井 49.5
特別編 49.5話 ミラージュ・ディメンション
開幕です。
七森きの は、黄色い髪を砂塵で白く汚しながら、世界樹の麓に立っていた。
朱莉ちゃん、聖愛ちゃん、待ってて。必ずあなた達を助けてみせる。
『ネクロンはもう先に行ったよ』、そうピジーは言っていた。……悔しい。なにが光芒の剣よ。わたし、何も出来なかったじゃない。自分が情けなくなるわ。
七森きの こと、ユグドラ・ラビリンスは、ようやく辿り着いた世界樹の森を見上げ、
砂の入ったレーヴァテインステッキをバッグから取り出していた。
この場所には、世界樹から流れ出すウルズの水が川となって流れ込み、この砂漠の終わりでオアシスを形成していた。しかし、この水を飲むことは禁忌となっており、何人も、ここの水で喉を潤すことは許されていなかった。
そもそもこのウルズの水は、どんなに喉が渇いた人間でも、それを飲むことを精神と体が拒否するような呪いがかけられていて、
きの はこんなにも喉がカラカラなのに、どうしても飲むことが出来ないこの泉を、恨めしそうな顔をして睨んでいた。
……預言者ローレンツの本に書かれていた通り、黄色いレーヴァテインステッキをこの水につけ、杖の力を回復させることにする。
誤って自分の手が水面に触れないように、きの はステッキを、柄の方から慎重にウルズの水に浸けていった。
杖が水面に触れた瞬間から、その部分は黄金に輝き出し、屈折して折れたように見えるレーヴァテインステッキが、泡を出しながら、微かに振動していることを感じる。
『……完全に杖を水没させてしまうと、取り出せなくなるから気を付けなさい。』
涼風さんの言葉が甦る。きの は、最大限まで杖の力を回復させようと、ステッキの先端を震える指で摘み、誤って落としていまわないように気を付けながら、ぎりぎりまで水没させていった。
周辺の水が泡立つ。……その時だった。きの の首すじをゾワッとした風が吹き抜け、脊髄から脳の中央に向かって、髄液が逆流するような、恐ろしい感覚が、きのを襲った。
この感覚は前にも感じたことがある!!
あの時、こっちは3人だった!……今は1人!
まずい……!?
《ネクロベインだ!!》
疾風のような闇の衣が、きのを急襲し、辺り一面の青い花を切り裂きながら、瞬時に青白いネクロベインの身体が、目の前に現れた。しまった……!?きのは、身体を捻って、首の皮一枚のところで、巨大な氷の鎌をよけ、草の上に転がった。
……レーヴァテインステッキが!!
きの の手から離れたステッキは、ウルズの泉に落ち、泡を吹きながら湖底へと沈んでいってしまった。まずい、まずい、まずい!まず過ぎる!
きの が顔を上げると、ニヤリと口らしきものを歪ませながら、ネクロベインが草の上を歩いてくるのが見えた。
その足が一歩踏み出すごとに、草は腐り、土の中からは得体の知れない甲虫が這い出してきて、そのままネクロベインの足に踏み潰されて白い液を飛び散らせていく。
どうしよう?!わたし、こんなところで、やられてしまうの??いやだ、いやだよ!
……ネクロベインに倒されたかつてのアイドル達は、みんな、無様な、目を覆いたくなるような死に方をしていった。ネクロベインは、美しいものが腐りゆく様を観察することを、唯一の喜びとしている恐ろしい魔物。
……わたしもああなるの?
ネクロベインの足元には、柔らかい腹を表に向けて転がった甲虫が、脚をばたばたさせながら、お尻から回虫をはみ出させて、苦しそうに踠いていた。
いや………!!
きの は、力を振り絞って立ち上がり、短い時間に、片膝をついて呼吸を集中すると、
力強くふくらはぎのバネを躍動させて、ウルズの泉めがけて、自分の身体を投げ込んだ。
あぁぁぁぁぁぁぁぁ…………
きの の身体は焼けるように熱くなり、服は散り散りになって溶けていった。苦しい……苦しいよ……、助けて………。目を閉じたきの は、口の端から肺の中の空気を、泡にしてごぼごぼと吹き出させながら、
踠き苦しみつつ、湖底に向かって沈んでいった。
お団子ヘアをまとめていた、エターナル神衣セットコーデの『光のヘアピン』が溶けていき、きの の黄色い髪はほどけて
…海藻のように水の中で踊る。
やがてヴィーナスのように身体を隠していた両腕が、力なく脇に垂れ、きの の身体はそのまま垂直に沈んでいった……。
ーーーーーーーーーーーーーーー
泉の畔ではネクロベインが、水辺の周辺をうろうろとして、まだ水面に吹き出続ける泡の様子を伺っていた。
ようやく、きの の身体が湖底につき、静かに横たわる。青ざめた少女の横顔は、もう何の感情も示していなかった……。
………ウルズの浄化の水…………。全てを溶かし、浄化する、濁りのない羊水。全てを元通りにし、全てをなかったことに……。そして全てを最初からやり直しに………。
……きの は女の子。
それとも人間?
それとも哺乳類?
それとも動物?
それとも生物?
それとも、ただの有機物……?
………………ねえ?
……ねえってば? ………ん?
あれ?………その声はピジー?どこへ行っていたの………?また籠から逃げて……もう、悪い子ね。
……きの の最初の記憶はなあに?
ピジー?なにを言ってるの……?
きの が最初に考えたことはなあに?
じゃあ、最初に好きになったものは?
嫌いだと思ったものは?
きの が最初にしゃべった言葉はなあに?
パパ? それとも、ママ?
………ねえ、
きの の一番、大切な思い出はなあに?
あれ?ピジー?どうしたの?なんかいつもと違うね。角 が……、金色だよ?
ラビリンスの召喚獣、一角のセキセイインコ、ピジーは、きの の目の前で翼を広げた。
え?ピジー?それって……、もしかして?
………ヴィゾーヴニルの羽根?
あなた………。
そう。アタイは、世界樹に棲まうヴィゾーヴニルのひな鳥よ。今まで内緒にしててゴメンね。
きの、もう一回聞くよ。
きの の一番、大切な思い出はなあに?
決まったら、それを唱えて。
……多分ね、ネクロベインに対抗するには、きの の一番の、大切な思い出じゃなきゃダメだと思うのよ。
中途半端じゃダメよ?そしてチャンスは一回きり。
その思い出を生け贄にすれば、アタイがね、きの が、すんごい限界奥義を放てるように、お手伝いをしてあげる……。
……………。
あ、決まったみたいだね?ふむふむ。わかった。本当にそれでいいんだね?
さあ、準備は整った?それじゃあ、それを今から唱えてね!
いっくよ~!覚悟しろよ、ネクロベイン!今からきのちゃんがそっちに行くからね~??
生気のない、きの の口が、何かを囁く。
オッケー!
ピジーが湖底に横たわっていたレーヴァテインステッキを脚に掴んで、飛び上がる。
『運命転換…』唇の動きと共に、きの の身体が光を放ち出す。
一瞬でまばゆい輝きが四散すると、
その中から、エンジェリックレインボーミステリアスコーデに包まれた、ユグドラシルアイドル、ラビリンスが、その神々しい姿を現していた。
ざばーっと飛沫を上げてラビリンスは泉から舞い上がる。
『十字展開…!』交差した手の中に握られた、 黄金に輝くレーヴァテインステッキの側面から、虹色に光るヴィゾーヴニルの翼が開いた。
ラビリンスのドレスが、うねるように風をまとい、 かつて七森きの であった者は、もはやこの世のものではないような美しい顔を、邪悪な存在に向けながら、『ミラージュ・ディメンション……』と静かに呟いていた。
ネクロベインの周囲の全てが一瞬にして腐っていき、植物は枯れ、花には蛆虫がわき、ウルズの泉は腐敗した泥の沼に変わり、世界樹は内部が空洞になって崩れ落ちていった。
それを見たネクロベインが、つんざくような歓喜の声を上げる。
彼女の目の前で……、美しいユグドラシルアイドル、ラビリンスは、ドレスの内側から汚物を垂れ流し、口からは嘔吐物を、胸の上にばら蒔いていた。
……ミラージュ・ディメンション。それは、
ユグドラシルアイドル、ラビリンスのみが使用できる限界奥義。攻撃を向けられた対象の者が、最も望んでいる幻影を作り出し、目の前でそれを破壊することで、完膚なきまでに希望を打ち砕く恐ろしい技。この奥義を使用する本人の、大切な思い出を一つ破壊することで発動する……。
ネクロベインが、呆けたように、だらしなく地面に股を開いて座り込むラビリンスに近付いて、喜びにうち震えて彼女のことに触れようとする……
その時、
ぶわーっと、ピンク色と水色の花びらが舞い上がり、一気にラビリンスの身体を包み込んでいった。
ネクロベインが驚いて左右を見回すと、周辺の世界が緑色に染まり、水は青く透明に、花は咲き乱れ、鳥達は飛び立ち、蝶は羽を広げ、葉と花弁の柔らかな香りが、
一気に光を拡散させながら、美しい結晶の矢となって、ネクロベインの身体を四方八方から貫いていった。
「あなたには、美しいものが耐えられない……」回転する花と蜜蜂の群れの中から…、
虹色のドレスに、黄金の4枚の羽を展開し、ブロンドヘアーをお団子にした部分から鞭のように長い髪を靡かせながら、ユグドラ・ラビリンスが出現する。
ネクロベインが悲鳴を上げ、苦しそうに身を捩る。
「あなたの最も望む世界は、今打ち砕かれたわ。」
ラビリンスの背後で、命に満ちた世界樹の幹が急速な速度で再生していく。ネクロベインは絶望して狂ったように叫び、膝をついて、口から黒い液体を吐き出した。だが、その液体も、空気に触れた途端、透明な清らかな水に変化して、地面に溢れると、草花を芽吹かせていた。
スカートに風を孕ませて、ゆっくりと翼をたたみながら、ラビリンスのきらめくヒール靴が土の上にそっと着地する。
そして、ラビリンスは静かにネクロベインに歩み寄り、踞ったその黒いマントの肩に、桜の花びらを一枚乗せた。
そのままネクロベインは、身体の均衡を崩して地面に倒れると、ラベンダーの香りを放ちながら灰になって、風に飛ばされていった。
……勝ったわ………。
…………。
……でも、きっと……。ネクロベインは、こんなことで、滅ぼすことは、出来ない。
また、いつかこれは、わたし達の前に現れる。それは間違いない。ん?
……わたし達?
あれ?わたし、何のことについて話していたんだっけ?
……何か大切なものを追って、ここまで来たはずなのに……。あれ?何だったっけ?……本当に思い出せない………。
ラビリンスは、手に持ったレーヴァテインステッキの翼をしまい、落ち着いて辺りを、もう一度ゆっくりと見回した。
そして、その場にスカートをひらいて座り込むと、呆然として、ラビリンスは花畑の中央で空を見上げ、聳え立つユグドラシルを不思議そうな目で見つめていた。
カクヨムに出していたものを転載しました。
向こうは誰も見ていないようなので…




