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井45 アイドルのいろは


「聞いたわよ、イヴ?」


話しかけられた天埜衣巫あまの いふは「え?」と言って、おかめの顔で振り返った。


今日の如月きさらぎひみこは、前回の反省を踏まえて(▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪)、膝下まであるぶかぶかめな白いワンピースを着て、素足にパンプスを履き、腰まである長い髪を惜し気もなくはらりと下ろして、

妖精度MAXなシルバーの花冠を頭に乗せた完全体(▪▪▪)の姿で、

「にししし、」と口に手をあてて笑っていた。


ひみこは、骨と皮だけの痩せた体に、わりと大きめな丸首のワンピースを着ることで、鳥のように細い肩甲骨と、肩の半分をわざと見せている。


左の足首には、ドリームキャッチャーのアンクレットが巻かれていて、

ベージュ色のパンプスの、浅めの履き口から覗いた素足には、夏に履いたサンダルの(おび)の形が、跡になって残っていて、

小学生の水着の日焼け跡のように、親指と人差し指の中央から二股に分かれて白く見えていた。


暖房の効いたミーティングルームで、化粧っけのない顔を微かに照からせながら、ひみこはもう一度「く、く、く、く」と身体を折って笑った。

「イヴ?あんた、水くさいじゃない?そうならそうと言いなさいよ?」

ひみこがそう言うと、衣巫は、え?もしかしたらこの前のライブ(▪▪▪▪▪▪▪)でのこと(▪▪▪▪)雨宮あめみやさん、喋っちゃったの??と、

お面の下で急速に顔が赤くなるのを感じていた。


「もう、早く言いなさいよ!

そ、う、い、う、こ、と、は!でも……安心して。この先輩にどーんと任せなさい!今から私が手取り足取り教えてあげるから!」と、ひみこは、えっへんと、大きく脚を開き、

もはや様式美と言える『前へならえの先頭の子がする腕のポーズ』で、

ワンピースの下にある丸いお腹を、形がわかるくらいに前方に付き出して、偉そうに身体を仰け反らせていた。


「は、はい?先輩?……な、なんのことを言ってるんですか?」水色のセーラー風ドレスを着た衣巫が戸惑いながら聞き返す。

「…そこはヒナちゃん(▪▪▪▪▪)、でいいわよ。あなたが呼びたいって言ったんでしょ?」……はい、ヒナ先輩…。


ひみこの顔が近付いてきて、衣巫のおかめのお面から覗いた赤い耳に、そっと耳打ちする。(…あなた、移動中の御手洗いが苦手なんだって?あんた、ほんと大丈夫?これ、アイドルの基本中の基本よ……?あんたも、いい年なんだから、行くタイミングくらい自分で考えなさいよ……)


衣巫のおかめのお面と、素肌の間から、ぼふんっと湯気が吹き出す。

「ひ、ひな先輩?!な、な、な、なに言ってるんですか??」

「にししし、イヴちゃんの弱点を見つけたわぁ……。まあ、心配しないで!このヒナちゃんに任せなさい!」そう言った後で、ひみこは急に真面目な顔になり、

「…まあ、でも笑い事じゃないか。それこそ、あなた、ライブ中に御手洗いに行きたくなったりしたら、大変なことになるんだからね!聞いてる?あなた、気を付けなさいよ?!

……やだ、怖っ。想像したら、私まで…、御手洗いに行きたくなってきちゃった。」と言って「丁度いいわ。あなたも一緒に行きましょ!」と、衣巫の手をギュッと掴んで引っ張った。


衣巫は、よかった……、あの日のこと(▪▪▪▪▪▪)、バレているわけじゃなかったのね…とホッと胸を撫で下ろした。……あれ?て言うか、今から先輩と一緒に御手洗いに行って、なにするのよ??

衣巫は慌てて抵抗しようと試みたが、

…思ったよりも力の強い、ひみこに強引に引き摺られて、廊下の突き当たりまで運ばれてしまっていた。


「さあ、着いたわよ。」ひみこが満面の笑みを浮かべて、衣巫の顔を見た。


*************


パンドラプロダクション本社の、最上階には御手洗いが2つあり、その両方共が、女子用のものだった。

ここは、元々は色々な会社が入ったオフィスビルであった場所だが、一代でパンドル長者となった雨宮世奈あめみや せなが、その全てを買い取り、地下2階から21階までを、パンドラプロダクション本社としたのだった。


途中の階には、宿泊施設やジム、レストラン、ダンススタジオ、レコーディングルーム、撮影所、と一通りのものが揃っており、生活から仕事まで、全部がこのビルの中で完結出来るようになっていた。


その中でも、この最上階のフロアは、社内でも『聖域(サンクチュアリ)』と呼ばれており、パンプロの幹部か、事務所内でのトップクラスのアイドルしか出入りを許されていなかった。


「こっち、こっち。」とひみこが手招きして、先に御手洗いに入っていく。

衣巫は、絨毯の敷かれた廊下の途中で、向かい合わせになった2つの御手洗いの入り口を、首を前後に振って確認し、

両方共、女子用のマークが付いているのを見て、……さすがパンドラプロダクション……と感心していた。


衣巫が、先輩の後を追って入り口をくぐって入っていくと、中でひみこがA形のワンピースをふわりと左右に(ひら)いて、広い御手洗いの中央に立っているのが見えた。


ん……?ん?……んん??


衣巫は、目の前に広がった光景に絶句して、後ずさりをした。


「どうしたの?あ、ああ…、ここのこと?

……そっか、初めてだから驚いた?ここ、改装前は元々、男子の御手洗い(▪▪▪▪▪▪▪)だった場所(▪▪▪▪▪)よ。社長がケチって、そのままにしたらしいけど、…大丈夫、安心して!今はここも全部、女子用だから!」「そ、そうですか。じゃ、じゃあ、わたし、向こうの女子用(▪▪▪)御手洗いに行きます……!」衣巫が首から胸の上辺りの皮膚まで真っ赤にして出ていこうとすると、

「まあ、待って待って。」とひみこが再び衣巫の手を掴む。


「これも、アイドルのレクチャーなのよ!」…?はい?

「アイドル業は、分刻み、秒刻み、まさに時間との戦いよ!……そして、あなたも聞いてると思うけど、外では常に盗撮の危険に晒されているの!

私達パンドルはね、 この広い世界にある限られた、数少ないセーブポイント(▪▪▪▪▪▪▪)で、素早く、そして(とどこお)りなく、こと(▪▪)を済ませなければならないの!」


つ、つまり……?


「ん?ここにある?まあ、男子用のやつ(▪▪▪▪▪▪)で?あれをぱぱっと済ませてしまうのよ?」


え?え? ……ええぇぇえぇえええええええええええええええええぇぇぇ!!!!!!!!(※注意 『え』がゲシュタルト崩壊中。)


「で、でも、それ、ふかのう…ですよね??か、か、か、からだのこうぞうてきに、む、むりですよね??」

「え?不可能じゃないよ?練習すれば、全然オーケー。なんなら、今からして(▪▪)みせよっか?」ひみこが若干、がに股になって、よいしょ、とワンピースの裾の真ん中を片方の手で掴む,。

「きゃあああああああ………」

衣巫は、お面の目の穴の上を手で覆って、(たま)らず逃げ出していた。




………御手洗いの中央に残された、ひみこは、

…ふ、ふ、ふ、ふ、と肩を揺すって笑い出し、(この前の仕返しよ!)と一人でガッツポーズをしていた。

この前、三上みかみクリスティーヌと会った時に聞いたわよ。イヴ、あんた、私の乙女の純情(▪▪▪▪▪)に付け入って、私に取り入ろうとしたでしょ?な~にが、ヒナちゃんって呼んでいいですか?よ!……ふ、ふ、ふ、甘いわ。私の方が人生の先輩。一枚も二枚も上手(うわて)よ!参ったか。


ひみこが、笑いを噛み殺しながら、個室の方へ向かおうとすると、

後ろから「ヒナ先輩!」と声がした。…振り返ると、息を切らした衣巫が、戻ってきていて、おかめのお面の向こうから、ひみこを睨み付けるようにして、肩をいからせながら、

……ずんずん、こちらへと歩み寄ってきた。

「な、なによ!あんたの方が……」と、ひみこがファイティングポーズを取りながら言いかけると、衣巫が「……ごめんなさい!」と勢いよく頭を下げた。


ん?


「せっかく先輩が…、わたしのために教えてくれようとしたのに……、わたし!まだまだ甘ちゃんですね!プロとして失格なんだと思います……わたし……、どんなに大変でも……一流のアイドルに(▪▪▪▪▪▪▪▪)なるためならば(▪▪▪▪▪▪▪)、どんな試練にだって堪えてみせます!!だから……、」お、お?ちょっと、なに?この展開?

「ヒナ先輩!」は、ハイ?なんでしょう?「その……見せてください!わたし、ちゃんとやり方を覚えますから!」は、は、ハイぃ??


衣巫が自分の胸元を掴みながら、じぃっーと、ひみこの方を見つめている。衣巫は、これから見るであろう、先輩のあの行為(▪▪▪▪)を想像して、恥ずかしさの余り、体がぶるぶると震えてきてしまったが、それでも尚、強い意志で、ひみこの姿から目を離そうとしなかった。


じぃぃぃぃ………。おかめのお面の奥から、強い視線を感じる。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って?!………あ、あ、ああ!そうだ、な~んか、わたし、もう、御手洗い、行きたくなくなっちゃったかなあ?……アハハ、いやあ、なんか、もう、そんな感じじゃなくなったみたいよ?……アハハハ……、いやあ、まいったなあ……、ごめんね~?あ、イヴちゃん、また今度ね~、いやあ、ほんとはね、あなたに見せてあげようと思ったんだよ?ほんと。マジで。教えてあげようと思ったんだけどさあ。もう、なに?全然?まったく御手洗いに行きたくなくなっちゃったからさ?いやあ、マイッタ、マイッタ!」


それを聞いて、どこかホッとした様子の衣巫の肩を叩いて、「いやぁマイッタマイッタ、あれ~?もうこんな時間じゃない?ワタシ、ツギノシゴトイカナキャ……ヤレヤレダナア、アーイソガシイソガシ……」と両手両足を同時に前に出しながら、ひみこは去っていった。


衣巫は、そんな先輩の後ろ姿を見送りながら、………やっぱりアイドルって大変……と考えていた。


**************




その後、如月ひみこは、

次の仕事へ向かう車の後部座席に、行儀よく膝を合わせて静かに腰掛けながら、

……無言で紙マスクの中に恥ずかしいものを(▪▪▪▪▪▪▪▪)(しゅわぁぁぁぁぁぁ……)と出していた。

フッ………、これがアイドル稼業の厳しさってやつよ……。私ってば、可哀想………と、ひみこは車窓を流れる高速道路の壁を見つめて涙目になっていた。

次回、『あるパンドルの1日』

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