井73 セカンドライブ
♫……わたしの声をきいて。今すぐに……ほら
きこえるでしょ?
孤独な夜を突き抜けて、
夜明けの色と混ざり合う
青い光
わたしの言葉は、この世界にある
どの国の言葉でもない
既読の痕跡と待ち受けで
わたしの指と混ざり合う
青い光
わたしと君は赤の他人
天の岩戸をこじ開ける
君の手はもう血に染まっている
畏怖と善(if&then)/ 畏怖と善(if&then)
もし、そうならば、そうならば
善き行いを、出来たなら……
届くと言われ、手を伸ばす
良かれと思ってまたしてしまう
わたしの理は、この世界にある
どの国の法律にも載っていない
裸足で公園に来て、今すぐに
ほら
急げるでしょ?
孤独な夜を突き抜けて
夜明けの色と混ざり合う
青い光
わたしの歌は、この世界の現実
届かせるのは言葉ではない
無意味な台詞を積み上げても
本当の意味とはまた違う
光よりも遅い音
わたしと君は赤の他人
天の岩戸をこじ開ける
君の手はもう血に染まっている
畏怖と善(if&then)/ 畏怖と善(if&then)
もし、そうならば、そうならば
善き行いを、出来たなら……
悪いと知りながら
なぜ、同じことを繰り返すの?
わたしは悪くない
わたしが変わるくらいなら
いっそ世界を終わらせよう
孤独な夜を突き抜けて
夜明けの色と混ざり合う
青い光
わたしの声がきこえてる?
2人の朝を受け入れて
わたしの白と混ざり合う
青い絵の具
わたしと君は赤の他人
天の岩戸をこじ開ける
君の手はもう血に染まっている
畏怖と善(if&then)/ 畏怖と善(if&then)
もし、うそならば、うそならば
善き行いも、出来心なら……
*************
天埜衣巫は、ファーストシングル『if&then』を歌い終わるなりいきなり駆け出して、スタジオの防音扉を押し開けると、
廊下の奥の御手洗いに駆け込んでいた。
「う~ん」と、三上クリスティーヌがストップウォッチを止めながら唸る。
「やはり駄目ね……。1曲目が終わるところで、衣巫ちゃんは毎回御手洗いに行きたくなってしまう……」
「そうね……。さすがにファーストライブがちょっとしたトラウマになってしまっているわね……」パンドラプロダクション社長、雨宮世奈が渋い顔をしながら、防音扉の方を見やった。
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天埜衣巫は、安全が確保されたダンススタジオ内の御手洗いで、
汗ばんだお面を外していた。
……激しい動悸を感じる胸を、ジャージの上からギュッと掴み、浅い呼吸ではっ、はっ、はっ、と息をする。
素顔の赤城衣埜莉は、まだ手を洗わないで、じっと洗面台の鏡に映った自分の顔を見ていた。
……1曲目の終わりに、御手洗いに行きたくなることが避けられないのだとしたら……、
どこまで我慢できるかを試してみよう。舞台の構成的には2曲目まで歌い切れば…、
3曲目との間に衣装変えがある。
そこで素早く紙マスクにしてしまえば……。
いいえ、無理!ムリムリムリ!わたしはマスクの中になんてぜぇっったいに出来ない。それだけは無理。
衣埜莉は、鏡の中のこの可愛らしい少女が、そんな行為をすることが許せなかった。…徐々に限界が近くなり鏡の中の少女は、身体を細かく上下に揺すりながら、細い栗色に近い髪を汗ばむ額に張り付けて、涙で微かに青い瞳をうるませ…、唇を噛む。
……どんなに、前もって御手洗いに行っていようと、必ず1曲目の終わりに、また行きたくなるというのは……やはり、心の問題なんだろう。だから……それを克服しない限り解決はしない…。
クリスティーヌさんの振り付けや、構成は完璧だ。だから変えてなんて言えないし、わたしのせいで変えてほしくない。
……ここまでか……。衣埜莉は諦めたように、自動水洗の蛇口のセンサーに手をかざすと、勢いよく温かいお湯を吹き出させていた。
しばらく放心して、指の股を開いたまま目を閉じる。
衣埜莉は身体をぶるっと震わせて、力を抜くと、汗が頬を伝うのを感じた。
空っぽになった心を、ペールピンクのジャージの中で萎ませて、衣埜莉はまだ少し、…心の中の一番大切な場所に後悔を残しながら、ハンカチで指の間を丁寧に拭いていた。
指にくるんだ白いレースのハンカチの中に、そっと消え入るように、最後に残った小さな水溜まりが沁み込んでいく。
全ての湿り気が抜けていくと、衣埜莉は身体の中心にぽっかりと穴が空いてしまった気がして、……しばらくは茫然とした様子で、捲った腕もそのままに、
普段は隠している肌を冷たい空気に触れさせていた。
やがて、衣埜莉は、おかめのお面を付け直し、天埜衣巫に戻る。
そして鏡の前で、穴のほげた虚ろな目を見つめ返し
♫……わたしの声をきいて。今すぐに……ほら……と囁くように歌い始めてみた。
すぐに胸が苦しくなり、……喉に酸っぱいものがこみ上げてくる。
同時に衣巫は、泉が湧き出すイメージと共に、ゆっくりと重い水銀が、食卓に置かれた白い器の中に、音もなく充填されていくかのような感覚を覚え……身体の中心が圧迫されて……前屈みになっていく。
ダメだ……。このままじゃダメだ……。
衣巫は、必死に考えていた。
何か打開策が……。これは、わたし一人の力ではとても無理だ。助けを……。誰か、この件を相談できる人の助けが……、わたしを導いてくれる誰かが……ああ……そんな人が…どこかにいなかったかしら………。
『もう、早く言いなさいよ!』
『そ、う、い、う、こ、と、は!でも……安心して。この先輩にどーんと任せなさい!今から私が手取り足取り教えてあげるから!』
……にしししし、と笑うひな先輩の顔が、衣巫の心に浮かんだ。
あ、そうか。先輩に相談すればいいんだ。
確か、先輩は、自分はこの問題の専門家であるとか、ないとか、そんなことを言っていたような、言っていなかったような……。結局あれからわたし、聖域の御手洗いの使い方も教わってないし……。
よし!ダンスレッスンが終わったら、早速ひな先輩に連絡してみよう。決めた!
……セカンドライブまであと二週間。それまでに何とかしてみせるわ!
わたしは現実に存在するユグドラシルアイドル。パンドリータ達はわたしをそう呼ぶ。覚悟していなさい!あなた達に天埜衣巫のフルステージを見せつけてあげるわ!!
自信を取り戻した衣巫は、ハンカチの角を揃えて綺麗に折り畳むと、2曲目以降のリハーサルの為にスタジオへ戻っていくのだった。
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……。さよなら……。
如月ひみこは、御手洗いに向かって合掌し、念のため塩を撒くと、やっほ~い!とスキップをしながら部屋に戻ってきた。
これで、晴れて私も日常生活に戻れるわ!
いやあ、毎日のお掃除お洗濯、めっちゃ大変だったわあ…。私、主婦の気持ちが少しわかったかも。
でもこれで!ようやく!私も華の独身生活に戻れるってわけね!
……さようなら!短い間だったけど、あなたとの日々は…今この瞬間、忘却の彼方に消し去らせてもらうわ!
さあ、シリアスなお話はもうおしまい!尻、ass……いけない……ひみこちゃんの英語教養がまた溢れ出してしまったわ……。
ひみこは、ルンルンと鼻歌を歌いながらパソコンに向かい、メールチェックを始めた。
どれどれ……。父親からのメールをゴミ箱に放り込み、雨宮社長と、介護商品案内のDMをチェック。リンク先の鼻洗浄の動画をクリックしようか、しまいか、しばし悩んだ後、『あなたは18歳以上ですか?』との表示に、慌ててウィンドウを消す。
ふう。危なかったわ…。いくら大人なひみこちゃんでも、純粋な心を失ってはいけない……。
ひみこは、ふと見慣れない人からのメールに目を止めた。
おや、まあ、これは……。『イヴ』……って誰だっけ?
お、思い出した!!……天埜衣巫じゃない!!
思わず正座するひみこ。……て、なんで私がビビらなきゃいけないのよ。
まあ、でも?あの超売れっ子、超々超がつくほどのブイ・アイ・ピー?の天埜衣巫が連絡してくるなんて……。私ってば、やっぱり超大物?て感じ?
いやいや、何言ってんのよ。私の方が先輩でしょ!ここはデンと構えて、どっちが上だかハッキリとさせなきゃ!あと、あの子の素顔、今度こそ暴いてやらなきゃ、ね?
ひみこはメールを開き、目を皿のようにして文面をチェックし始めた。
『ひめちゃん先輩。お久し振りです。
わたし、天埜衣巫です。
師走を迎え何かと気ぜわしい毎日ですが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
先日は、この業界の新参者であるわたしに、
色々なことを親切に教えてくださりまして、誠にありがとうございました。
実は、「あの件」で改めてご相談させていただきたいことがあるんです。
(>_<)
今度の日曜日、パンドラプロダクションでお会いできないでしょうか。
ポインセチアの色付く季節となりましたが、まだ楽しいクリスマスまでには間がありますね。お風邪などひかぬよう、お体にお気を付けくださいませ。
ではご返事まってます。 イヴより♡』
……お、おう。いつも生まれっぱなしのひみこちゃんはお部屋では、風邪をひかないよう、きちんと暖房つけてますよ…。ひょっとしてバレてる?……みんな、ひみこの秘密に鋭すぎるのよね……気を付けよっと。
ふむ。……。
まあ、可愛い後輩がこう言ってるんだし、悩みを聞いてやってもいいかもしれないわね。あの件か……。あの件て何だっけ?
今度の日曜日……。あれ?私、何か予定があったっけ?……予定はなかったけど……。
ひみこはシロガネアの森の手帳を捲りながら記憶を辿っていた。こういう時、マネージャーがいれば便利だと思うんだけどね……。デビュー当時の盗撮騒ぎ以来、私は雨宮社長直属プロデュースのアイドルになってしまったから……。
お膝元過ぎて、逆に放置気味で、一任されているっていうか……結構全部自分でやんなきゃいけないのよね。
あれ?日曜は結局なんかあったんだっけ。
……まあ、いいか。どうせパンプロビル内からは出ない日だし。…O、K、と。(ポチポチ)
あら、もうこんな時間。そろそろ、ぱ邪馬台国の準備をしなきゃね~。今日のパジャマはぁ、なんとぉ、UQDVの光るパジャマよ!!最近、大人用も発売されたのよねえ。メーカーもわかってるわね。
ひみこは大人用に袖を通してみた。
……ぶかぶかね。さ、さすが大人用……。ま、まあ、これはセクシーに着こなすしかないわ。うっふん。ほら、チラリズム、ちらり、ちらっ、え?どこ?ほ、ほら?ここ!み、見えるでしょ(涙)
……て、これ全然光らないわね。
暗くした部屋をもう一度明るくする。
おかしいわね。丸1日部屋の灯りで照らしておいたのに……。ひみこは改めて説明書を読んでみた。
……なになに。光るには紫外線が必要、と。うちのじゃダメなのかしら?……。あ、LED……。紫外線は出ないか……。
まあ、これも動画のネタとして使えるわね。
ちょっとドジでおっちょこちょいな、可愛いひみこちゃん…、てね。
さあ、皆さんお待ちかね!ひみこちゃんのぱ邪馬台国 が、もうすぐはっじまるよ~!
「Enjoy炎上♡た妖精!
今夜も私の毒舌で、あなたをチュー毒に、し、て、あ、げ、る。」
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返信メールを確認した赤城衣埜莉は、
ぱ邪馬台国を途中まで見ていたが、あまりのくだらなさに視聴をやめ、……アイドルってやっぱり大変ね。こんなことまでやらされて……。それでも先輩はやっぱりプロね。実に楽しそうにやっているわ。私も見習わなきゃ……と思い、ベッドに入ると静かに目を閉じて眠りにつくのだった。
次回、『会合』




