井49 紫園くんの想い
吉城寺家の庭先で、宍戸あきらは、足元にあるカタバミの黄色い花を見ながら、
宍戸家にある、白と裏側が赤い種類のやつは、なんて名前だったかな、と考えていた。
今週の土曜日には、紫園くんをうちに呼んで、舞踏会に向けてのレッスンをすることになっていた。……まあ、ここ最近の紫園くんの僕への懐き具合を見るに、初の舞踏会への教育係として僕が選ばれたのは……、何となく分かるのだけれどさ、
そもそも何で、紫園くんが舞踏会に招待されたんだろう。ひょっとしたら、紫園くんのお相手が宍戸の関係者から新しく選ばれたんだろうか。
最近、あの人は、何か忙がしくしているようだし、…後で紫園君のお母さんにでも聞いてみるか。
……あと何より驚いたのが、あの三上さんがこっちに踊りを教えにくるってことだ。
4、5年前にさやかをアイドルにするとか何とか言って、一悶着あってから、絶縁したのかと思っていた…。
多分、今回の舞踏会の準備に関する、この一件は、今のさやかをどうにかしたい、という意志の顕れなんだろうか。
……でも、それにしてはあの人らしくないやり方のような気もする……。
「そのお花、お好きなんですか?」
あきらが顔を上げると、吉城寺夫人が微笑みながら立っていた。
「あ、いいえ、そう言う訳では……。あ、でも、珍しいですね、暖冬の影響でしょうか?」「おほほ、お恥ずかしいことに、私、あまり植物については詳しくありませんの。…でも、そうですね、あの子は、この黄色い花が好きですわ。」
「あはは、何となくイメージぴったりですね、このカタバミは。よく見かけるのよりずっと大きくて、元気いっぱいに見えます。無邪気な紫園くんを見ていると、僕まで元気をもらえますからね。」
……まあ……。と吉城寺夫人は口を手で押さえ、頬を赤く染めた。
「ところで、吉城寺さん、お尋ねしても宜しいでしょうか?」「え?あ、ああ、はい、どのようなことですか?」あきらが訪問する日は、いつもより化粧を濃くしている吉城寺夫人が、乱れていない襟を気にするように、衣を正しながら答えた。
「紫園くんの舞踏会のことなのですが……、お相手はどなたなんですか?」
「………?はい、と言いますと…?」
「その、つまり、紫園くんに新しい許嫁の話が来たのでは…?」「は、はい??」「…いやその、そうでないとおかしいですよね?今回急に宍戸の舞踏会に紫園くんが招かれるなんて?」
「ど、どういうことですか??し、し、紫園と何かあったのですか?!い、今すぐ連れてまいります!お、お、お、お待ちを………!!」
ぴゅーっと走り去っていく吉城寺夫人の背中に手を伸ばして、あきらは、ああ、行っちゃった……と遠い目をしていた。
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「どういうことなの?紫園?きちんと説明しなさい!!」
吉城寺夫人の強い言い方に、あきらは驚きながら、「まあまあ」と言って、俯いた紫園と、その母親のことを代わる代わる見やっていた。
「あなた、あきらさんに何か隠していることでもあるんじゃないでしょうね?!」「なに?!意味わかんないよ!なに言ってるの、ママ!やめてよ!あきらさんにめーわくかけないでよ!」ほとんど泣きそうになりながら声を震わせて紫園が言う。体の横で小さな拳をきつく握り締め、唇を咬む。
「ま、待ってください。もう、いいですから。紫園くんと二人きりにしてくれませんか?」堪り兼ねて、あきらが言う。
その言葉に吉城城夫人も怯み、こちらを睨んでくる紫園の目を、一度睨み返し、「あきらさんに、くれぐれも失礼のないようにね!」と言って歩き去っていった。
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「なんか、ごめんね紫園くん。僕、君のお母さんを怒らせちゃったみたいだよ。」あきらが優しく笑う。
「こちらこそごめんなさい。どうせママのことだから、また変なことを言ってあきらさんを困らせたんでしょ?」今日は、紺色のブレザーを羽織った、少年聖歌隊のような格好をした紫園が言う。
「今回はそうでもないかな。どちらかと言うと、僕のほうが変な質問をしてしまったみたいだよ。」「どんな質問?」「うん、もういいんだ……ひとまず。」「そうなの?」
二人はしばらく足元のカタバミの植込みを、黙って見ていた。
「ぼく、このクローバーの花が好き。四ツ葉も見つけたこともあるんだよ。」
あきらは優しい顔をして、紫園のことを頭の上から見た。「…ああ、これはね。カタバミの一種だと思うよ。クローバーじゃない。」「え?そうなの?」驚いたような、がっかりしたような顔をして紫園があきらを見上げる。
「うん、よく見てごらん、この葉っぱには白いスジがない。これはカタバミだよ。でも、こっちの方がハートの形がはっきりしていて可愛いね。それにね、確かこっちの方が、四ツ葉を探すのは難しかったはずだよ?……探してみよっか?」
「うん!」紫園が嬉しそうにしゃがみこみ、小さな指で、葉っぱの群れを弾きながら選り分けし出す。「あきらさんは、お花のことなら何でも知ってるの?」「いや、そんなことはないよ。にわか知識だよ。」「庭か知識ってすごいね。」「アハハ、全部、うちの庭師の受け売りってこと。」「うけうりって?」「教えてもらったそのままってこと。」
「ふうん?あ、あったよ!」
紫園が指で摘まんだ茎を、あきらが覗き込む。「ん?これは…、五つ葉だね?」「だめ?」「…うーん、ダメじゃないとは思うけど…。採らないで戻しておこうか。」「はい!」紫園は元気よく返事をすると、あきらの肘を掴んで体を寄せてきた。
「サッカーでもする?」庭の端に転がっていたサッカーボールを見つけ、あきらが言う。
「うん!」紫園は飛び上がり、地面に着地すると、ボールを奪って走り出していた。
「こら!手を使っちゃダメだよ!」あきらが追いかけると、紫園はべ~っと舌を出して、ボールを脇に抱えたまま走り続ける。
「フットボールだから、手を使っていいんだよーだ!」「ふっとは足だよ……サッカーと言い換えても変わらないんだけどな」あきらは可笑しくなってきて、クスクスと笑いながら紫園を追いかけていた。
あきらは、わざと紫園を捕まえきらないようにしてぐるぐると庭を走り回り、紫園はキャハハハハと笑いながら、じぐざぐにあきらの側を走り抜けていく。
そのうちに、なかなか自分を捕まえてくれないあきらに痺れを切らしたのか、紫園は自分からあきらの方に向かって突っ込んできた。
「おっと?!」あきらは逆に紫園をよけて、その拍子に花壇に突入しそうになった彼を、慌てて追いかけ、
腕をギュッと掴むとそのまま、あきらの体を軸として、旋回しながらぐるりと勢いよく回し、回転しながら腕の中に紫園を巻き取って抱き締めていた。
紫園はヒャッとボールを落とし、……ポン、ポン、ポン……とサッカーボールは跳ねて地面に転がっていった。
「あきら…さん…?」「アハハ、早速ダンスレッスンが始まったね?……ねえ、ところで紫園くんはさ、うちの舞踏会で……、誰と踊るの?」
「え?……だ、だれって。」
紫園はごくりと唾を飲み込んでから一度目を閉じた。
そして目を開けると、あきらのことを見上げて言った。「そんなの………決まってるじゃん。ぼくの……いいなづけしかいないよ。すごく恥ずかしいけど……ぼくもさ、ちゃんとドレスアップするよ。」
やっぱりそうか……。
紫園くんには新しい許嫁が決まったのか。あまりいい風習とは思えないけど、まあ、紫園くんがそれでいいなら、いいのだろう。……いったいどんな子なのかな?年は近いのかな?舞踏会で会えるのかな?
「あ」
ギュッと掴んでいた手の中で、あきらの袖のボタンが一つ、取れかかっているのを見つけて、紫園が指でそれを摘まむ。
「……取れかかってるよ。」「ん?ああ、そう、みたいだね?」
何かを思い付いたみたいに紫園の顔がぱあっと輝く。「あきらさん!ぼく、付け直してあげるよ!」……嬉しそうだね?
あきらは、袖を見て
ボタンはまだ繋がっていたのに、紫園に引きちぎられて持っていかれてしまったことに気付き、やれやれと微笑んでいた。
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紫園が学校で使っているであろう、黒い裁縫道具の箱を開いて、嬉々として針と糸を取り出していた。
上着を脱がされたあきらは、紫園のドラゴンの裁縫箱を見ながら、これ、僕も使ってたやつだ。今でもあるのか……と考えていた。
「………」「………」「………」
眉間にシワを寄せた紫園が、さっきから必死になって、針に細い糸を通そうと奮闘している。何回も舐められた糸の先が、力なくしなって、針の穴を通ることを拒絶する。ムキ~っと紫園が肩をいからせて糸を変えようとした時……、
「貸してごらん」とあきらが、ひょいと紫園の手から針と糸を取り上げ、紫園の見ている前で、さっきまで口にくわえていた糸の先を、はむっと口に入れると、再び綺麗に尖らせて、スッと一発で針の穴に通した。
か、か、か、か、かかかかか ●●●●●ですとぉ…………?!
紫園はそのまま後ろに向かって卒倒しそうになり、「おいおい」と、あきらに引っ張られて戻ってきた。
「もう、自分でやるよ。」とあきらは針を器用に、指揮棒のように回転させ、さささっと
取れたボタンをくっつけていった。
「あ、最後どうやるの?」
いつの間にか紫園が肩にくっついて、覗き込みながら指をさす。
「え?簡単だよ、ほら、見てごらん。」「ん?ちょっと見えないよ。」「こらこら、あんまり前に出たら危ないよ?」「やっぱり、ぼくにやらせて?だってこういうのってぼくの役目でしょ?」 そうなの?
「あ、なるほど、ねえ、やらせてやらせて!」「「あ」」……二人が同時に叫ぶ。
あきらの指の先から、ポツンと血が湧き出してきて、「イテっ」とあきらが言った。
「ご、ごめんなさい!!」血を見て咄嗟に紫園が、
あきらの指を口にくわえる。おい おい……、
「アハハ、まったく……駄目だよ?バイ菌が入るって言ったじゃないか…… 」
引き抜こうとするあきらの手を、紫園の小さな両方の手のひらが、覆うようにして包み込み、強く抵抗した。
「紫園くん……?」あきらの指先の柔らかい腹の上で、紫園の短い舌の先が微かに動くのを感じる。そして、目を閉じて、紫園はちゅうっと音を立てて、温かい唾と一緒に血を吸い取った。
……やれやれ。やっぱりまだ子供だな。前に傷口を舐めるのは駄目と言ったのに。でも、この一生懸命な姿を見ていると……悪気はないんだよなあ……。単にぼくを気遣ってくれてるだけだもんな。
あきらは、いまだ彼の指をくわえたままの少年の頭を、しばらく優しく撫でていた。ゆっくりと撫でる手に合わせて、紫園はくちゅくちゅと静かに、あきらの指を赤ちゃんのように軽くしゃぶっていた。
……紫園くんはしっかりしているけど、まだおしゃぶりをしていた年齢から、そんなに遠くないんだよな。
吉城寺家は、一年の海外勤務で父親が不在だとは聞いている。そこは宍戸家と似ている部分もあるんだろう。僕にこんなに懐いてくれたのも、寂しいせいなのかもしれないな…。
「もういいよ? ありがとう」あきらは穏やかに紫園のふんわりとした髪を撫でつつ、指をそっと抜いて、彼の顔をこちらに向かって上げさせた。紫園の目は、さっきまでのあどけない様子が消え、どこか大人びているようにも見えた。口から糸をひいて指が離れていく。血はすでに止まっているようだった。
「バイ菌がはいるから舐めるのは駄目なんだよ?」
「ぼくはバイ菌がいっぱい?」「え、そういう訳じゃないけどさ。」
紫園が泣きそうな瞳を輝かせながら、頬を染めて言う。
「…ぼくね、本当は知ってるんだよ?この前本で読んだんだ。つばはメンエキをコウジョウさせるから、役に立つんだって。
……だから、ばっちくない。」
「紫園くんが、たまに急に難しい言葉を言うから、驚くよ。」……それ、キスの話だよね?ほんとにわかってる?
「ぼく、あきらさんが思っているほど…、子供じゃないよ……」
……紫園くん、もしかして許嫁のその子のこと、本気で好きになってしまったのかな?ちょっと早いような気もするけど……。
まあ、でも、こういう感情に年齢は関係ないのかな。……………さやか。
……お前の許嫁が、あんな人間でなかったら……。もっと違った未来になっていたかもしれないのに。
小さい紫園くんの姿が、何故か幼い頃のさやかと被る。さやか。
……僕はお前を救ってやりたい。僕があの男を排除するにはどうすればいいんだ?……僕の力だけでは足りない。……そうだ、
三上さんに相談できないかな?土曜日に相談してみよう。あの人なら、何か力になってくれるかもしれない……。
「あきらさん?どうしたの?」「あ、ごめん、ちょっと考え事を。」
「ぼうっとしてたから、もう、ボタンつけ直しといたよ。」「え?あ、ありがとう、どれどれ?」
……あきらの上着の袖には、ぐるぐるのダンゴ状の糸が飛び出したボタンが縫い付けてあった。あ、うん、ありがと……。
「あ、それとちょっと手を拭きたいかな?」「え?拭いちゃうの?」拭いちゃうの?って……。
「……臭い嗅いでごらん?」あきらが乾いた唾の臭いのする指先を、紫園の鼻に近付けると、
「くっさ!」と言い、紫園は改めて後ろに向かって卒倒した。
井50『ダンス・レッスン』