井52 橘家の令嬢
「…さやかちゃんは、昔から大人しい子だったやさかい、無口なのはよう知っとるんよ?」
橘華雅美は、のんびりとした口調で、テーブルに置かれたティーカップの中で、小さな銀色のスプーンをかき回しながら言った。
「普段ならな、多少は会話がなくても、一向に構わへんのやけどな?……正直、うちだって静かなのは好きな方やし。」
華雅美の正面に俯いて座る宍戸さやかは、出された紅茶には手をつけず、黙ったまま、膝の上で握った自分の拳を見つめていた。
「でも、な……、みんなに心配かけるのはあかんよ?」
華雅美は、紅茶の渦を見つめていた目を、ちらりとさやかの方に戻し、ティーカップの中でスプーンをカチンといわせた。「少しはお話しできへんかなあ?」
「こうなったら根比べやね。教皇はんが決まるまで、コンクラーベ、や。」
華雅美は、ちりめんのような、ふんわりとした白いブラウスの上に羽織ったベージュ色のカーディガンを、
肩に引っ張ってきて「寒いわあ……」と言ってニコッと笑った。
さやかは、目の前の気配が気になって、思わず目線を少し上げていた。
橘家の女性……。緩いパーマをかけた亜麻色に近い髪が肩から胸に渡って、軽やかに下げられている。
その胸元は……、はちきれんばかりの膨らみを帯び、テーブルの上に置かれた腕の間に、大きな瓜科の植物のようにごろんと乗っかっていた。
さやかの目線に気付いた華雅美が、(ああ、これ?)といった感じで恥ずかしそうに微笑み、カーディガンの襟をさらに引っ張って無理矢理にボタンを閉じた。
さやかが慌てて目を逸らす。
その反応を見て華雅美は、クスッと手の甲を唇に寄せ、どこか悪戯そうな目をして笑った。
さやかには、華雅美の着たベージュ色のカーディガンが、彼女の素肌の色に見えてしまって、顔が赤くなるのを感じていた。
……橘 華雅美。
年は二十歳過ぎだろうか。大学には通わず、今は家で家事手伝い、花嫁修業、もしくはニート?生活をしているんよ、と彼女はどこか楽しそうに話してくれた。
橘家は、宍戸家の近い親戚にあたり、昔から宍戸家の法律関係の支えとなる弁護士、会計士等を代々務めてきていた。
その中では華雅美は珍しいタイプで、勉強の方はさっぱりだったが、何故か親戚中の小さい子供達に好かれ、また、お世話することが得意だった。しかも彼女は小さい頃から、独自のエセ関西弁、京都弁を話すようになっていて、それが彼女に独特の雰囲気を与えていた。
大人達が難しい話をしている間、華雅美が別室へ子供らを引っ張っていき、彼女を中心とした輪を作って、なにやら楽しそうに手拍子したり、歌ったり、笑ったり……。
そんな光景がよく見受けられた。
自分の身体的特徴が、さやかの興味を捉えたと感じた華雅美は、すかさず、それを起点に、この少女のガードを崩そうと、ほとんど本能的に、カーディガンの一番上のボタンを外し、
わざと少し上体を反らせるようにしてテーブルに身体を乗せた。
「さやかちゃんは、今年の舞踏会には出えへんの?」
さやかは返事をしなかったが、ようやくこちらと目を合わせ、こくり、と一度だけ頷いた。
「さやかちゃんも、学校に行かれへんようになったって、おうちの方に聞かしてもらいましたけど……、
うちもおんなじよ?小学生の後半から、中学は、ほとんど学校に行けへんかったから。
……でも高卒の資格は持ってるんよ?一応ね?」なにがおかしいのか、華雅美はうふふと笑った。
この子は、今のところわたしを嫌がったり、拒絶しているわけではない……。華雅美は直感でそう感じ取ったのであろう、彼女は遠慮をせず、さらに突っ込んだ話をし始めた。
「うちの場合はね?とぉ~っても悲しいことがあったの。まあ、よく言う失恋ってやつやね。…立ち直れへんくらい、ボロボロになってしもうて。簡単に言うたら、生きる意味が失くなってしまったみたいになったんよぉ?それはまあ、学校に行くどころではあらへんかったの。」
話を聞くさやかの表情と態度が、明らかに変わったことがわかる。
「失恋なんて、まだ小学生なのに、と思うやろ?でもそん時は、本気やったのよ~。つらかったわぁ。」華雅美が再びうふふと口に手をあてて笑う。
「今は、もう、すっぱり諦められたんやけどね?と言うか、諦めるしかない状況になったと言うんかね………。ぜ~んぶ、さやかちゃんのせいなんよ?
……正直、うち、さやかちゃんが羨ましいわあ。
羨まし過ぎて……憎いくらい……。」
さやかが驚いて、華雅美の顔を凝視する。
その表情は柔らかく、今言った言葉と同じ感情を、そこから読み取ることは出来なかった。
「なんで、かぐやさんは、うちの所にさやかちゃんを預けはったんかなあ?残酷やわあ……。」
「勿論、さやかちゃんは、知らんやろうから、ええんよ?今から話すのは、うちの勝手な独り言。一応、義務やと思うからお話しするけど、気にせえへんでいいんよ?まあ、そうもいかんのやろうけどな……。」
さやかは黙って華雅美の目を見つめ返し、こちらのことを、何故かほとんど、愛おしそうな目をして見つめてくる橘家の令嬢の次の言葉を待つことにした。
「……うちが まだ小学生の頃や。
うちがあの人……東三条家の、跡取り……まだ大学生だった克徳さんと出会ったのは…。」
さやかの顔が強張る。
「うふふ、初めてお会いした時、あの人、うちのことを見て、こう言いはったんよ?
『君みたいに、綺麗な女の子は、初めて見た。』って。その後『この綺麗、というのは、清潔の方の意味で、変な意味ではない』って慌てて言い直して……。」
「あの瞬間から、……この言い方が正しいかはわからへんけど、わたしたちは恋に落ちてしもうたの…。」
さやかの口が、何かを言いかけそうになり、すぐにその言葉が飲み込まれるのを見て、華雅美がクスッと微笑む。
「うちは幸せだった……。克徳さんは、足しげく橘家に通ってくれはったし、学校の帰りに、内緒で近くをお散歩することもあったんよ?
海外のピアノのコンクールの話、有名な指揮者の方にお会いできたあ、とか、ウィーンの町並みは思ったより閑散としていたあ、とか……。」
「でも勘違いせんといてね?うちと克徳さんは、あくまでプラトニックな関係やったから。
……ただ、いつも別れ際にぎゅうっと、抱き締めてくれはった……。こんな話されたかて、さやかちゃんは、嫌な気持ちになるだけやろうな?わかっとるんよ、それは。堪忍なあ?」
「………。」さやかの口から、いまにも言葉が溢れそうになり、唇がうっすらと開くが、
華雅美の目を見て、やはり口をつぐんで下を向いてしまう。
「その毎日は、ぜ~んぶ、終わり。急におしまいになってしまったんよ。」華雅美はティースプーンの柄をわざと縦に持ち上げてから、カツンと受け皿の中へ落とした。
「克徳さんが、最後にわたしを抱き締めてくれはった時、……わたしの胸が、こう、……膨らんできてしもうてて……、ほら、もう、うちが子供でないってことが、克徳さんにはわかってしまったんよね……」
さやかは、黙って華雅美のことを見上げた。
「ひょっとしたら、今のさやかちゃんも、同じやないの?克徳さんは、女の子しか、愛せへんのよ。あの人に愛されたければ、大人になることは許されへんのよ、さやかちゃんも知っとるやろ?」
「うち、愛されなくても構わへん……。ああ、でも、ほんと悔しいわあ。さやかちゃん?こっから先も、だだあの人の側にずうっといられる許嫁のあなたがね。さやかちゃん?うちは、あんたが死ぬほど妬ましいんよ………。諦められたはずやのに……、
さやかちゃんだって、いつかは愛されなくなる日が来ると、うちも頭ではわかっとるんよ、でもね、うちだって、もう一度、あの日に戻って……克徳さんに愛されたい……!!!そんな想いが断ち切れんのよ……」
一息にそこまで言い切ると、華雅美は決まり悪そうに居住まいを正し、「女の嫉妬は、ほんまにいやあね。」と言って寂しそうに笑った。
「勘違いやったらほんま、堪忍ね。……ひょっとしたら、さやかちゃんは、もう大人になったことがバレて、そのことで克徳さんの気持ちが離れてしもうて、傷付いたんとちがう?……うちも同じやったからわかるんよ……。
さやかちゃんの体つきからすると……、まだ、丸みはないようやし、多分、お鼻血が始まったことがバレたんやない?それで克徳さんが、急にあなたへの興味を失った、とか?
それで、彼に構ってもらう為に、そうやね?多分、彼を傷付けたり、……助けたり……そんなことをしてはったんじゃないの?
うふふ……図星やない?」
……彼を傷付けたり、……助けたり……。
「あなたと一緒にしないで。」
さやかが冷たい声を放った。
「あら、さやかちゃん……、ようやく喋ってくれはった……。いやだ、その顔、怖いわあ。」
華雅美が、どこか嬉しそうに、顎の下でピンと伸ばした指を交差させて、
目を細めながら、さやかのことを見つめた。
「ほんま、人を好きになるって、難儀なことやわあ……。うちもな?克徳さんのおイタな趣味は、よう知っとるんよ?……うちならな、あんなんで克徳さんが満足できるんなら、許してあげられるんやけどな……。さやかちゃんは多分、許せへんのでしょ?だから他の人には、克徳さんへの本当の想いを隠しているんやないの?……滑稽やわあ……。」
「橘…華雅美………わたしのことをここまでコケにして……、あなた、……許さないわよ。」さやかが無表情のままそう言った。だが、その声は震えていた。
「覚えておきなさい?あなたみたいな、いやらしい身体の牝は、克徳さんの純粋無垢な瞳に、映り込むことすら……許さないから。」
さやかの身体は怒りのあまり、小刻みに揺れていた。
「……あなた、わたしに楯突くと、どういうことになるのか……わかっているんでしょうね?……あなたみたいな、牝豚は、そこら辺に転がっている下劣な男共に、需要があるってのはわかっているのよ?……この意味わかる?宍戸の力を甘く見ないでよ?」
華雅美は「怖いわあ」と言って、はんなりと笑った。「でもやっぱり、まだ子供やねえ。かぐやさんとは違うわあ。……さやかちゃん?今の会話、ぜ~んぶ、録音させてもろうたわ。うふふ、………これからも、あんまし?いけずせんといてねぇ?」
「く……」言葉を詰まらせたさやかが、華雅美のことを睨む。
「……何が望みよ?」
「さあ?うちにはもう、なんの望みもあらへんわぁ。あら?さやかちゃん?よく見たらお胸が出てきとりまへんか?」
さやかが慌てて自分の胸を両手で掴む。
そこにはまだ膨らみらしきものはなかった。
「うふふふふ………」華雅美は口を押さえながら笑い、椅子から立ち上がると、そのふくよかなバストをふわんと揺らし、大きな腰を振りながら、背中を向けた。
そして、肩にかかったウェーブした髪を払いのけ、「ほな、さいなら」と言ってスカートに風を孕ませながら、ゆったりと歩き去っていった。
マホガニー材のティーテーブルに、一人残されたさやかは、ドンッと拳で板面を叩き、そのまま手の甲で高価そうなティーセットを払いのけた。
それは大きな音を立てて床に落ち、粉々に飛び散ってしまった。
次回、『突然の訪問者』




