井43 伝説の始まり
楽園から追放されたディーヴァは、元来た道を引き返そうとしたが、
世界樹の森の入り口に、回転する炎の剣が配置されている様を見て、絶望していた。
世界樹の森の日出る方角には、四つの顔と四つの翼を持った、中性的な顔立ちの子供の顔をした天使がが立っていて、
翼に包まれたその身体を隠しながら、厳かにディーヴァに語りかけてきた。
「我が名はケルビム。お前は、最初のユグドラシルアイドルだな?」
ディーヴァは、仮面の下で唇を嚙みながら、こくりと頷いた。
「お前は、世界樹の永遠の命から隔絶された……。わかっているとは思うが、お前のユグドラシルステッキはすでに力を失っている。そして、それはこの先も永久に力を取り戻すことはないだろう。 」
ディーヴァは無言で、手にした自身の黄金の杖、リピータステッキに目を落とした。それは先端に、円形に開いた扇の形が彫刻されていて、中心からはもはや何の力も感じなかった。
「…その杖は、間もなく四つに分割される。そして遥かな先の未来、4人のユグドラシルアイドルの手に渡ることになる。それは、レーヴァテインステッキと呼ばれ、……今のお前のステッキの力を1/4にしたものとなるだろう。」
「……私はどうなるの?」ディーヴァが静かに呟く。その声は、心なしか怒りに震えているようにも聞こえた。
「……お前の時代は終わりを告げた。お前は少女の瞬間を終え、女になったのだ。」
そう言うと同時にケルビムは、バサッと身体を包んでいた4枚の翼を開いた。
……その中は、完全な空洞だった。驚いたディーヴァの隙を付いて、衝撃波が光のように真っ直ぐ彼女の方へ放たれる。
それは、避けきれなかった彼女の仮面を直撃し、身体ごと吹っ飛ばされたディーヴァは、地面に突っ伏すように倒れ込んだ。
「もう、終わりだ、ディーヴァ。」
顔を上げたディーヴァは、顔の前で仮面が半分に割れているのに気付き、
慌てて口元を手で隠した。
地面に転がったリピータステッキは……、4つに裂けて、すでに黄金の輝きを失っていた……。
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……パンドラプロダクション本社ビルの最上階にある、社長専用の小さな事務室で、
ジャージの上下に着替えた赤城衣埜莉は俯いたまま、柔らかいソファに座っていた。
「……見たくないだろうけど」と雨宮世奈は、会場で見ていたモニター画面のものと同じ映像をテレビに流していた。
「ほら、問題のシーンだけど……、この距離からだと、周囲の人達にとっては……単にあなたが踞ってしまったように見えるだけよ?」
衣埜莉は、ちらっとだけ映像を確認すると、赤面して、項垂れた。
「ライブを中止にしたのは、さすがに問題だけどね、あなたの、その、あれなんかは、アイドルの業界では、あるあるなのよ?知らないとは思うけど、 こういうのって、バレていないだけで、よく起こることなの。だから、そんなに気に病まなくても大丈夫よ。」
(…本当は、有料配信用に撮っていた映像は、あの瞬間を4Kで鮮明に記録しているのだけれどね。アップもあるし、全身のもある。すでに何回か見返したけど、凄すぎて、言葉にならないわ……。アイドルが〇殺をした時にファンの後追いが出るように、あの100人の中の何人かも、してしまった人がいるんじゃないかしら?
正直、私でさえ共感性羞恥で、やってしまいそうになったくらいよ。まあ、これはトップシークレットに属する、門外不出の映像になるわね。)と世奈は考えていた。
返事を返さない衣埜莉に向かって、世奈は言葉を続けた。「よく言うように、白鳥は水の上では優雅に泳ぐけれど、水面下では必死に足をバタつかせているの。……アイドルだって人間よ。私、あなたにマスクの話はしたわよね?」衣埜莉の目に涙が溜まっているのが見えた。
世奈は(はあ)と溜め息を吐くと「あなたの好きな?如月ひみこだって、あの忙しさよ?移動中は大抵マスクの中にしてるのよ?最初の頃はこの私が直接、汚れたマスクを処分してあげてたくらいだからね?」
「べ、別に、ひみこちゃんが好きってわけじゃありません……で、でも、それ本当ですか?」「本当よ。」と世奈が言う。
「幸い、今回は観客にはバレていないんだし、気にすることはないわ。」
世奈は片方の手で凄いスピードでスマホをフリックし、横目で、天埜衣巫のファーストライブについて検索しまくっていた。
……『伝説が始まった』…『天使がステージに降臨』『神話の世界、女神の宴』『私達が今日、目撃したものは、この世のものではなかった。』『素顔のない神』『お面の下に隠された秘密と、私達だけに見せてくれた秘密』『神秘的!!!』『体調不良によりライブは中断されてしまったけど、あの1曲で、天埜衣巫は私達の女神になった』『見た?まるで永久のディーヴァの世界。美しすぎる…。』『次回のライブ開催があることは、雨宮社長自らが約束したので間違いはない。楽しみ!』『精霊であり、天使であり、女神であるこの少女は、私達と同じ人間であるということを、あの1曲で見せてくれた。そして、人間である前に一人の女の子であるということが、あの瞬間に証明された。神の子は、……福音のために女の子の姿をして地上に降り立ち、私達の身代わりに十字架の上であのようなことを行われたのだ。』『素顔を見たい。見たいのだけど、この天埜衣巫に関しては、もうどちらでもいい。この少女が美少女であることは疑いようがない。それに、すでに素顔という表層よりも、更に深い部分を、今日この少女は私達に見せてくれたのだ』『かわいい!かわいい!かわいい!』『もっと見たい!1曲じゃ足りない!』『神聖なる巫女の舞い。あれは、そう、神を降ろす儀式。』『最後、体調が悪そうだったけど大丈夫かな?』『仮面のアイドル。解釈は違えど、まさに実写版AQDVじゃない?』『皆さん、この聖なる天埜衣巫ちゃんを、不浄なパンドリアン達から守りましょう』『いふちゃん、いふちゃん、いふちゃん、だいすき!!』
世奈は黙って衣埜莉にスマホを渡し、まとめサイトにある、これらの賛辞を読むように促した。
「絶賛じゃない?」世奈が言う。
「ほら、あなた、このままでいいの?あと2曲あったのでしょ?……近いうちにもう一度チャンスをあげるから、……最後までやりきりなさいよ?」
衣埜莉は両手でスマホを抱え、画面上の文字列をじっと凝視していた。
「……雨宮さん…」「ん?」「ごめんなさい。……わたし、まだまだプロ意識が足りていなかったわ。」「ん、まあ、そうね。」
「わたし……、頑張ります。」「ええ、頑張りなさい?」
「次はいつステージに立てますか?」一度目を閉じた衣埜莉は、次に目を開けると背すじをピンと伸ばし、世奈の顔を正面から見据えて言った。
お…、立ち直りが早いわね。世奈は、この少女の強い視線から、目を逸らさないように首を固定して答えた。
「まあ、まだ気が早いわ。体調不良ということで、お休みをいただきましょう。……そうね…、もう少し期が熟するのを待ちましょうか。その辺りのタイミングは、私に任せて。」
「はい、わかりました。……後、その……、」「ん?なに?」「わたし、クリスティーヌさんに会いたいです。会って今日のことを謝りたいです。……せっかく素敵な振り付けをしてくれたのに……、私、1曲しか踊れなくて……。それも、あのせいであまり上手に踊れなかった……。」
「わかったわ。向こうもあなたに会いたがっているみたいだから、明日にでもダンススタジオの予定を入れておいてあげる。」「ありがとうございます。」「ごめんね、ミカミッチのことは信頼しているのだけれど、彼女は、その……生物学上では男でしょ?……アイドルが直接、男性と連絡を取り合うことは、社内の規約で禁止されているの。」「はい、わかっているつもりです。」「ならいいわ。」
「それよりも、あなた、今度の日曜日、ここで如月ひみこに会わない?私抜きで二人で会えるようにセッティングしてあげるわ。
あなたも、この業界の先輩に、色々と聞いておいた方がいいと思うの。……どう?」
衣埜莉の顔に自信に満ちた微笑みが戻る。「はい、是非!お願いいたします。」
……さっきのコメント…、わたしのライブ、永久のディーヴァみたい、って言われてなかった?
…如月ひみこ……別に、ユグドルの役をわたしと変われとは言わない。ただし、あなたが降りるのであれば、わたしは止めるつもりはない。
来年の夏公開ということは、もうすでに制作中なんでしょうけどね。
でも、
もし、
あなたがユグドルに相応しい人間でなければ……、
わたしだって容赦しないつもりよ。……首を洗って待っていなさい……。
世奈は衣埜莉の表情を探るように、横顔を見つめていたが、
……やっぱり、この子、美少女だわ……と溜め息をつき、天埜衣巫の底知れない可能性に、少し恐ろしさを感じてしまっていた。
次回、『先輩と後輩』




