井56 ダンサーの宿命
宍戸あきらは、前を案内していた橘 華雅美を追い越して、前方に見えてきた扉に向かって足早に歩き出していた。
「ここに、さやかがいるんですね?」「そうや。でも、鍵をかけてはるから、入れてはもらえへんと思うよ?」「僕たちが今日来ることは伝えてあります。」「返事はあったの?」とクリスティーヌが聞いてくる。
「いいえ…。でも既読はつきました。」
あきらは「さやか?」呼び掛けると同時に扉をノックしていた。
返事はない。あきらは、ポケットからスマホを取り出すと、妹の番号に電話をする。
「あきらちゃん、何か聞こえない?」クリスティーヌが、扉に耳を付ける。「あら、ほんまや。」華雅美も頭を並べて耳を澄ませる。
「もう少しボリュームが上がらへんかしら?」
クリスティーヌは(すごいボリュームね……)と、心の中で、背中に感じる柔らかい感触に率直な感想を述べていた。
扉の向こうの、あまり遠くないところで、どこかで聞いたメロディーが流れてくる。
「これ…、あれやないかしら、ディーヴァの歌。」「ああ、ちょっと前に人気だったアニメね。」「あら、そんな過去のことみたいに言うてはりますけど、パンプロはんのとこの如月ちゃん、今度ディーヴァのお仕事やるんやなかったかしら?」「そういえば社長がそんなこと言ってたわね…ああ、そうか、あのアニメ、さやかちゃんが好きだったやつよね。」
……さやかちゃんを釣るのに、ディーヴァ関連は使えないかしら?……そもそも、まだ、さやかちゃんは芸能界に興味があるのかしらね?社長の方は、さやかちゃんに未練があるみたいだし、……ワタシだってそう。あの子の舞いは一度見たら忘れられないもの。あれは天性のもの…。このまま世の中に認知されず、埋もれさせてしまうには、余りに惜しいのよ……。
「ちょっとそこをどいてください!」二人を掻き分けて、あきらが扉のノブを掴んだ。
カチャリ……
「あ、開いてますよ。……さやか…!さやか…!!」
あきらが扉を押して部屋に踏み込んでいく。
「さやか!……どうして返事を……」
部屋を見回した3人の動きが止まる。「……さやか?」
3人の目線の先には、ベッドの側面に背中を付けたまま、床に脚を投げ出して座る、
宍戸さやかの姿があった。
「さやか?」あきらが妹の側に駆け寄る。
さやかの様子は、どこかおかしかった。
彼女は、部屋に入ってきた誰とも目線を合わせず、
すっぽりと頭の上から被れる襟付きの濃い紺色のワンピースを着て、膝丈までのスカートの中で、素足を左右に床に投げ出して、
人形のように一点を見つめたまま、何の反応も示していなかった。
さやかの長いストレートの黒髪はばらっと肩から下ろされていて、頭の上には縁が細かいレースになった紫色の大きなリボンが付いている。
身体の横にハの字に開いた腕の先は、手の甲が床側に付けられていて、彼女は固い置物みたいに、冷たい床に放置されていた。
この人形は、ぎこちなく首を数センチだけ左側に傾けて、口角を微かに上げて微笑んでいた。
「さやか?……どうしたんだい?」
あきらは、妹の肩を揺する。「どうしたの、さやか、ねえ、聞こえてる?」
少し強く揺すってみても、さやかはまだ反応を示さなかった。彼女の関節は、全て固まってしまったようで、顔を近付けてみても、瞬きひとつしない。
「これは……まさか、あなた…?」とクリスティーヌも、さやかの前にしゃがみ込み、少女の元々、人形のように整った顔を覗き込む。
よく見ると、彼女の目蓋の下で、長い睫毛が微かに震えていて、クリスティーヌが目線を落とすと、
ワンピースのお腹の辺りが小さく呼吸をする度、膨らんだり萎んだりしている様が判別できた。
妹の前で青ざめた顔をしたあきらの肩を引き、代わりにクリスティーヌが、さやかの前に出る。
そして、彼女の鼻の前に手をかざすと、この人形が、きちんと呼吸をしていることを確認した。
華雅美は、自分も瞬きをしないでどこまで堪えられるかを一人で試してみて、20秒しか持たず、目をパチパチとさせ、(この子、なにしてはりますのやろ?)と思っていた。
クリスティーヌは、さやかのことを至近距離から観察した後、よいしょっと立ち上がると、ははあん、なるほどねぇ……と、ニヤリと笑った。
「み、三上さん、こ、これはどういうことでしょう??……さやかは……、こ、壊れてしまったのですか?!」あきらが泣きそうな顔をしながら、クリスティーヌに詰めよってくる。
すると彼女は、「安心しなさい。これは……そういうんじゃないわ。」と言って笑顔を返して、あきらの肩をポンポンと叩いた。
……あれは、そう、まだワタシ、三上来栖が宍戸家に出入りしていた頃。
さやかちゃんは、確か、1年生か2年生だったかと思うわ。突然ワタシは宍戸家を追い出されたの。でも、それは、終わりではなかった。まあ、始まりですらなかったわけだけど……。でも、こうしてさやかちゃんと再会してみると、あの時の火は、まだワタシ達の心の中に燻っているのだとわかる。
ええ、さやかちゃん、あなたの思いは確かに受け取ったわ。……さあ、見せて。今のあなたの全力を。
**************
「あなたには、足りないものがあるわ。」
三上来栖は、今しがた踊り終えて、汗を垂らしながら肩で息をする少女、宍戸さやかを見下ろしながら、強い口調で言った。
自分の方も息が上がってしまっていることを悟られないように、呼吸を慎重に整えつつ、胸部の動きを隠すように腕を前で組んでいる。
まだ小学校に上がったばかりに見える小さな少女は、水着のようなレオタードを着て、
自分の尊敬する先生のことを見上げていた。
「……なにが、…わたしに……足りないんですか?」
「そうね。自分で考えなさい……と言いたいところだけど、…あなたみたいな、生まれながらの踊り子には、考える時間すらもったいないわね。だから、今すぐ教えてあげるわ!」そう言うと三上来栖はクロワーゼ5番の位置で立ち、
さやかにニッコリと微笑みかけた。
「……あなたは“動”の踊り子なの。普段の大人しいあなたからは想像できないけど、これはホント。……そしてね、あなたに足りないのはズバリ、“静”なのよ。」
三上来栖は、ロンデジャンプア・テールした後、脚をアンデオールして体をピタリと静止させた。
「つまりね、あなたは動かないで踊ることを覚えないといけないわ。」
「どうすればいいんですか?」さやかが、捻れたお尻側のレオタードに指を入れて、くいっと引っ張って位置を直しながら言う。
「パントマイムを学ぶのよ。特にあなたにやってほしいのは……、スタチューパフォーマンス。ピタリと止まったまま、そうね、まずは1時間を目指して、全く動かないでいてみなさい。……まるで時間が停まったように。瞬きをせず、目は開けたまま。呼吸も限界まで止めて。」
「心臓も…?」さやかが不安そうに小さな声で言うと、
「うふふ、そうね?可能ならそうしてみて。……と言うのは冗談だけど、まあ、まずはとにかくやってみなさい。」
「そうすれば、わたし……、アイドルになれる?」
三上来栖はふふっと口を抑えて笑いを我慢すると、「なれるわ。……それも、そこらへんにいるような、ありふれたアイドルではなく、伝説の偶像にね。逆に言うとね……ワタシね、あなたはそれ以外になってはいけない気がするの。中途半端なものになるなら、やらない方がマシよ。……ああ、ワタシにここまで言わせるなんて、あなたってホントに凄い子ね。
ワタシのお友達にね、世奈ちゃんって子がいるのよ。彼女は大人だけどね。
その子があなたを……、アイドルにしてくれるわ。…世奈ちゃんは有能よ。
多分ね、あの子もね、これからの時代を作る特別な子よ。
……はあ。あなたってとっても聞き上手だから、ワタシ、一方的に喋ってしまうわ。じゃ、頑張ってね」
「はい。わたし……がんばります」
……そして、その日がやってきた。
何の理由も説明せず、宍戸かぐやは激怒してワタシを追い出した。ワタシを雇っていた宍戸雪仁は、もうこの世にはいなかったし、ワタシをひき止める力のある者はもうここには誰もいなかった。まあ、彼がいたとしても大して状況は変わらなかったかしらね。さやかちゃんとも、あきらちゃんとも、お別れの挨拶をする暇もなく、ワタシは宍戸家を追い出されてしまったの。
あの日、さやかちゃんは、スタチューパフォーマンスに挑戦していた。ワタシが指定した1時間を目指して、体を全く動かさず、壁の時計が見えるスタジオの中心に、まるで本物のお人形さんのように、黒いワンピースを着て、少し首を傾げ、頭の上に付けた大きな黄色いリボンを斜めにして、軽く微笑んだ表情のまま、
あどけなく脚を左右に開いて、ちょこん、と
ただ床に置かれていた。
この日あきらちゃんはバイオリンの教室に行っていて、スタジオには来ていなかった。
……三上来栖は、腕を組んで壁によりかかり、さやかの姿をじっと見守っていた。
30分。少女は生きている証拠を見せず、今後、魔法か何かで命を吹き込まれる兆候もなく、このスタジオ内には、三上来栖以外に生命活動をしているものはいっさい見えなかった。
陶磁器で出来たビスクドールのような、さやかの容姿と相まって、彼女は本物の人形のように見える。
40分……55分……、1時間……。
「やったわね!さやか!」三上来栖が大きな手をパチパチと叩いて、彼女の優秀な小さな生徒に歩み寄る。
「………」
少女はまだ動こうとしなかった。
……まだやるのね?三上来栖は途中でピタッとドゥヴァン・タンデュして足を止めると、再び腕を組んで、彼女の様子を見守った。
約2時間半経ったところで、三上来栖はポケットで携帯電話が震えていることに気付き、「……ちょっと外に出てくるわ。あなた、それ、いつでもやめていいんだからね?」と言って、スタジオを出ていった。
2時間と47分32秒。
…………………。
……お人形さんから、ふしぎなにおいがしてきました。
お人形さんは、そのかわいらしいお顔にえがおをうかべながら、これはなんのにおいだろう?
とおもいました。
わかった、これは子どもたちがだいすきな、ゆでたまごのにおいだ。
でも、それが、なんでわたしのスカートの下からしてくるのかな?
お人形さんは、おへやのゆかの上におすわりした、じぶんのおしりの下で、
やわらかいものがむにむにとふくらんでいくのをかんじました。
なんだろう?へんなの。
でも、お人形さんは、じぶんではうごくことができないので、
しばらくしてようすをみにやってきた、このおうちのママに、わきの下から手を入れてもらって、ゆかからもちあげてもらいました。
そうしたら、お人形さんの足は、まっすぐ下にぶらさがって、
なぜか スカートの中から、おいしそうなゆでたまごのにおいのする、ぺとぺとしたやわらかいおねんどが、いっぱいおちてきたのです。
だれかここのおうちの子どもが、おねんどあそびをしていたんだとおもいます。
その子が、ゆかにおねんどをちらかしてしまったので、ママは、すごくおこりました。
お人形さんは、ほかのおへやにはこばれて、
いっぱいやってきたにんげんの女の人たちに
まだおしりの下の布にのこった、おもたくぶらさがったものを、ぜんぶとりだしてもらいました。
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電話を終えた三上来栖が、スタジオに戻ってくると、そこにはもう、さやかはいなくなっていて、
代わりに宍戸かぐやが立っていた。
三上来栖は、何の説明も受けず、ただ叱責され、二度とここに来るなと言われ、それでおしまいだった。
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さやかちゃんはまだアイドルになる夢を諦めていない。今日、ワタシが来ることを知ったうえで、こうやって、スタチューパフォーマンスを披露しているんだわ。
……あの日、あなたはすでに1時間のチャレンジを成功させていた。
「さやかちゃん……。お久しぶりね。……あなたの思いは受け取ったわ。……合格よ。このことは、社長に伝えておくわ。
……もし、あなたが、本当に夢の続きを見たいなら……、今回の許嫁の一件なんかに関わっている暇はないんじゃない?……あなたは生まれながらの踊り子よ。許嫁の件が嫌なら………」
「宍戸の名前なんか捨てて、うちに来なさい。あなたなら、宍戸の名前なんかなくてもやっていける。」
微動だにしない、さやかの瞳の奥で、何かが光ったように見えた。
「なにを言っているんですか、三上さん?!」あきらが思わずクリスティーヌの腕を掴んで強く揺さぶる。
……さすがクリスティーヌさん、ええこと言いはりますわ……。華雅美は感心して、この有名はダンサー兼振り付け師の横顔を見つめていた。
……まあ、でもこの子がそう簡単に克徳さんを諦めるとは思えへんわ。それに克徳さんは、この子を舞踏会に引き摺り出せと言うてはった。
「……さやかちゃん、」華雅美が、さやか人形を見下ろしながら言う。
「あなたが舞踏会に出えへんのなら、うちが東三条さんと踊らしてもらいます。うちかて、宍戸の分家の出身や。参加する権利はありますやさかい。」
「は?華雅美さん……?」あきらが驚いた顔をして彼女を振り返る。
「……好きにしなさい……。」さやかの顔に生気が戻り、乾いた唇がゆっくりと言葉を発した。
「さやか?!」あきらがさやかの首に飛びついて、ギュッと強く抱き締める。
クリスティーヌは一歩後ろに下がって、そんな兄妹の様子を眺めていた。
「お兄ちゃん、やめて……苦しいわ。」さやかがそう言うと、あきらは
「…さやか……、やっと戻ってきてくれたんだね?そうだよ、あんな男、人にあげてしまえ。華雅美さんが、なんであんなことを言ったのかわからないけど………とにかく良かった!君が訳もわからず苦しむ必要はない!かと言って三上さんが言ったみたいに宍戸の名を捨てる必要もない!
………君さえ自分の意思を持ってさえいればいいんだ!良かった……本当に良かった……」と言って、より強く妹の体を抱き寄せていた。
さやかは、諦めたように兄の柔らかな髪をそっと撫で、
うっかり華雅美の顔を見ると笑ってしまいそうなので、クリスティーヌの方を見ていた。目が合うと彼女が(ちゃお!)と手を振ってくる。
さやかは軽く会釈をし、心の中でそっと『運命転換……』と呟いて、自分の背中に翼が開くところを想像していた。
次回、『ひみこちゃんのお買い物』