井61 サリー・ホッパーと検査の医師
……………。
………。
冷たい夜の部屋……。
冷えきったベッドの中で、早見恋歌は、身体を横に向けて、何度目かの寝返りをうっていた。
………。
恋歌は、もぞもぞと腰を動かし、我慢出来ずにパジャマの下に手を入れると、
……指を使って身体の裏側の中心点の周辺を掻いていた。
あの恐ろしい邂逅は11月のことだった。あの日から、もう1ヶ月以上は経っている。
最近の恋歌は寝不足が続いていた。
冬の寒い夜更けに目が覚めてしまい、不安と怖れから一旦身体を起こすが、まだ眠いような気もして、もう一度布団の中に潜り込む。
かさかさと、部屋に置かれた水槽の中で、闇の脂蟲たちが音を立て、恋歌は、自身の皮膚を掻いた指を、そっと鼻先に持ってくると、不思議と落ち着くそのにおいを嗅ぐことで、再び浅い眠りに落ちていった……。
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朝、目が覚めても、すっきりとはしない。
昨夜までの恋歌は、自分の身体に起きている変化に向き合うことが出来ず、見て見ぬ振りをすることを選んでいた。
だが今朝は、その痒みが前側にも達してきたことに気付き、恋歌は必死に我慢をしながら食卓の椅子に腰を下ろして、もう限界かもしれない……と考えていた。
苛々として、意味もなく母親にあたる。
……おかしい。そんなはずはないのに。私はあれに触れていない。密閉式ビニール袋に入れたまま、ガムテープでぐるぐる巻きにして、生ゴミと一緒に出してしまったのだから。今頃あの禍々しい禁忌の生き物は、炎に焼かれ消滅しているはず……。
……ドアノブ?服?ベッド?あの子はこの家でどこに触れていた?
……あの可哀想なチャバネちゃんは、見つけ次第殺処分を行った。
手も念入りにアルコール消毒をした。……その指を……、あの日の夜、私はリップクリームを塗った唇に添わせて、軽く伸ばした……ような気もする。
あの悪魔の子が、伝導書にある通り、人の口から感染するのだとしたら……。潜伏期間は約1ヶ月。だとしたら、今まさに孵化したあれが、私の身体を侵している可能性がある。
1ヶ月前のあの日の翌日、私は練習を休んだが、振琴深海には連絡を取った。あまりに重要なことだから、直接会って話がしたい、と言い、
都内某所で極秘の面会を行ったのだ。
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「……で?今日はなんで練習を休んだのかしんないけどさ?アタイに話ってなによ?」
珍獣、ゴスロリヤンキーバンパイア、振琴深海がカシスジュースを手に、眉間にしわを寄せてつっけんどんに聞いてくる。
「アンタが来てないとさ、マリーの場面、出来ることが少なくなるんだよねー。肝心のひみこ姐さんは、まだ基本こっちに合流できてないし……」
目の前に座る恋歌は、「ごめんなさい。」と言い、「先にあなたに聞いておきたいことがあるの。あなた……、今日、真咲瑠香と話をした?」と前のめりになって尋ねてきた。
「まさき るかぁ?は?あの子がどうかしたの?」と、深海はくわえていたストローを口から離し、次にフライドポテトを摘まんだ。「て言うか……ごちそうさま、ほんとにおごってもらっていいの?」「いいのよ、気にしないで。私も食べるから」と言って恋歌も同じ皿から、素手でポテトを摘まんでいた。「…ところで、これニンニク入ってないわよね?」
……この世に、ニンニクの入っていないジャンクフードなんてあるのかしら?そもそも普通に食べれてるのなら別に気にしなくてよくない?と恋歌は思ったが、黙っていた。
「あなたがまだ真咲瑠香と話していないのなら、いいわ。それともう一つ。……あなたって、その……吸血鬼なんでしょ?」「ええ、そうよ」とポテトをモグモグ頬張りながら深海が答える。
「あなたって黒魔術側の人間なの?」「いいえ。((心の中で)アタイ、そもそも人間じゃないし…)。」
「そうなのね……(ホッ。)じゃあ、如月ひみこは白魔術側なの?」「違うわ(姐さんは黒も黒、真っ黒よ)。」
……やはり、そうか。振琴深海は、自ら認めるなんちゃって黒魔術師。如月ひみこは、黒か白か以前に、魔術師ですらない…。あれは多分、別な妖怪かなにかね……。恋歌はポテトの塩を皿の淵ではたきながら考えていた。
「ん?真咲 るか……?」深海が腕を組んで考え込むような表情をする。「…ああ、真咲瑠香?そういえばあの子……昨日アンタと一緒に帰ってなかったっけ……?」
深海は、塩のついた手をペロッと舐めながら恋歌に向かって言った。
「あの子がなんなの?」
「真咲瑠香には注意して。」「は?」
「たとえ、あなたが黒魔術側の人間じゃないとしても、十分狙われる可能性はある。………正直私にはあれの真意も、何を考えているのかもわからない。でも予測するに、あれは、自分の仲間を増やそうとしているんだと思う…。
……明日から私は練習に戻るけど、ひとまず私は真咲瑠香の仲間であるかのようには振る舞うつもりよ。
……さっきの感じだと、あなたは中立の立場なのだと思うけど……、忠告はしたからね?
……私だってさ、あなたを敵に回したくはないし。」
………。やれやれ。と振琴深海は思っていた。
オンナってホントやあね。グループだとか仲間だとか、すぐに群れたがって。黒魔術?白魔術?サリーの設定になぞらえて、縄張り争い?誰ちゃんと誰ちゃんがお友達だから、あの子とだけ仲良く遊ぶのはダメ、とかさ……。
アタイそういうのが嫌で孤高のバンパイアになったのに……。……オホン、まあ、アタイにとってひみこ姐さんは別格だけど…さ…。
「わかった、わかった。アタイはアンタ達のグループには関わらないわ。アタイがどっちのグループかに入って、天秤の釣り合いを乱すようなことはしないから!安心して!」
深海がポテトに伸ばした手が、同時に出てきた恋歌の指にぶつかって、「あ」
と気まずい沈黙が流れる。……て、別にアンタとは、顔を赤らめて恋が始まったりしないからね?
深海はしなってきたポテトを鷲掴みにして、もりもりと口に放り込んでいった。
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……あの振琴深海とのファーストフード店での会合が、だいたい丁度1ヶ月前のこと。
私は……、邪悪なるカルキ様の眷属を、身籠ってしまった可能性が高い……。
もう、疑いようがない。
……恥ずかしいけど、お医者さん行こ……。
その前に、振琴深海にも教えてやらなくちゃ。あの子も感染してる可能性が高い。なんてったって一緒の皿でがつがつポテトを食べてたし……。
一応、礼儀?として電話をかけて教えておいてやろう。カルキ様にバレるのは怖いけど。あれから、真咲瑠香自体は大人しくしているようだし。ホント、あれは何を考えているのかわからない。私の前でも、真咲瑠香である態度を崩さないし……。あれは夢だったのかしら?
恋歌は、椅子の上で片方のお尻を上げ、指先でそこを掻いていた。
水槽の中で重なりあったチャバネゴキブリのつがいを見つめながら、恋歌はスマホの画面にある振琴深海という名前をタップした。
プルルルルル…………
「もしもし?」
「なによ?」
「元気?」
「昨日、アンタとはレッスン場で会ったけど?」
「………」
「………」
恋歌は、んっ、と咳払いをすると、「寒いわね」と言った。
「何の用?アタイ忙しいんだけど?」
「ポテト……」「ん?」「…おいしかった?」「は?」
恋歌は少し迷った後、唐突に切り出した。
「あなた最近、……その……痒くない?」「は?」「その……、身体、が。」
「はい?アンタ何言ってんのよ。乾燥してるから痒い時もあるわよ、じゃあ、もう切るわね。」
「ま、待って!!」スマホの側面を握る、恋歌の手に力が入る。「聞いて!……あなた、その、感染してる恐れがあるの!!」
「はぁ?」
深海の反応を聞いて、恋歌は諦めたように肩を落とすと、
……今までにあった出来事を、洗いざらい全部話すことに決めた。
……ただし、カルキ様のことは慎重にぼかし、名前も伏せて……。
「…………。」
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「なるほどね……。」と深海がスマホの向こうで呟く声が聞こえた。
「……あなた、驚かないのね?」と恋歌が言う。
しばらく沈黙が続いた後、深海が口を開く時の唾の音が聞こえた。
「アンタさ、アタイの名前の由来を知ってる?」
え?あんたもカルキ様式なの?…え~っと……ふることふみ……逆から読むと、みふとこるふ……。なにそれ?
「アタイね……。捨て子なの。」「?」「橋の下で拾われて、孤児院で育てられたの……。
笑っちゃうでしょ?リアルに橋の下に赤ん坊を捨てるやつがいるのかっつ~の!アタイの名前は橋元ステコかっつ~の!」
恋歌は今のを笑っていいのかどうか迷いながら「……それがあなたの真名なの…?」と聞いた。
「んなわけあるかい!!アタイの本名は……、まあ、そっちはどうでもいいわ。それでね、アタイは絵に描いたような孤児院で、どっかの平成ドラマにあるような、べたな展開の半生を送って、……ある日、堪えられなくなって、そこを逃げ出したの。」
恋歌は、無意識に座面と身体の間を掻きながら「それで?」と言った。
「それから3ヶ月以上、アタイは……ホームレス生活を送ったわ。今思えば、小6の女子が、相当危険なことをしていたと思う。そこで殺されていたとしても不思議じゃなかった。」
「……そこで、あなたは殺されたの?」 「はい?…あ、ああ、そういうこと?……そうよ、アタイはそこでバンパイアに襲われて、吸血鬼に生まれ変わった(という設定よ!)。」「………。」
「実際はね、アタイはそこでパンドラプロダクション社長、雨宮世奈さんに拾われたの。もう、幸運としかいいようがなかったわ。……この容姿で生んでくれたクソ両親に、感謝しておかないとね……。」
恋歌は黙ったまま、じっと深海の話を聞いていた。
「……話が長くなったわね。とにかくね、芸能界にデビューするにあたって、アタイは芸名を決める必要が出てきたのよ。それでね、アタイは自分から社長にアイデアを出したわけ。
……アタイは乞食。コジキ、こじき、……古事記。駄洒落と古代日本史が大好きな社長は、このネタに飛び付いたわ。」
「古事記……。またの読み方を古事記。」
ほほう、と早見恋歌は感心して溜め息を吐いた。……まあ私の闇の煉獄ちゃんは本名だけどね。
「どうして、アタイがこんな話をしたかって言うとね?
……アタイのホームレス時代はね、毛虱、ぎょう虫、ものもらい、おまけに円形脱毛症!何でもドンと来やがれ!て感じで、生きてきたってこと。こちとら身ィひとつで、やってきたんだ、ってぇんだ!回虫の一匹や二匹で、アタイがビビるとでも思ってんのか??
アタイの弱点はね、あくまでニンニクと、日光と、十字架と、銀の武器と、聖水、杭で心臓を……て、結構多いわね。」と深海は悪態をつき、
その後、虫下しに有効な市販薬と、いい病院を恋歌に紹介して「お大事に」と言って電話を切った。
もうなんなのよ、いったい!サリー・ホッパーの舞台、出演者全員下痢か腹痛で倒れたらどうすんのよ?ホント、アンタ達やる気あんの??
…………。
………。
……。
……あれ?……待って?
……アタイってばさ、半月以上前、ひみこ姐さんと同じベッドで一夜を共にしなかったんじゃないかしら……。姐さん…?大丈夫、かしらね……。
まあ、大丈夫か。あのひみこ姐さんだし。
アタイごときが心配するようなことではないわね。
さて、もうそろそろ『ひみつのひみこのぱ邪馬台国』がはっじまるよ~。あー楽しみ~。
携帯の電源を切った振琴深海は、1万2000円で購入したひみつのひみこちゃんスティック(十手の形をしたピンク色の棒)を光らせながら、開始時間までPCの前で待機するのだった。
次回、『ぱんでみっく?!』




