井53 突然の訪問者
……突然の訪問だった。
橘 華雅美は慌てた様子で、室内用スリッパをパタパタといわせながら廊下を走っていた。
いややわ、こんな格好じゃ、あの人に会われへん……。
もう、応接室に、あの人がいる……。もう、会えないと思っていたあの人が……。
勿論さやかちゃんに会いにきたってことは、重々…承知しとるんよ……。
でも、ここは橘の家。うちがここにいることは、あの人も知っとるはずなんよ。会いたい……、今すぐに。今すぐに。
華雅美は身体のラインがなるべく出ない、大きめなワンピースに着替え、胸の形がわからないように太めの糸で編んだ肩掛けを羽織った。ウェストに晒しのようなものを巻こうかとも思ったが、
そんなことでは、誤魔化しきれないのはわかっていたので、華雅美は、せめてもの気持ち?で、タンスから一番可愛らしい、子供っぼいハンカチを取り出して、そっとスカートの浅いポケットに滑り込ませていた。
自分の家の応接室のはずなのに、開けるのが怖い。華雅美は廊下のミラーで何度も前髪を確かめ、艶のあるリップクリームを唇の内側に何度も折り込み、さりげなく微笑む練習を繰り返した。
トントン……
人差し指の第二関節をオーク材の扉に向けて、軽くノックする。
「どうぞ」と優しく深い声がする。
逸る気持ちを抑えて、華雅美は扉を押した。
……いた。いる。存在している。立っている…。片方の手をポケットに入れて。ためらいがちに振り返る。昔と、……何ら変わらず。いつも顔を合わせると、軽く驚いたような目をしはる。ウェーブした前髪をさっと掻き上げる。微笑む。……綺麗だね………、とは、もう言うてくだはりませんの?……克徳さん…。
うち、まだ、あなたのことが………。
東三条克徳は、一瞬目を細め「お久し振り。」と笑った。
「橘さん、その、…お綺麗になりましたね。……大人の女性、という感じだ。いやあ、見違えましたね。」
そう言うと東三条は黙ってしまった。
克徳さん……そんなこと言わはらないで。うちは、本当は、昔のまま、今もあの頃とちっとも変わってへんのよ?
「お元気でしたか?」東三条が静かな声で語りかけてくる。
彼は応接室の中央にあるグランドピアノを見やり「……まだ、ピアノは続けていらっしゃるんですか?」と言った。
「いいえ、もう……」と華雅美は言い、「克徳さんが来うへんようになってから、やめてしまいましたわあ。」と笑った。
「そうですか。」と克徳が困ったような顔をして微笑む。
「今日こちらに来たのは…、」と克徳が言いかけた言葉を遮るようにして、華雅美がいつもより早口で言葉を挟んだ。
「克徳さん、覚えてはります?昔、ここに座って、連弾したこと?」
「え、ああ、覚えていますよ。」
「懐かしいわあ。よく、うちがつっかえたところ、繰り返し弾いてもろうて……、楽しかったわあ…」
「あの、さやかさ……」と克徳が言うのと被せて、華雅美が「克徳さん、うちの腕がなまってないか、見てくれへんやろか?」と言って彼の袖を摘まむと、くいっと自分の方へ引っ張ってきた。
……克徳の目の前に、一瞬、顔をほころばせた小さな少女の姿がよぎる。いつも、はんなりと柔らかく笑い、克徳の傍にくっついてきた、小柄な痩せた少女……。
「……ああ、弾こうか…?」
彼の落ち着いた、低音で響く声と、子供を諭すような口調を聞いて、華雅美は、
はっとして、殆ど涙目になりながら、ピアノ椅子に腰掛けた克徳の体の横に身を寄せていた。
「なにがいい?…ドビュッシー?…チャイコフスキー?」「クルミ割人形……、花のワルツ」と華雅美は囁いて、克徳の肩に頭をそっと乗せた。
「わかった…」と言って克徳は、彼に身を預けながら隣に座る少女のことを見やる………そして……、ぎょっとしたように身を引いた。
「克徳…さん?」
克徳の目に、華雅美の丸い襟口から覗いた、肉の谷間が入り込んでくる。そして、熱を持った柔らかい女の腕が、湿り気を帯びて彼の体に吸い付いてくる。彼の腰に纏わりつく、水膨れした肉塊のような尻。
克徳は、彼女の姿に、目が釘付けになって、身体を固くしていた。
「克徳さん?……どないしはったの…?」そう言いながらも、華雅美は、彼の視線が自分の胸に注がれているのを自覚し、
顔を赤らめながら、
「……克徳さん……ええんよ……、
……うちのこと、そんな風に見てもらえるなんて、……全然、思わへんかったから……、うち、うち、すごく嬉しい……」と言って、
……華雅美は自らの身体に手をまさぐり入れ、太ももから、スカートを捲り上げていき、白い肌を露出させていった。
醜い肉の塊……。腰のくびれから、極端にカーブを描いた、不恰好に膨らんだ、気味の悪い尻…。芋虫のようにうねる白い腹……。「ええんよ……?」と言って、華雅美は、強ばった克徳の手を、自分の汗ばんだ胸へ導いていった。
克徳の指先に、それが触れた。
腐った動物の水死体のような、ブヨブヨの生白い肉塊…。おえっ、と克徳はえずき、口を押さえながら、華雅美の身体を押し退けると、
足をもつれさせながら走り出し、応接室の扉をバタンと開け放して、廊下の奥へ走っていった。
……克徳さん……。
華雅美は服をはだけさせ、太ももを露にしながら、
……ごめんなさい……。と目を閉じていた。
克徳さんは、ほんまに純粋な人なんや……。
女の身体みたいに穢らわしいもんを、見せたらあかんのや……。
うち、ほんまに、この身体が恨めしい……。克徳さん……。うちかて、女になんてなりたくなかったんよ。
克徳さん……ほんま、ごめんなさい……あなたの可愛い女の子でい続けられへんかった、
うちを許してや………。
華雅美ははらはらと頬に涙をこぼし、ピアノの鍵盤の上をぽつぽつと濡らしていくのだった。
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洗面台に突っ伏して、片手で蛇口をひねり、自分の嘔吐物を排水口に流し込んでいる、東三条克徳は、心臓の鼓動を激しくさせながら、
目を閉じて必死に落ち着こうとしていた。
女、女、女…………。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。女は臭い……。汚なくて……。気味が悪い……。くそっ!俺は、あの女が、美しい少女だった頃を知っている……。知っているからこそ……、さっきのあれに堪えられなかった……。くそっ!くそっ!くそっ!
再び喉の奥からこみ上げてきた物を我慢出来ず、克徳は洗面台の上にそれをぶち撒けてしまった。
「克徳さん……?」背中から声がした。
汗をかいた額に前髪を張り付けながら、克徳が振り返る。
……そこには宍戸さやかが立ち竦んでいた。
「克徳さん…どうしたの?……なんでここに?」
「さやか…」克徳は涙で滲んだ視界の中に、日本人形のように佇む少女の姿を捉え、「さやか!」と叫んで、小さな体に抱きついていた。
「さやか……会いたかった……!」目をぎゅっと閉じると、涙が溢れ出す。
「どうしたの…克徳さん?」さやかの手が優しく彼の頭を撫でる。
「ごめんよ、さやか。ごめんよ?ごめんよ?………君の鼻血のことで、僕は、君を傷付けた……。だって、君が……、君が……、大人になってしまうと思ったら、……僕、怖くなって………」
さやかは目を細め、「……いいのよ、克徳さん……。」と言った。「でも、僕……」「もう、いいの、克徳さん。わたし、トランサミンを飲んで鼻血は止めるわ。」「でも、それじゃ君の体が………」「いいのよ、克徳さん。あなたは余計な心配はしなくていいの。わたしはね、ずーーっと、克徳さんの女の子でいてあげるから。大丈夫だから心配しないで?」
「よかったあ………」克徳は、頭をさやかの胸の中に抱き留められながら、安心しきったように微笑んでいた。
「でも、僕、ちょっとまだ心配だよ。」「なにが?」「……さやかはさ、ずっと僕のことを見ていてくれるかな?って。だってさやかは綺麗で、小さくて、若くて……。反対に僕は歳を取っていくばかりだから……」
「バカね?」うふふ、とさやかが笑う。
「克徳さん?」「ん?」「あなたって、ほんと、子供みたい。そうだ、ねえ、わたし、あなたにお小遣いをあげるわ」「ほんと?」
「ほら、お財布を出して?」
東三条克徳は、ポケットに手を入れ、苦労しながら、奥に引っ掛かって出しづらくなっていた、マジックテープ付きの財布を取り出そうとした。
さやかは、「慌てないで。」と言って、彼が財布を出すのを手伝ってやった。
克徳の、小学生男子が持つようなナイロン製のマディダスのお財布が、
さやかの小さな手にすっぽりと収まる。
その使い込まれた、所々脂沁みのある表面を、彼女は指でそっと擦ってあげた。
「克徳さん。」とさやかは、彼の耳元で名前を囁くと、お財布の蓋の被さったところを指で摘まんで捲り上げ、
静かにマジックテープをぺりぺりと剥がしていった。
「小銭がいっぱい溜まってるね?」とさやかが悪戯そうに、克徳の顔を、上目遣いで見る。
「全部、出しちゃおっか。」
さやかは彼のお財布をひっくり返すと、チャリンチャリン 、と硬貨を床に投げ捨てた。
「お小遣い…1万円でいい?……ごめんね、克徳さん、今はこれしかないの。今度はもっとあげるから、今日はこれで許してね?」さやかは自分の薄ピンク色のポシェットに入っていたミントグリーン色のお財布から、
……小さく折りたたんだお札を取り出し、
それを克徳の目の前でゆっくりと左右に開いてみせた。
克徳がそれに手を伸ばそうとすると、さやかがさっとお札を持った手を引っ込める。
「やっぱりやめる。」
克徳がぼんやりとした顔をして、さやかを見つめ返した。
「やめる、って言ったの!ほら、もうその小さいお財布はしまって!ほら。」そう言われた克徳が、慌ててポケットに財布をしまう。
「克徳さん?あのね…、一つわたしのお願いを聞いてくれない?」
克徳が不思議そうな顔をして「?」とさやかの目を見る。
「あのね、克徳さん、……あの女、橘 華雅美とヨリを戻してくれない?」
「え?でも……」
「お願い。あの女を喜ばせてやって。」
「さやか……、それは……、君の頼みでも無理だよ……。だって、ほら、その、ああいう、育ちきった女、汚ならしくて…、僕だめなんだ……。」
「知ってるわ?だからなに?」「え、だ、だから。」
「克徳さん??あなた、わたしの許嫁よね?…わたしがそう言ったら、あなたは、はい、わかりました。って言うの。……他に選択肢はないのよ?」さやかが、きょとんとした不思議そうな顔をして言う。
「わたしだって、あんな女、気持ち悪いわよ。だ、か、ら!……克徳さん、あの女を喜ばすだけ喜ばせて、その後、ぽいっと捨ててほしいの。」
「……わかった。わかったよ。だから怒らないで?僕、頑張ってみるから。」
「ありがと。克徳さん?大好き。」そう言うとさやかは素早く、彼の頭を抱き締めて、頭頂に向かってチュっと音を立ててキスをする真似をした。
「ねえ、さやか……?」「ん、なあに?克徳さん?」
「その……、君は婚約指輪をどこにしまっているんだい?」
さやかがクスっと笑う。
「心配症ね?大丈夫よ。大切に、肌身離さず持っているわ。さ、今日はもうこれくらいにして。克徳さん?早速、あの女のところに戻ってあげて。」
「……君はどうするの?」
さやかは、ポシェットからスマホを取り出して、画面をちらっと見た。
「そうね。どうやら明日、お兄様達がこっちに来るみたい。……あの女、何を企んでいるのかしら?……まあ、いいわ。企んでいるのは、お兄様達の方かもしれないしね。」
さやかはそう言うと、跪いたような姿勢の許嫁を、満足そうに見下ろしていた。
次回、『橘邸へ続く道』




