井77 天国と地獄
ここは天埜衣巫セカンドライブ会場。
当初は、前回と同じ会場で開かれることも検討されていたが、
やはり選ばれし100人の女性ファン以外に、建物を囲うであろうパンドリアン、パンドリータ達の数を考慮し、安全の為、
ファーストライブの2倍の大きさのコンサートホールで行われることに変更されていた。
そこはホールとは言いつつも、どちらかと言うとライブハウスに近い作りの建物で、観客席の椅子は全て取り外し可能なため、
今回は座席なしで、床にはグレーのシートが敷き詰められた状態での開催となった。
引き続き、オーディエンス約3人につき、1人の女性警備スタッフが観客席に入り、ファン達に不穏な動きがないかどうか、違法な録音や撮影がないかどうかを監視することになる。
実は彼女らには高額な給料が支払われているのだが、それだけではなく、守秘義務の誓約書を交わした後、個人のSNSでの発信を制限される代わりに、全員がパンプロのコンサート、またはイベントに参加出来る権利を優先的に与えられるのだった。
……そう、彼女らもまた、選ばれし守護天使を名乗ることを許された、生粋のパンドリータ達であった。
今回のリハーサル時、一度だけ、この33人の守護天使達はステージに通され、天埜衣巫との謁見の機会を与えられた。
彼女らは、間近で動く衣巫に感動し、中には涙を流す者もいた。あの衝撃的なステージが脳裏に焼き付いているのであろう、
衣巫の乾いた衣装を直視出来ない者もいるようだった。
衣巫は、横一列に並んだ守護天使一人一人に対して、順番に握手をしていき、「皆様。引き続き私を守っていただけますか?」と言葉をかけ、ガーディアンエンジェル達を一瞬にして、精神的な支配下に置いたように見えた。
傍でその様子を見ていた雨宮世奈も、このカルトめいた雰囲気に、さすがに恐れをなしてきて……、
……どこかで空気を抜かないと、これは膨らむところまで膨らんでいって……、最後には破裂してしまうのではないかと……この天埜衣巫プロジェクト(通称、岩戸案件)の行き着く先を案じ始めてもいた。
三上クリスティーヌにそのことを話したが、「どうしたの?あなたらしくもない。このビッグウェーブは…、一生に一度あるかないかの出来事よ?ワタシとしては、行けるところまで行っちゃうのが正解だと思うけどね?」と言って、まともに取り合おうとしてはくれなかった……。
まあ、ミカミッチの言いたいことはよくわかるんだけどね、……。でも、天埜衣巫の中身はまだ小学生の少女なのよ……。気を付けないと、私達はいつか彼女を取り返しのつかないほど壊してしまう可能性だってある……。
…… とは言いつつも、実際に衣巫の横に立ち、
この一世一代のパンドルが、物怖じしない様子で大人のスタッフ達の動きを俯瞰しながら、クリスティーヌと振り付けの動きを数ミリ単位で修正している様を見てしまうと……
やはり、彼女の今後の活躍に、過度に期待を寄せてしまう自分を抑制するのが、難しくなってしまうのだった……。
**************
そして今日は、本番当日。
スタッフルームには緊張が走り、実際に照明係や音響の担当者などが、廊下を走り回っていた。
パンドルのコンサート会場は、当然女性スタッフのみが働いており、特にこの岩戸案件では、アルバイトがいなく、全員が契約社員以上の女性だけという徹底ぶりだった。
今回は例外的に、雨宮世奈と三上クリスティーヌは同室で待機しており、最も信頼のおける技術スタッフの女性、剱持かやのをここに配置し、ステージを遠隔操作出来る機材を持ち込んで、開始時間を待っていた。
世奈は緊張した面持ちでヘッドセットを掴み、別室のスタッフへ二言三言指示を出す。
「衣巫ちゃんは、あのお紅茶をもう飲んだのかしら?」とクリスティーヌが、わざとおどけたように言う。「はい、確認致しました。紙コップで飲み終えたようです。」かやのが淡々とした様子で報告する。「紙コップ?それはあんまり風情がないわね」とクリスティーヌが笑う。
「何でもいいわ。お面が絶対に外れないか、最後にもう一度チェックして!」そう世奈が指示を飛ばすと、正面のモニター内で、女性スタッフが衣巫の元に駆け寄り、カメラに向かってOKサインを出す。
「さあ、始まるわよ!……ドローンを飛ばして!!」と世奈が言う。すると会場が一気に暗くなり……、
観客側から悲鳴に似た歓声が上がった。
「さあ、天埜衣巫。第2ラウンドを始めましょうか!」
ステージが白い光で照らされ、中央にはいつの間にか衣巫が膝をついて座り、マイクを祈るような持ち方で胸の前に隠し、顔を下に向けていた。……ファーストライブが中断した時と同じポーズ。これはクリスティーヌが今回のために加えた演出だった。
開演のベルが鳴る。
暗闇の中、シンプルなスポットライトが下ぶくれの頬をした白いお面を下から照らす。
ラナンキュラスのフリルの花びらが、衣巫が身体をクルッと回転させると同時に、ピンク色の竜巻のように舞い上がり……、身体が上方に飛び上がる。
……控え室でクリスティーヌが、今度は振り付け通りよ!とガッツポーズをした 。
すうっと息を吸い込む音をマイクが拾い…
爆音と共に、耳をつんざく高音のピアノが鳴り響き、階段を駆け上がるような音階の後に、悲しげな、どこか懐かしい旋律が流れ、
衣巫は軽く肩を揺すりながら、音楽に合わせて徐々にステップを踏み始めた。
音の切り替わりと共に衣巫が激しく左右に体を振り始める。
貴婦人のスカートが跳ねる中、衣巫がマイクをお面の口元に近寄せて、透き通る高い声で歌い出した。
♫……わたしの声をきいて。今すぐに……ほら!
絶叫の後、パンドリータ達は、この日の為に準備してきた振り付けとかけ声で、全員が揃って叫び出した。
きこえるでしょ?
《はい!》
孤独な夜を突き抜けて、
夜明けの色と混ざり合う
青い光
《ブルーッライト!》
わたしの言葉は、この世界にある
どの国の言葉でもない
既読の痕跡と待ち受けで
《既読無視!》
わたしの指と混ざり合う
青い光
《ブルーッライト!hooo!!》
『『畏怖と善(if&then)/ 畏怖と善(if&then)』』
《大合唱》
もし、そうならば、そうならば
善き行おこないを、出来たなら……
《きゃあああああ……》
……凄いわね……。世奈はモニターと、扉の外から実際に聞こえる地響きのような歓声を聞いていた。
……スゴいわスゴいわ!衣巫ちゃん!今回は振り付けに1ミリも狂いがないわ!!もう、あなたったら!MA、JI、ME、ちゃん、な、ん、だ、か、ら!!キャーーー!優等生!きゃわいいわあ!!
♫畏怖と善(if&then)/ 畏怖と善(if&then)……《きゃあああああ……》
やったわ!1曲目を乗り切ったわ!
「やっぱりあの子すごいわ!」クリスティーヌが狭い待合室で大きな体で飛び跳ね、「気を付けなさいよ!」と世奈に怒られる。
「ん?」順調に始まった2曲目『プリンセスリンネ』の一番の途中でクリスティーヌが、一瞬首をかしげる。「あら、気のせいかしらね、持ち直したわ。」「なによ、驚かせないでよ。」
♫またお姫さまに転生、転生!
断頭台に送られて
♫またお姫さまに転生、転生!
生きたままで火炙りされて
♫またお姫さまに転生、転生!
覚えやすいから、衣巫ちゃんのコンサートの中でも一番盛り上がる曲になるはずよ!ギターソロのパートが超絶カッコいいの!あのカリスマロッカー秋山先天の唸るエレキギター!依頼して正解だったわ!!
……その頃、衣巫は……、いっさいそんな素振りを見せなかったが……新たなトラブルに見舞われていたのだった……。
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一番が始まったすぐのところで、衣巫のエアギターの弦が切れてしまっていた。
衣巫はすぐに振り付けの中で、心持ち大きく脚を開き、白いエンジェリックギターが腰からずり落ちるのを防いだが、
切れた弦はどんどん緩んできて、徐々に太ももの辺りまで落ち始めていた。
……今日の衣巫の……純白のエンジェリックギターは、小さくて女の子らしい、可愛らしいもので、切れる前の太い弦が通っていたウェストのところには、今やアニメでしか見たことのないような、赤いリボンがついていた。
……そう。敢えて衣巫は、見えないところを、今どき誰も使わないような少女趣味の白いギターにしたことで、一部オレンジ色のクロッチマホガニー素材を使用したボディの中央で、ジェネシス・ウェーブを発動させていたのだった。
踊りが激しくなるごとに弦の切れたエンジェリックギターは捩れながらずり落ちていき、とうとう螺旋状のティアードスカートの裾からはみ出して、汗ばんだ太ももに纏わり付いてきた。衣巫は、振り付けの動作の途中の、観客に背を向ける瞬間に、邪魔なエンジェリックギターの残りを引き出しながら引き裂いて、
その拍子に、一緒に掴んで引っ張った何かが、ドレスの下でブチブチと音を立てて破れたのを感じた。
それでも衣巫は、踊りを止めなかった。……ロックンロール!!衣巫は、緊張のあまり朝から紅茶の飲み過ぎで、なかば興奮状態にあり、片足に破れて丸まった、天使の白いギターをはみ出させながら、真顔で踊り続けていた。
舞台上での異変と、その理由に気付いた世奈が「逆光!!」とヘッドセットに向かって叫ぶ。衣巫の背後のスクリーンがバンッと白く光り、続けて世奈が「羽根を舞わせて!」と指示を出す。
画面一杯に白い羽根が舞う中、黒い影になった衣巫が脚を蹴り上げる動作をして、舞い散る白い羽根の映像に紛れて、破れた白いギターを舞台の袖へ蹴り飛ばす。
「スクリーン、戻して!」世奈が再び叫ぶ。
「あれ??社長!?おかしいです!スクリーンの逆光が戻りません!?」剱持かやのが、あちこちのレバーを押し引きし、ダイヤルを捻り、PCの画面に顔を突っ込む勢いで、キーボードを叩き続ける。
「このままいく?!衣巫ちゃん、踊りと歌は持ち直したわよ!」「そ、そうね!も、もうすぐ2曲目が終わるわ!次は早着替え………て?!」
世奈とクリスティーヌが青ざめて、顔を見合わせた。
「まずいわ!!ワイヤードローンを停止して!!……このままじゃ………」
プログラムされたドローン2台が、ワイヤーをぶら下げながら天埜衣巫の左右から飛来してくる。……彼女のドレスの肩に仕込まれた、フックをめがけて……
ジェネシス・ウェーブのリミッターが外れた衣巫は、最後の間奏部分を強く、美しく、振り付けから一寸の狂いもない自動人形のようになって舞っていた。
♫またお姫さまに転生、転生!転生、転生!
転生、転生!《テンセイ!テンセイ!》
「ダメよ!!誰か止めて!!あの子、今!下に何も履いていないわ!!だいたい下に着ている衣装は今どうなってるのよ?!今日の衣巫は、ギターの弦が切れるくらい激しいパフォーマンスだったのよ!?…下の衣装は無事なの??」
「世奈ちゃん落ち着いて!!今は逆光よ!!観客には見えない!かやのちゃん?!あのドローン止められないの?」
その瞬間…
バチンッと強い照明がステージに照らされて、スクリーンが真っ黒に戻る。「な、なんで今になってスクリーンが切れるのよ!?」世奈が悲鳴をあげる。「社長!ダメです!スクリーン点きません!」
「剱持!!衣巫のリハーサル映像を、ステージ上の衣巫にマッピング出来る?!急いで!!」
逆光の照明が切れ、再びくっきり現れた衣巫の姿に観客が熱狂する中、接近してきたドローンのワイヤーが彼女の肩にあるフックに引っ掛かり………スパンッと
ラナンキュラスドレスが二つに割れた……。
『プロジェクション!マッピーーングッ
!!』
世奈が必殺技のように叫び、記録されていた衣巫のリハーサル画像が、舞台上の衣巫に投影された。
……天埜衣巫は……、背中に収納されていた白い翼が、その身体の後ろに向かって左右に開くのを感じていた。リハーサル通りだ……。カフェインの過剰摂取から来る意識の混濁の中、胸を反り、降臨した天使のポーズをして衣巫は爪先立つ……。
裂けたラナンキュラスドレスの下に……、
本来あるべき2枚目の衣装、お嬢様風の白いスリップ風ワンピースの肩紐は……、エンジェリックギターを無理矢理引き裂こうとした時に、スカートの裾を強く引っ張ったため、一緒になって引きちぎられていて……、
ドローンが衣装を左右に割った瞬間に、衣巫の細い肩幅から、スルリと抜けて床に落ちていた……。
天埜衣巫は……、着ぶくれをしないよう、上半身には肌色のニプレスだけを貼っていて、サポートブラにあたるものは何も身に付けていなかった。
その他は白いニーソックスと水色のローファーだけ。おかめのお面と髪に巻き付いた沢山のリボンだけ。そしてランドセルのように背負った白いおもちゃの翼だけ。それ以外は……
……一番大切な…、あばら骨から下にある一番大切な…女の子の全部……、丸く迫り出したお腹も…、その下の…、つるんとした肌の、その内側に向かって、朝顔の萎んだ蕾のように、まだぴったりと閉じたままのおへその窪みも……、それらを隠すものも、遮るものも……何もなかった。
天埜衣巫はステージ上で取り憑かれたように踊り続け、そのまま3曲目に突入しようとしていた。……その幼い天使のような肢体に、『もう一人のリハーサル時の白い天埜衣巫』を、正確にプロジェクション・マッピングしながら……。
彼女の正解なダンスは、投影されたプロジェクション・マッピングと、数センチの誤差だけで一致し、まるで、動くものを検知するダイナミックプロジェクションマッピング技術が使われているかのように、
衣装替えをした白いワンピース姿の彼女のリハーサル映像は、舞台上の衣巫の動きを追いかけて、ピッタリと重なっていた。
「何てことなの……。も、もし、今の衣巫ちゃんが……、少しでも踊りを間違えたら……、マッピングがずれて……全てが晒け出されてしまう……、え?ひょっとしたら、観客ちゃん達は気付いてるの?!今すぐ中止すべきなのでは??」
クリスティーヌが絶望したような表情で叫ぶ。
「もう遅いわ……」と世奈がポツリと呟いた。「パンドリータ達の目の前で……今、伝説は刷新されたわ……。皆……衣巫の身に起こったことを気付いたうえで、あの子を見つめている……もう、彼女らは………天埜衣巫という生きた伝説から目を離すことは出来ないわ……」
全くズレのないマッピングの下であっても、確かに、そこにはおかめのお面を被っただけの少女の肌色の身体があり……、どんなに見えづらくとも、間違いなく…、現実に…、100人の使徒と、33人の守護天使達の目には……衣巫が、汚れなき世界の美しさを指し示す、小さなひとすじの天使の矢を、自分の身体の中心に向けて縦に放っているところが、くっきりと見えてしまっていたのだった……。
突然、観客席にいる女性の一人が、
「ああ……」と言って足元にペットボトルを落とし、シートを敷いたライブ会場の床に、ビタミン飲料をびちゃびちゃっと飛び散らせた。
すぐ近くでも、他の女性が、恍惚の表情を浮かべ、半ば身体のコントロールを失って、力なく床の上に、手に持ったミネラルウォーターをジョロジョロジョロ……とこぼしてしまっているのが見えた。
歓声もあげずに、真剣な顔をしてステージ上の天埜衣巫を見つめていた大学生風の一人の女性も、急にその場にしゃがみ込むと、膝の間で、ペットボトルのお茶をドボドボドボ……とこぼし始めた。それを見た女性スタッフの一人が、我慢出来ず、お茶をこぼしてしまう前に、その場でハンカチを取り出し、ここは御手洗いでもないのに、その中に自分のお茶をトポトポトポ……と静かに注ぎ始めた。しかしすぐにコントロールを失ってお茶は勢いを増し、ハンカチの縁から大量のそれを溢れさせてしまっていた。
♫走り出す素足のわたし。透明な空へ翼をひろげ……
誰もいない砂浜で、誰にも見えない少女の心を晒け出し、
今、踏み出した私、空へ舞え、何もない未来の向こうへ……
……それは地獄のような光景だった。いや、ここは天国だろうか?あちこちで零れたスポーツドリンクやジュースが、会場を強い臭いで満たし、
パンドリータ達は、自分らがジュースを溢してしまっても尚、スローなバラードに合わせて天埜衣巫が歌い、静かに踊るステージを凝視していた。歓声。叫び。嗚咽。彼女達の足に踏まれ混ざり合う、夏の生ゴミのように甘くべたついた床……。
まずい。まずいかもしれない。でも……これは……、とても、甘美な、どこか夢にまで見た世界……。この子こそ、私が探し求めていた『パンドラの箱を開く』スーパーアイドル……。衣巫は、今、深いトランス状態で、自分の様子にすら気付いていない。……気付かせてはいけない……。 世奈はギリギリの判断で、コンサートの中止を踏みとどまっていた。
「剱持?しっかりしなさい!ライブはまだ終わっていないわよ!」と機材担当を叱責した世奈は、部下の椅子の下で、まだ滴を落とし続ける緑茶の水溜まりに気付いてはいたが、「曲の終わりと共に暗転!幕を一気に閉じて!」と怒鳴り、「衣巫を医務室に回収して!」と叫ぶと、すぐに自らも走り出してたのだった。
次回、『トロイメライ』




