井64 忍び寄る魔の手
……わたしは、人魚のお姫さま。
ある嵐の夜に、わたしは難破船から投げ出された王子さまを助け出した。
王子さまを岸に運び、その綺麗なお顔をじっと見つめる。
その日からわたしは、もう一度王子さまに会うことしか考えられなくなってしまった。
わたしは、海の魔女にお願いし、自分の声と引き換えに、人間の脚をもらった。
……魚も、イルカも、人魚も、お洋服は着ていない。
だから当然わたしも、そのままの身体で地上に上がり、王子さまを待った。
歩くことに慣れていない脚が震える。
お城から離れ、海を見にきた王子さまが、わたしの姿を見つける。
王子さまは、わたしの身体を上から下までじっくりと眺め、微笑んでわたしを連れて帰ることにする。
……王子さまに抱かれ、身体を丸めたわたしは幸せになる。
お城に連れていかれたわたしは、その日から、きらきらしたドレスを着せられて、てーぶるまなーや、れいぎさほうや、だんすを教え込まれた。
でも、
いつまでも、
どうしても、
……慣れないことが一つだけあった。
人魚は水の中で暮らしていたので、どこでも場所を気にせず、身体の水分を放出することができたので
今日もわたしは、王子さまのお顔を見ながら、自然と、綺麗なドレスの前側と、踵のあるヒールの内側と、お城の床に敷かれた絨毯を水浸しにしている自分に気付いていなかった……。
お人形さんみたいに喋れないわたしを、優しげな目で見つめる王子さま。……その隣で嫌悪感を露にした顔で、鼻をつまむ隣の国のお姫さま。この人が王子さまの結婚相手なのだ……。
…………。
………。
……目を覚ますと、村田知佳は、水分を含んで、ずっしりと重くなった紙マスクに気付き、
まだ横になりながら、肌にまとわりつくその感触を静かに受け入れていた。
最近は回数が減ったものの、油断すると、いまだ枕を涎で濡らしてしまう知佳は、
慣れた手つきで紙マスクを丸め、その両端のマジックテープで縛ると、ビニール袋に入れた後、密閉式の屑籠へ入れた。
食卓へつくと、にこにことした村田真理亜(知佳の母親)が「あら、おはよう。」と言う。父親はまだ夜勤から帰ってきていない。……帰ってこなくなってから3週間は経っている。
近頃、真理亜が上機嫌なのは、不倫相手との関係がうまくいっているからだ。……この人は、父親と別れるのだろうか……。……そうなってくれたらいいのにな。そうしたらわたしは、お父さんについていくから。と知佳は思っていた。
「今日ね、」と真理亜が楽しそうに言う。「阪上さんがこっちに寄ってきださるんですって。おまけに、お母さんの仕事の打ち合わせと一緒に、美味しいものも作ってくださるそうよ。」
「お父さんはいつ帰ってくるの?」
真理亜が露骨に嫌な顔をする。
「……あの人はもう戻ってこないわよ、多分。」
それきり二人は黙ってしまい、カチャカチャと食器がぶつかる音と、牛乳をかけたシリアルを咀嚼する音だけが、食卓に響いていた。
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ピンポーン。
「あら、もう来たわ!」
化粧をした真理亜が、慌てたように鏡の前で髪を直し、自分の顔の気に入っている角度を横目で確認して、昔のアイドルのようなくりくりとした目を何回か瞬きさせた後、短い距離を玄関まで走っていった。
「こんにちは、村田さん。」しっかりとした声で挨拶をしながら入ってきたのは、短髪で色黒の、体格のがっしりした男性で、胸筋を強調するような小さめのジャケットを着ていた。
彼は真冬にも拘わらず、薄いコートしか羽織っておらず、額にはうっすらと汗をかいていた。
「やあ、初めまして。君が知佳ちゃんか。真理亜さんから話はよく聞いてるよ。はい、おみやげ。」
と、背中側から大型家電量販店のビニール袋を取り出し、同時にもう片方の手で花束を取り出し、「はい、村田さんには、これ。ランクアップおめでとうございます!」と言って照れ臭そうに、それぞれの女性に手渡した。
「まあ、こんな!気を遣っていただかなくてもいいのに!」と真理亜は、喜びを隠そうともせずに、カサブランカとノースポールが目立つ、ピンクの包み紙でラッピングされた小さな花束を受け取った。
「ほら、あなたもお礼を言いなさい。」
知佳は、受け取った袋を開けもせず「……あ、ありがと、とうございます。」と言って、困ったように袋を見つめた。「ほら、開けてごらんなさいよ、全くあなたは、気がきかないんだから……」
まあまあ、と阪上は苦笑いをし「後でいいですよ、僕はね、小さい女の子が何をもらったら喜んでくれるかなんて、わからないですからねえ。正直、自信ないですよ…」と言って、頭を掻いた。
「あら、ここにいるもう一人の女の子は、凄く喜んでますよ?」と言って真理亜がうふふと笑う。
知佳は無表情で、そんな母親を眺め、ビニール袋越しに感じるクマかなにかのぬいぐるみの首辺りをぎゅっと締め付けていた。
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「あれ、お砂糖がなくなってますね。」
阪上が、村田家の調味料棚を見ながら言う。
「あら、すみません!恥ずかしいわあ。急いで買ってきますね。ほら、知佳、あなたコンビニで買ってきなさい!」真理亜がそう言うと
「いえいえ、それなら僕が買ってきますよ。」と言って、阪上はそのまま玄関に行って靴を履き始めていた。
「じゃあ、私も……」と言う真理亜を、阪上は手で制し、「それなら、村田さんは先にスープの準備をお願いします。材料はそこに揃ってますので。」と言い、真理亜は「はい、了解です!」と敬礼をして楽しそうに笑った。
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阪上が出ていくと、真理亜は知佳に向かって「あなた、プレゼントもらったんだから、もう少し喜びさないよ。……全く、可愛げのない……」と言って、少し強めに背中を小突いた。
知佳はよろけ、額を柱にぶつけて「痛いっ」と小さな声で呟いた。
それを見た真理亜が、「あぁもう、あなたってホント、どんくさいわね。いったい誰に似たんでしょうねぇ?」と言い、「もういいわ。向こうへ行っていなさい」と、実の娘のことを手でしっしっと追い出した。
知佳は阪上からもらった家電量販店のビニール袋を持つと、俯きながら自分の部屋へと引き上げていった。
……学習机に向かい、社会科の発表に使う、学校の七不思議の資料に目を通し、スライドに使用するイラストを取捨選択する作業に取り掛かる。
しばらく時間が経過すると、台所の方から良い香りがしてきて、知佳はふと時計を見た。
……さっきから30分近く経過している。
ガラッと知佳の部屋の引き戸が開いて、真理亜が顔を出す。
「なんか、阪上さんが戻るの遅いから、私、探してくるわ。電話、ここに忘れていってるし。」
真理亜は何の躊躇もなく、阪上のスマホを開こうとし、ロックされた画面に対してら何通りかの指の動きを試してみていた。
「知佳、私、ちょっと探しにいってくるから。もし、阪上さんが先に戻ったら、うちに入れて差し上げて構わないから。じゃ、すぐ戻るわね。」と言うと、
真理亜はサンダルを突っ掛けて外へ出ていってしまった。
5分ほどしたところで、入れ違いで戻ってきた坂上が、玄関のチャイムを鳴らした。
知佳が扉を開けると、「村田さん、遅くなって申し訳ない。ちょっと道に迷っちゃって、
僕、ここにスマホ忘れてませんか?」と阪上は言って、「あれ?……知佳ちゃん、……一人なの……?むら、いや、お母さんはどこかな?」と言い直した。
「お、お母さんはあ、あなたを…探しにいきました。す、すぐ戻るそうです……。」知佳がそう言うと、村田は(ふうん)といった顔をして、腕を組むと、
急に知佳のことを頭から爪先までジロジロと眺め始めた。
「ねえ、知佳ちゃんて……あんまりお母さんと似てないよね?……いや、その、タイプが違うっていうかさ、同じ美人でも、別系統っていうか……」「わ、わたし、び、美人じゃないです。……そ、それに、わたしは、お、お父さん似ですから…。」
度の強い眼鏡と マスクで顔が半分以上隠れていても、決して美人ではないことがわかる知佳の顔を眺めながら、
阪上は、「持ってきたプレゼント、気に入らなかった?」と聞いた。
「あ、ありがとうござい…ます。」「でもまだ開けてないじゃん?」「す、すみま、せん…」「いや、別に謝らなくてもいいよ?」
「あ、あの、お母さん、もうすぐ戻ってきますから……。」
阪上は、その言葉を無視して、知佳の部屋をぐるっと見渡していた。そして、今始めて気付いたように、「なんか臭うね?」と言って、大袈裟にくんくんと鼻を鳴らす振りをしながら、部屋の角にある屑籠に近寄っていった。
知佳は怯えた目をしながら身体を固くして、
阪上の行動を見守っていた。
阪上は屑籠の下に付いているペダルを踏み込んで、バタンと勢いよく蓋を開いた。
そしてニヤニヤと笑いながら、中にあるものを一つ摘み出す。
「……お母さんから聞いてるよ?知佳ちゃん、まだ紙マスクしてるんだって?」
阪上は手に持ったものを、ゆっくりと、ゆっくりと、時間をかけて、知佳の方をちらちらと見ながらほどくと、最後はそれに鼻を埋めて臭いを嗅いだ。
知佳は青ざめて、もうどうしていいか、わからずに、逆に表情を失って、ぼおっと立ち尽くしていた。
「……おじさんがさ、知佳ちゃんのお悩み、解決してあげよっか?」
知佳は今、ようやく意識が戻ったとでもいうように後退りを始め、それに合わせて阪上の方は少しずつ近寄ってくる。
「知佳ちゃんのお口はさ、おじさんが思うに、まだ子供なんだと思うよ。だからさ、おじさんが知佳ちゃんのお口を、大人にしてあげるよ。」
「いや……」知佳の目から涙がこぼれ始める。
ゆっくりと、だが確実に力強く、阪上の体が、小さな少女の上に覆い被さっていき、汗をかいて湿った自分のYシャツを、生活臭のする女児のトレーナーに重ね合わせ、
彼女を静かに押し倒していった。そして抵抗するか細い腕を床に抑えつけ、嫌がる少女の口の周りから無理矢理マスクを引き剥がした。
阪上は「大人の男の口で、その、幼くてしまりのない、まだおよだれ臭いお口を塞いであげるからね。」と言って、阪上は唇を寄せていき………いまにもそれが知佳の唇に重なり合いそうになる………その時、
ゴンッと鈍い音がして、「うっ」と阪上の体が床に転がった。
驚いた知佳が目線を上に向けると、フライパンを手にした真理亜が、顔を真っ赤にして泣いているのが見えた。
「出ていけ!この変態!うちの子に何してやがるんだ!死ね!消えろ!失せろ!」と真理亜が叫ぶと、
髪を乱して頭を押さえた阪上が、「……今まで散々よくしてやったのに!何のつもりだ、お前!お前……このまま仕事を続けられると思うなよ!!」と怒りを露にした表情で怒鳴った。
「この変態野郎?!知るか!これ以上何か言ったら、……殺すぞ…耳が腐る!警察に通報するからな!」真理亜がフライパンをもう一度振り上げる。
頭からひとすじの血を流した阪上が「暴力を振るってるのはお前の方だろ!呼べるもんなら呼んでみろ!」と大声でわめき、「……くそが!!」と言うと、よろけながら玄関に向かっていった。
……阪上が去った後の村田家で、知佳は呆然とした様子で部屋の床に尻餅を付いたまま、母親の姿を見上げていた。フライパンを持って「くそが!くそが!くそが!」と怒鳴り続ける母親には、知佳のことが見えていないようだった。
……母親は肩をわなわなと震わせて、泣いていた。
「お母さん……」と知佳が呟く。
真理亜は怒りに満ちた表情で、突然、娘の頬を張り飛ばし、「ふざけるな!!」と叫んだ。
そして、「……知佳、私、私……、ごめんなしゃあひ………うわあああぁぁぁ……」と再び泣き出すと、娘の頭をぎゅうっと胸の中に抱き止めていた。「知佳、知佳……、私、あなたにひどいことをいっぱい言ったわ……許して……許して…お母さんを許して………」
真理亜はそう言いながら、知佳の乾いた頭皮に熱い口付けを繰り返すのだった……。
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翌朝、月曜日の教室に登校してきた知佳は、興奮した双葉和歌名に腕を掴まれて、
いきなりこう言われた。
「聞いた?!隣町の小学校で、女の子が拐われたっていう話!」「え…?」「それでね……、」急に和歌名の声が小さくなる。
「見つかった女の子……、髪を全部剃られていたらしいよ!
……命に別状なはいってニュースで言ってたみたいだけど……可哀想すぎるよ……怖いよね……まだ犯人、捕まってないらしいから……今日はこのまま集団下校らしいよ。」
知佳は改めて朝の教室を見渡した。
女子たちが、不安と興奮から、大声で、または小声で、ひそひそ声で、途切れるとなく喋り合っており、それは、東三条先生が教室に入ってくるまで続いていた。
高嶺真愛が不安そうに和歌名の方を見る。早川雄大が難しい顔をして何かを思案している。
村田知佳は、暗闇で、丸坊主にされた女の子の姿を想像し、一瞬それが自分の姿になったような気がして、痙攣したように、目蓋を何度もぱちぱちとさせ始め、
自分の意思ではそれを止めることが出来なかった。
次回、『護衛』




