と真愛は、正面から歩いてくる東三条先生の姿を見つけて立ち止まった。
先生は、さっきまでしていなかったグレーのマスクを付けて歩いてきた。
「あれ、先生、マスク、」と真愛が言う。
東三条先生は、「やあ」と言った後、喋り辛そうにマスクの中央を指でつまみ上げながら「ああ、これちょっと、ね。…今から病院に行くところなんですよ」と言って、一瞬痛むように顔をしかめた後、目だけで笑った。「どうかしたんですか?」「ああ、いや、大したことないんだけどね。」東三条先生は、また顔をしかめる。
「お大事に~」2人は先生に手を振った。
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その日の終わり近くになって、なくなっていたリコーダーが発見された。それらはまとめて、ひかり学級の教室にあったとのこと。
ひかり学級ならしょうがない、というような空気がクラス内を満たす。
和歌名と、真愛と、雄大は代わる代わる視線を交わして、雄大が(は?しらねーよ)と口の動きだけで言う。真愛が和歌名のことを振り返って、顎で雄大の方を指すと(ほらね、あいつは結局あてにならない)といった顔をする。
柿本先生の手から、リコーダーをなくしていた子達へ、1本1本が返却されていった。ここにいない宍戸さやかの分もそこには含まれていた。
赤城衣埜莉は最初受け取るのを拒否したが、先生に諭されて、ようやく渋々と受け取っていた。
「先生!」「はい、なんでしょう、高城さん?」「双葉さんがまだ受け取っていません!」「あら、そうだったの?」
和歌名は顔を真っ赤にして、あたふたと手を空で交差させる。
「あの、いいえ、だ、大丈夫、です!」
「後でもう少し探してみるから、心配しないでね。」「は、はい…。」和歌名は背中に汗をかきながら、クラスメイトの視線から逃れるために、うつむいた。
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帰りの会が終わったタイミングで、柿本先生が赤城衣埜莉を呼び止めた。
「はい、なんですか?」 衣埜莉は腰のハンカチポーチに手をかけながら答えた。…正直、今日は鼻血のこともあるので、一刻も早く帰りたかった。
「お願いがあるの」「はい」「宍戸さんにプリント類を届けてほしいの。」「え?」「ほら、今日の帰りの会で説明した通り、連絡帳以外にも耳検査も持っていってもらわなきゃいけないでしょ?」
柿本先生は、さっきも全員に配った耳検査のキットが入ったビニール袋を差し出した。
衣埜莉は、さっき配布された時と同じように、それを見るのも嫌だという風に顔を背けながら、2本の指だけで摘まむようにして受け取った。
…そこには筒状のプラスチックの容器が入っている。密閉性の高い蓋を外すと、キャップと一体になった耳掻きが、中に入ったジェルに差し込まれていて、明日、ここに耳垢を入れて提出しなければならないのだ。
「赤城さんは学級委員だから…」「ダメです。」「ありが…え、そうなの?」「すみません。わたし、今日体調が悪いので。」「ああ、そうなんだ。でも困ったわね。」
「ちょっと待っててください」衣埜莉は、今丁度視界の端に入った女子のところに駆け寄ると、手に持った耳検査キットの袋を、彼女の胸に押し付けた。
「双葉さん、よろしくね?あなた今日、日直でしょ?」
次回、『宍戸家へ』




