井55 心ばかりのおもてなし
「今からお話しすることは、皆さんにとって、かなりショッキングに思えることに…、なるんやないかとは思います。」
橘 華雅美は、白いテーブルの向かい側に座った、宍戸あきらと三上クリスティーヌに紅茶を用意しながら、
真剣な顔をして言った。
……ショッキング………。て言うか、今の、そう、あなたのそれもかなりショッキングなんですが……。
あきらは、自分のカップに注がれた琥珀色のダージリンティーを見つめながら、
……秋摘みの茶葉だな…、この時期の稀少な茶葉を贅沢に使ったストレート。うん、豊潤な香りだ……。と、ひとしきり濃密な時間を楽しんだ後、やはり気になって橘 華雅美を見るために顔を上げていた。
………………。
華雅美は、いわゆる、メイド服を着ていた。
古風な黒いブラウスの襟元は、その細い首の根元までボタンが留められていて、仕上げに細く赤いリボンが結ばれている。フリルのついた肩紐から続くメイド服自体は白く、スカートはビクトリア風の長い、クラシックなデザインだった。
ウェーブのかかった亜麻色の髪の毛には、レースの冠のようなホワイトブリムを付けていて、……これは、オートクチュール…?にしては、サイズが合っていないところが1ヵ所だけある……。
……それは、胸当てのない白いピナフォア?かエプロンドレスの肩紐の間から、大きくはみ出したブラウスの膨らみ……。質素な白いボタンの列に沿って、周りの布が、はち切れそうに突っ張っていて、エプロン自体がコルセットのように、大きくて重そうな二つの固まりの下側を、つらそうに支えていた。
何食わぬ顔をして前屈みにティーセットを運んでくる華雅美に、
クリスティーヌも決まりが悪そうに目線をさ迷わせる。……あきらちゃん…、気をしっかり持って……。あなたには、心に決めた女の子がいるのでしょう……?せめて、あの子が人並みに育つのを待ってあげて……。
あきらは、音を立てないように紅茶をすすり、
鼻に抜ける独特な香りを感じていた。
見ると、華雅美が今度はクリスティーヌの前に立ち、腰を屈めてティーポットを持つと、次の配膳の準備を始めていた。
あきらは、ついさっきまで自分の目の前でおこなわれていた、この儀式を直視することが出来ず、
自分に紅茶が注がれている間は、ずっと俯いていたのだが、
このまま華雅美のペースに呑まれてしまうのも嫌なので、
今度は彼女の一挙一動を、動じることなく、堂々と見ていようと顔を上げていた。
華雅美のティーポットには、粗めのニットで作られた漆黒のカバーがかけられていて、
その縮れた編み目の間から、真っ白な陶器の肌を覗かせていた。そして、そのさらに奥には、ペルシャ風の鮮やかなピンク色の花びら模様が判別できるくらいには見えていた。
あきらには、柔らかな曲線の輪郭をした彼女のティーポットの、中央から飛び出した突起の先端にある小さな出口の部分で、
今にも溢れ出しそうな熱いものが寸前でとどまっている様子が、気配でわかった。
華雅美は、伏せ目がちに、注ぎ口を見つめ、
淡いクリーム色のテーブルクロスを汚さないように気を付けながら、
身体を伸ばすようにして、座った客の目線よりも高い位置から、清潔な白いのティーカップの中へ、匂い立つ琥珀色の熱い液体を、ちょろろろろ………と注ぎ入れ始めた。一旦出始めると、それは勢いを増し、カップの内側で泡立ちながら、周りに少し飛沫を飛び散らせて落ちていき、湯気と共に、部屋に強い匂いを充満させていった。やがてそれはカップの縁から溢れ出して、受け皿の中に溜まっていった。
華雅美が恥ずかしそうに「いややわ。うまくいかへんかったわあ。」と言う。華雅美はそのまま近くにあった紙ナプキンを摘み、濡れた注ぎ口の周辺を、こすらないようにしながら丁寧に、ポンポンと拭い去り、毛足の長いポットカバーについた水滴を、ナプキンに染み込ませていった。
あきらは、先ほど華雅美が自分に注いでくれたカップにもう一度口をつけると、 …熟した果物のような甘い香りの中に、独特なえぐ味と、鼻に残るきつめの匂いもするな…、温度が足りなかったのか、蒸す時間が長過ぎたのか…、
あきらは、舌のわきに感じるぬるっとした生温い風合いを、無理に飲み下しながら…、うーん……これは結構好みの分かれる味かもな……と考えていた。
案の定クリスティーヌは「ありがとう」とだけ言い、受け皿にまで溢れた、まだ湯気の立ち昇る、華雅美からの心ばかりのもてなしを、指先でテーブルの奥へと押しやった。
華雅美は「お粗末様……」とだけ言うと、「あきらくんは、ミルクを入れはりますかぁ?」と言い、はち切れそうに見えるブラウスの前で、尖ったミルクポットの先端をこちらに向けた。
「け、結構です……。」と、あきらは言うと、慌ててカップの残りを全部飲み干して、「ありがとうございました!華雅美さん。と、ところで、さっき言いかけていた、ショッキングな話とは?それに、さやかは今、どこにいるんですか?」と、口の中に残ったぬめるような後味を気にしながら言った。
「そうやったね。……でもまずはさやかちゃんに会うてもらう前に、
うちの話を聞いてもらわなあかん。」
華雅美はティーポットを後ろに片付けると、メイド風の前掛け部分の乱れを直して、
このうちの本物のメイドのように、あきら達とは同じ席にはつかず、下ろした腕をお腹の下辺りで組んで、テーブルから離れた所に立った。
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「今から……さやかちゃんの許嫁……、東三条克徳について、話そうと思います。」
華雅美は、急に、幼さの抜けた厳しい口調になって「……今後、さやかちゃんが同じ被害に合わない為に、……うちがかつて東三条から受けた数々の非道を、隠さずお伝えしようかと思います。」
「え?どういうことよ、それ」クリスティーヌが怪訝な顔をして言う。
「あら、言葉の通りですけどな?驚かんと聞いてくださいね。
そう、……東三条とうちが出会うたのは、うちがまだ小学生の頃でした。」華雅美は、主人と目を合わせてはいけない召使いのように、目線を別な方向に向けながら、ゆっくりと話し始めた。
「東三条は、何もわからない幼い少女であったうちに、優しいお兄さんのように接してきはったんです。」
あきらが眉をしかめる。
「ほんま、東三条は優しかった…。あの人は、うちのピアノの先生やったんや。正直……うちは、ピアノなんて、ちっとも好きやなかったのに……。でも、あの人が来はってから、毎週のレッスンの日が一週間のうちで一番好きになったんや。」
夢見るように、うっとりとした顔で、遠くに目線を合わせる華雅美のことを見て、
クリスティーヌが、かすれた声で「それが、裏切られ、壊され…てしまった、ということなのかしら……?」と聞いた。
「え?……あ、うん、そうやね……。そういうことやな。うちが一番最初に覚えとるのは…、夏になる少し前の、…まだ雨の続く湿り気を帯びた季節のこと……。」
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「克徳先生、聞いてーな!」
「ん?なに?どうしたの。」東三条先生は、譜面に何か書き込みをしていた手を止め、小さな体で背を丸め、口を尖らせながら足をばたばたとさせて身体を前後に揺らす、橘 華雅美のことを振り返った。
彼女の脚はまだ床に届かず、白いスカートを履いた太ももの裏に両手の手のひらを滑り込ませ、今度は膝を軸にして、左右にふくはらぎを振る。
「あのな、先生?今、学校で、嫌な遊びが流行っとるんよ。」「ふうん、どんな?」
「なんかな、ハンカチめくりとか言ってな、男子が、女子のハンカチポーチをめくるんよ。」
……当時はまだ女子のハンカチポーチの蓋は、スナップボタンが付いていることは稀で、マジックテープ式であることすら珍かった。華雅美の小さい頃はまだ、昔のおおらかな時代だった時の名残が残っていて、
布製の蓋は、上から被せてあるだけの開け放しであることが多かった。
「そんでね、今日の〇〇ちゃんのハンカチは水色だったあ、やの、白色だったあ、やの、もう、ほんまムカつくわあ。」
「ふうん…」東三条先生は、再び譜面にペンを走らせ始めたが、一度足を組んでから、すぐに居心地が悪そうに座り直し、反対側に足を組み変えていた。
「そんでね、この前なんかひどいんよ。男子が、牧子ちゃんのハンカチにミートソースかなんかの汚れがついてたーって騒いで。……牧子ちゃん泣いてはったんよ?!」
「そうなんだ…、それはひどいね。」
「そうやろ?そうやろ?」
「その……、華雅美ちゃんは、そういう悪戯はされてないの?」
華雅美がにっこりと笑う。「うちは、そういうことされてへん。……でも、先生、うちのこと心配?」
「ああ、勿論心配だよ。」「大丈夫。うちのハンカチは汚れてへんから。…うちはキレイキレイの清潔さんやからね?」そう言うと華雅美は、東三条先生の腕に抱き付き、くすくすと肩を揺らして笑った。
「まあ、でも逆にね、華雅美ちゃん。そういった年代の男子は、好きな子にわざといじわるしたくなるものなんだよ?」
「なにそれ?うちにはようわからんわあ。」
「うん、華雅美ちゃんには男子の微妙な気持ちはわからないかあ。アハハ、まあそれでいいんだけどね。」
「なんや、なんかうち、バカにされてへん?克徳先生?うち、怒りますからね?」華雅美は小さな拳を作って、東三条先生の脇腹をグリグリと押してきた。
「や、やめなさいっ……!?」東三条先生は堪らず体を横向きにくの字の形に折って逃げ、「こ、らぁ~~!」とふざけた様子で、幼い生徒に襲いかかった。
「あははは、や、やめてーな、せんせー??あははははは……」
東三条先生の大きくて長い指が、華雅美の白いワンピースをしわくちゃにさせながら、身体のあちこちをくすぐる。涙を流して笑う華雅美は、お腹を折ったり、仰け反ったりして暴れ回り、夏用の薄い生地の下に、痩せた身体の形を、あちこちに浮かび上がらせて、キャッキャッと楽しそうに叫び声をあげた。脇の下を執拗に撫で回してくる先生に、嬉しそうに体をよじって、華雅美が抵抗した拍子に、足の裏が東三条先生のお腹の下辺りにぶつかり、彼女の滑らかな生地で出来た靴下が、
……すべりながら、彼のズボンの真ん中をなぞるように、ドンっと奥へ押し上げていた。
「んんっ」と東三条先生が呻き声をあげ、覆い被さっていた体を、ささっと華雅美の上から剥がす。
「あ、先生?ごめんなさい?痛かった?堪忍やあ。」
東三条先生は黙ったまま、窓の方にスタスタと歩いていき、徐に鍵を開け、外に面した窓を開け放った。
湿り気を帯びた風と共に、むっと蒸せ返るような栗の花の匂いが部屋に入ってくる。
「先生、あかんよ、今の季節、その匂いがすごいんやから。臭いわけやないけど、……部屋中その匂いになるのは、ちょっと勘弁やわあ。」 華雅美がそう言うと、
東三条先生は、ぐったりと疲れたように奥のソファに身を沈め、「…華雅美ちゃん……ちょっとこっちにおいで…」と言った。
「なあに?克徳せんせ、」と華雅美はタタタと走ってきて、そのまま彼の体の横のスペースに飛び込んできた。
東三条先生は、自分の体に重なってきた教え子の肩を掴んで、一旦引き剥がすと、「こら。」と言って軽くグーにした手で華雅美の小さな頭を小突いた。
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「なんて酷い話だ……」あきらが、信じられない、といった顔をして首を振る。「華雅美さん……さぞ…辛かったでしょう…。でもよく話してくれました。東三条……あの変態め……。いたいけな少女になんてことを……くそ!さやかには指1本触れさせないぞ……。」
え~っと……。とクリスティーヌは、怒りに震えるあきらと、過去の記憶に苦悩する華雅美を代わる代わる見比べて、微妙な表情をしていた。
…今の話を要約すると、
東三条君は、懐いている教え子の女の子の体をくすぐって、股間を蹴られ、その後、頭を撫でた後、ちょっと拳で小突いたってこと……?まあ、大学生として褒められた行動ではないけど……、えーっと、それが非道の数々なのかしら……?
なんか、ワタシ、東三条君が可哀想になってきたわ……。
「華雅美さん……」「なあに、あきらくん?」
「今すぐ、さやかに会いたい。その…さやかは今どこにいるんですか?!」
「あの子は会うてくれへんと思うけど…」
「三上さん!今すぐさやかに会いにいきましょう!ぐずぐずしていられない。あの東三条を排除してやらないと、いくらなんでもさやかが可哀想過ぎる!」
華雅美の案内で、あきらは怒りを隠さずに部屋を出ていき、
クリスティーヌは黙ってその後ろを追いかけていった。
次回、『ダンサーの宿命』




