井39 アイドル!!
赤城衣埜莉は、自分の部屋の机の上で、手の中にある一枚の名刺をじっと見つめていた。
『 パンドラプロダクション 代表取締役社長
雨宮世奈』
……パンドラプロダクション。略してパンプロってやつね。
アイドル業界では、『超』がつくほど有名なタレント事務所。毎年行われるオーディションと、歴代のアイドル、モデル、女優達が総出演する『パンコレ』が、かなり有名よね。
最近では、パンプロ所属の子役、如月ひみこ が、
サリー・ホッパーのミュージカル版の主役に抜擢されたというニュースが記憶に新しい。
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この事務所の特色は、男の子のアイドルをいっさいやらないというもので、
そのせいで、パンプロは別名『秘密の花園』とも呼ばれている。
社長の雨宮さんが、恐ろしく敏腕で、今のご時世ではあり得ないやり方で、アイドル業界のトップを目指して奮闘している、ということは周知の事実だ。
例を上げるとキリがないが、まず ……イベントへのいっさいの男性ファンの入場禁止。
小中学生の女の子限定のライブ開催。同伴の保護者も女性のみ。
大炎上上等で、女性優遇の企画をバンバン通し、一番の金づるであるはずの男性ドルオタを事実上全て出禁にすることで、
逆に恐るべきプレミア感を演出し、CD、DVD、Blu-rayの売り上げを天井知らずに上昇させている。
男性ファン達は『隠れパンドリアン』と呼ばれ、女装してライブ会場に入ろうとして捕まったファンは数知れず。
男性ファン達は、男というだけで違法ファン呼ばわりをされ、合法女性ファン達からは蔑まれ、
男女間の溝をわざと作り出している、と雨宮社長は非難されたりもしていた。
しかし、雨宮さんはどこ吹く風で、
一番最近のちっくたっくの流行りである、
『男性にパンプロアイドルのCDを踏ませる動画』、通称『踏み絵チャレンジ』は彼女が仕掛けたものだとも噂されていた。
これでまた、CDの売上げも、うなぎ登りという訳ね。
まあ、でも最近の一番の炎上は、如月ひみこの舞台出演だけどね……、ご存知の通り、サリーホッパーは英国製百合という大人気ジャンルを生み出した元凶の、いたって真面目な、登場人物全員が女性の児童文学原作の物語だけれど、
この舞台は、男の人も見に行くことが出来る、ということが火種となっている。
これは、雨宮社長の新たな戦略なのか、はたまた如月ひみこの反乱なのか、様々な憶測を呼びつつ、
この件は、女性ファン、男性ファン双方から別々に、ズタボロに叩かれていた。……女性ファンにとっては、如月ひみこが男の目に触れることが許せなく、男性ファンにとっては、如月の純潔性(?)か何かが失われるとか何とかで、
とにかく大騒ぎになっている。まあ、一般ファンにとっては、テレビやインターネットで見ているアイドルに過ぎないから、
肉眼で見ることに対して、そんな反応はしないと思うけどね。
………何だか、少し、アホらしい話……。
パンプロは、有料チャンネル上で限定ライブも行っており、そこでは男性ファン達が投げ銭で大暴れしている。そのうちのどれくらいの金額が、アイドル本人に行っているのかしら?……そういうのって、自分がアイドルになってみないと、わからないものなんでしょうね?
……それにしても…この前、名刺をくれたあの人が、本当に雨宮世奈本人ならば、
わたしは、恐ろしい確率と倍率の宝くじに引き当たってしまったのかもしれない。…まあ、8割はわたしの可愛さのおかげかもしれないけど…。
う~ん……。
今週に入ってから衣埜莉は、何度もこの名刺を取り出しては眺め、しまってはまた取り出して眺め、を繰り返していた。
わたしがアイドルかぁ……。
正直すごく興味がある……。それに、あのサリー・ホッパーの如月ひみこがいるでしょ……。意外にミーハーなママが飛び付いて、じゃあ見学だけでも…とかトントン拍子に話が進みそうな気がするわ。
でもね……。学校がね……。アイドル活動で、学校の方が疎かになるのは、ほぼ間違いないわ……。
そう、わたしの無遅刻無欠席の伝説を、こんなことで途切れさせる訳にはいかないのよ。
なんか、もう……小学校を卒業してからでいいかしら……、でも…、ね?……アイドルになれば、おおっぴらにジェネシスみたいなフリフリの衣装を着れるかもしれないと思うと……、ねえ?
……う~ん。衣埜莉は、オーク材の鏡の中に映る自分の顔を見て、さらさらの細い髪をふわりと肩の後ろにはね除けてみた。
丸襟から覗いた華奢な鎖骨が、襟にあしらわれた小花模様と相まって、か細い木の枝のようにも見える。
衣埜莉は鏡の自分に向かって、にっこりと微笑んでみせた。…うん……、やっぱりわたしって可愛い……。如月ひみこよりも、可愛いんじゃないかしら?
今月は、ようやく鼻血も終わって、体調も万全に戻りつつあった。
……まあ、当然わたしだって、わかっているわ。…現実のアイドルは、ユグドラシルアイドルとは違うということを。
それでも……やっぱりさ……、わたしはジェネシスになりたいのよね……。
きっと、まだ、すぐに決める必要はないはず。一度……、一度きり、話を聞いてみるだけなら、構わないよね?嫌なら、そこで断ればいいんだし。
衣埜莉は、再び名刺を見つめ、金色で印刷された『パンドラプロダクション』という文字を指でなぞってみた。
ママに話してみようかしら?……もしかしたら、その時点で反対されて、おしまいってことだって、十分あり得る。それならそれでいい…………、と思う、多分……、多分、ね。
衣埜莉は名刺を裏返して、今日で何度目かになる、そこにボールペンで書かれた言葉を読み返していた。
『私、ピーンと来ちゃった!あなたなら、きっと、パンドラの箱を開けられるはず \(^_^)/』カリスマ社長…………顔文字………。
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今日の衣埜莉には、大切な用事があった。
今夜9時から、永久のディーヴァ公式が、来年夏公開予定の映画、『永久の歌姫 ア†ビソス(a+bissos)深淵の宴』のキービジュアルを発表することになっていたのだ。
今まで出ていたポスターのデザインは、真っ白な背景に黒字の縦書きで、タイトルが印刷されただけもので、
動画、静止画問わず、まだいっさいのビジュアル情報は解禁されていなかった。
衣埜莉は、レーヴァテインステッキを手に握りながら、机にスマホを立てて放送の開始を待っていた。今日はまだ、4人目のユグドルの情報は来ないだろう。若干の不安要素ではあるが、ジェネシス、マリオット、ラビリンスの演者は続投が決定しているし、
衣埜莉にとっては、正直、ジェネシスの活躍だけが関心事だったので、
他はどうでもよかった。
待っている間、衣埜莉は、
もしも自分がアイドルになったら、歌と踊りを完璧にこなせるかどうか、
そのシミュレーションを、脳内で行っていた。
踊りはそれほど得意という訳ではない。ただ、運動神経はあるから、それなりに出来るとは思う。
歌はまあ、その、言ってはなんだけど、凄く自信がある。
ふと、その時、衣埜莉は、今は登校拒否でいない宍戸さやかが、表現運動の時間に踊った創作ダンスを思い出していた。
…さやか嬢の舞いは、圧巻だったわね。わたしですら思わず引き込まれてしまった……。
そういえば、合唱祭での高嶺真愛の歌も、悔しいけれど迫力があった。本番に強いタイプとでも言うのかしら?あの子の独唱部分は予想外に、観客を魅了していたわね。
……まあ、わたしだってなかなかのものだったと思いますけどね……。
あ、始まった。
永久のディーヴァの主題歌と共に、おなじみの3人の声優が登場する。さてと……。今夜はキービジュアル以外のジェネシスの新情報は来るかしらね……。
………。
………….。
…………………。
…………放送が終わった後、衣埜莉は机の前で放心していた。
キービジュアルは素敵だった。ユグドル3人が、それぞれのレーヴァテインステッキを掲げ、交差させている姿。背景は世界樹の森。最終回で裂けたユグドラシルの木の幹から光が洩れてきて、白い階段が繋がっている………。
でも……、そうではない。……最後の最後に、爆弾が放り込まれた。
……4人目のユグドルのキャラクターデザインの発表……まあ、可愛いんじゃない?これならありかも?……からの、
声優発表………、は?……如月ひみこ……?………如月ひみこが、永久のディーヴァに?……は?ちょっと待ってよ……解釈違いなんですけど………?!
衣埜莉が放心していたのは、数分間。
すくっと衣埜莉は立ち上がり、真剣な表情で、走るようにして家の階段を降りていった。
もう、迷ってはいられない。こんなことが、許されてはいけない。
バンッ、ダイニングテーブルの上に雨宮世奈の名刺を叩きつけた衣埜莉に驚いて、
母親が、目を丸くしてこちらを見る。
「ママ!…わたし、アイドルになるから!!異論は認めない!」
「……?!」
……翌朝の赤城家の食卓には、赤飯が炊かれていた。
「衣埜莉、おめでとう。」父親と母親が優しく微笑みながら、手を繋いで立っている。
……まだ決まった訳じゃないんだけど……て、なんでお赤飯なのよ?……鼻血の時に、お赤飯を炊くと言って聞かなかったママを、必死になってやめさせたのに………。まだ諦めていなかったのかしら…………。
もう、いいわ。赤飯でもおこわでも雑穀米でも何でも、好きなだけ炊くといいわ。
衣埜莉は、唇を噛み締め、(如月ひみこ……待ってなさいよ……、あなたの好き勝手にはさせないから………)と考えていた。
次回、『雨宮社長』