井75 ウルズの水
オリオン星での大きな戦争の後、
オリオン星人達は、バラバラに宇宙に散っていった。
でもそれは、宇宙船に乗って避難したという、いわゆる物理的な移動とは違い、精神のみの転移であった。
アストラル体となった『イエローシード』は、光の塊になって宇宙空間に放たれたのだ。
そして、その種は空間だけでなく、時間も超越し、この地球に根付き、現代日本の小さなおうちに住む、一人の幸せな人間のお腹に着床した。
なんの変哲もない、濡れた赤ん坊となって生まれた私は……戸惑いながらミルクを飲み、脚を使って地面を歩くことを学び、この新しい世界で分類された『女の子』という属性の中で、同じ脊椎を持つ構造の生物の表面から剥ぎ取られた皮に模した素材を、赤く染めた鞄を背中に背負い、
この星の最も長寿の生命を殺して作られた、台に座り、同族の子供達と一緒に新しい記憶を育んでいった。
……私が、自分のことをオリオン星人だと気付いたのはいつ頃だっただろう。
お風呂場で気付いた、右わき腹に突如現れたバースマークか、それとも現世では持っているはずのない星間戦争での爆撃の記憶か…。
いつも、クラスで委員会を選ぶ時、私はどの委員も……自分がやりたいものではないと思っていた。中学校に入ってからも、私の本当に属するべきクラブは見つからなかった。(まあ帰宅部が私の感覚に近かったかな?)
ここは本来の私の居場所ではない……。
高校受験が無意味に思え、私は声優学校へ入った。(決して勉強が嫌だったからではありません。)
そこで私は天職を見つけ、大抜擢された最初のお仕事が、永久のディーヴァの七森きの役だったのだ。
一度だけ。原作者のママレード犬さんにはお会いしたことがある。あれはまだ第一話さえ収録されていない頃だった。
ママレードさんは静かな女性で、専門学校を卒業した後にすぐ漫画家デビューした少女特有の、内気で非社交的な、それでいて人目を気にしないようなずぼらな感じのする見た目をしていた。
カントリーガールのようなボサボサの三つ編みと、スカートを履く代わりに、脚を完全に隠したパンツスタイルの上から羽織った長めのフード付きジャケット。
微かにワキガのにおいがしたが、本人がそれに気付いているかはわからず、ただ無表情で目を逸らしているだけだった。
一目見てわかった。彼女も、また、スターシードであるということを。
それも、私よりもずっと高次の存在で、より高度な使命を帯びて、このアストラル界に転生しているということは明らかだった。
「ママレードさん、はじめまして。私はユグドラ・ラビリンス、七森きの役、水守らいかです。」隣にはソウルメイトたる、ジェネシスの永宮渼酉 とマリオネットの更級古卯兎がいた。
二人も緊張しながら挨拶をし、
尊敬する原作者が何と言うかを今か今かと待ち受けていた。
ママレードさんは、「皆さまにお会いできて嬉しいです……」とぽつりと言うと、「1作目の蒼穹のディーヴァは……正直失敗作でした。二度とあんな失敗はしません。……私は……、今回の永久のディーヴァに、全てを込めました。いきなりで申し訳ございませんが……、皆さまにも全力で演じてもらうことを……要求します……。ご、ごめんなさい!」
私達三人は唖然として、次に今までより、もっと緊張して、何と答えたらいいかわからず……、黙ってママレードさんを見つめていた。
当時は髪の短かった更級古卯兎が、頬を上気させながら、拳を胸にあてて、一歩前に進み出る。それに合わせてママレードさんは半歩後ろに下がった。
「わ、わかりました!お任せください!私達、全身全霊で、ユグドラシルアイドルを演じさせてもらいます!子供達に夢を届けるために!」
「……別に、夢は届けなくていいかも……」とママレードさんは言ったが、それでも凄く嬉しそうな顔をしていた。
実際は第3期暗黒世界編で、かつての子供達を悪夢に叩き落とす永久のディーヴァであったが、この時はまだ誰もそれを知らない……。
メランフォビアとの戦闘回を収録した後は、私達三人とも寝込んでしまって、異例の放送延期。ファンミーティングも中止で、全額払い戻し。まあ、それもディーヴァ伝説を彩るエピソードの一つだけどね。
……現在。過去、未來……。
そうね、全てはママレードさんの描いていた通り、ミンコフスキーの砂時計の中……。
水守らいかは、砂時計のようにくびれた腰に手をあてて、身体の中心を生命エネルギーが通過していくのを感じていた。
世界樹の麓にはウルズの泉がある……。
ウルズの水……。
らいかは仕事で訪れていた地方のホテルで、部屋に備え付けられている大きな洗面台の、壁一面に貼ってある鏡に、
自分の姿を写しながら、台の上に、持参している白い紙コップを置いていた。
……運命の女神ウルズよ、世界樹の名の元に、かりそめのわが写し身を浄化したまえ。らいかは、蛇口の下に手に持った紙コップをかざすと、自動で出てくる液体石鹸を、内側の目盛りの中に出した。じゅうぅぅぅと音を立てて生温い感触が肌に直接伝わってくる。受け切れなかった濃い黄緑色の洗剤が白い洗面台の表面に零れて飛び散ったが、気にせずらいかは手の位置を僅かに下に移して、続けて自動水洗を放出させた。すぐにぬるいお湯が注ぎ込まれ、泡立つ液体が閉じた指の中にある、白い紙コップに徐々に溜まっていく…。らいかは、何かを演じているように、まるで永遠に残る肖像画を描かれているかのように、優しく微笑んで目を閉じると……
……それに口をつけた。
何度おなじことをしても慣れることのない、口に含んだ水の味に、ぬめるような抵抗を感じ、舌の側面に、どうしても拒絶したくなる感覚が去来する。吐き出すのを我慢して閉じた唇の中で1度だけくちゅっと口内をゆすぐ。
…鼻に抜ける異物のにおい。液体なのに飲み込めないこの感覚に抵抗して、唇をぎゅっと固く閉じて、目を閉じながら、喉を動かしてこくりと飲み込むと、その味にすぐに嗚咽して吐き戻しそうになるのを我慢して更に飲みくだす。それでも、らいかは微笑みを絶やさずに、手の中にある強いにおいを放つ水を口へ運んでいった。
食道を下っていく、飲み物とは違うぬるっとした感覚…。
うふふ。これを何の抵抗も感じずに飲めるようになった時……、私は生命エネルギーの循環を我が物とし、この宇宙の波動の一つになることが出来るのかしらね……。
そう。私は……、結局凡人なのかもしれない……。
内側に泡の残る紙コップを洗面台に置きながら、らいかは悲しそうに笑った。私ごときはヒーラーとしての役割に徹し、自らが光の子を目指すことは諦めた方がいいのかもしれない……。
私は、戦争に怯える臆病なオリオン星人……。
昨日のあの子達なら、もしかしたら……私達ディーヴァキャストですら届かなかった、更なる高みへ到達出来るのかもしれない…………やっぱ、なんのかんの言って……
美少女ってズルい………。
ミンコフスキーの砂時計が反転する……。
……床に落ちた白い紙コップからは、僅かに残った水が零れ、
そのすぐ側に、綺麗に透明なマニュキュアが塗られた小さな白い足が、
微かに震えながら立っていた。
やがて震えは止まり、真珠色のサテン生地のスリップだけを着た赤城衣埜莉は、両肩に栗色に近い髪を細くばらけさせながら、
自分の身体の中心を、透明なクリスタルが突き抜けていくような不思議な感覚を味わっていた。
衣埜莉は、決意したように天埜衣巫の仮面を被り、丸い眉に挟まれた額の中央に、意識が集中していくのを感じた。
♫……わたしの声をきいて。今すぐに……ほら
きこえるでしょ?
孤独な夜を突き抜けて、
夜明けの色と混ざり合う
青い光
わたしの言葉は、この世界にある……
………ああ、もう、大丈夫。
私は現実のディーヴァだ。もうライブを中断するようなことは起こらない。
ありがとう。ラビリンス……。
衣巫は、足元に転がる紙コップを拾いあげた。
……そうだ、そういえば先輩も、これ試してみたのかしら……。
……それにしても…、恐ろしいくらい効果てきめんね……。まったく凄いわ。
これからはライブ前にこれをすればバッチリってわけね!
……第一チャクラとか言うから何のことかと思ったけど、
つまり一番茶から飲めばいいってことよね。12月収穫と言えばモルティーアッサムティーってことよね。普通はミルクティーにすることが多いから、ストレートで飲むにはちょっとキツかったけど、……濃厚なこの味!リラックス効果抜群だわ!
さあ、見ていなさい!天埜衣巫のスーパーライブが開幕するわよ!
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その頃、永遠の妖精こと如月ひみこは、テーブルに置いた白い紙コップを睨みながら、エナジードリンクを飲んでいた。
……これを飲んだ後って、毎回、天然ひみこちゃん水が黄色くなるのよね……。
でもこれは、怪しいスピリチュアルな話ではなく、れっきとした科学的な事実なのよ……。
ということは、あれかしら、せっかくのエナジーを、私、全然、吸収しきれてないのよね……。ああ、勿体ない……。
あ、そうだ。ひみこちゃんのライブで、この紙コップでエナジードリンクを配るってのどうかしら?ダハハハハ……
……そう言えば天埜衣巫、まさか、あなた、これを試してはいないでしょうね?
まあ、さすがにないか。……それにしても、水守さん、相当いっちゃってたわね。さすがディーヴァ声優だわ。まだ永宮さんと更級さんとは、個人的にはあんまし話せてないけど……こんなんじゃ先が思いやられるわ。
て言うか、よく考えたら私もディーヴァ声優じゃない?……やば、私も珍獣動物園の一員ってわけね……。
ひみこは間違えて、目の前に置いた紙コップにエナジードリンクをついで飲んでいる自分に、気付いていなかった………。
次回、いよいよセカンドライブ開幕です!
さあ、どんな伝説が生まれるか?!
乞うご期待!




