井35 初恋の行方
……知佳は夢を見ていた。
………夢の中で、知佳は双葉和歌名と、学校の御手洗いの個室に、二人きりで立っていた…。
「知佳ちゃん。」和歌名が優しく名前を呼んでくる。
知佳は「ん?なあに?」と言った。
和歌名が黙って知佳の体を抱き締めてくる。「え、和歌名ちゃん……」
……気が付くと、和歌名の右手には何重かに折りたたまれたおはながみが握られていて、
左手で、そっと知佳のマスクを下にずらしていた。
冷たい空気が、剥き出しになった知佳の唇と頬に触れる。
和歌名は、静かに手に持ったおはながみで、知佳の少し上向いた鼻を包み込むと、
「はい、ちーんして。」と笑顔で言う。
知佳は、和歌名の細くて長い指の、温かい体温を感じながら、
和歌名の綺麗な指に向かって、勢いよく鼻をかんだ。それに合わせて和歌名の指が、知佳の鼻をぐいっと押して、柔らかい粘膜を捻じ切るように左右に振る。
「……はい、もう一回、ちーん。」知佳は涙の溜まった目を閉じて、再び強くいきんだ。
ぬるっとした感触が、おなながみから少しだけ溢れ、それを和歌名が、横にずらしながらゆっくりと掬い取る。
「……いっぱい出たね。」和歌名が、知佳の髪を繰り返し撫でながら微笑む。
「ん…」と知佳は幸せそうに、両手の拳を無抵抗に肩の高さで上向けながら、
鼻の穴に残った汚れを、全部拭き取ってもらっていた。
………。
…………。
気が付くと、目の前にいるのは和歌名ではなく、いつの間にかクラスの男子、早川雄大に変わっていた。
知佳は驚いてマスクを上げようとしたが、その手を強い力で押さえられ、抵抗できないまま、
……今度は眼鏡を外された。
雄大は黙ったまま知佳を、個室にある蓋の閉じた便座に押すようにして座らせると、
真剣な顔をして、「俺に見せてくれないかな?」と言った。
「え?」え………
雄大は跪き、優しく知佳の上履きを両手で包み込むと、くるぶしの輪郭に添って、靴下の上から足首をゆっくりと撫でた。
雄大の手は知佳の上履きの裏のゴムまで触れていて、
知佳は「そこ、汚いから……ダメだよ……」と俯きながら、恥ずかしそうに言った。
「何言ってんだ、俺、こんなに綺麗に使われた上履き、見たことないよ。」と雄大が知佳の顔を見ながら、微笑んで言う。
「ダメだよ……」そう言いながらも、
知佳は雄大が、上履きを脱がそうとしてくるままにさせ、次に薄水色の靴下に手をかけてきた時には、脱ぎやすいように足の力を抜いていた。
雄大がぎこちない手つきで、知佳の靴下を脱がしていく。
臭いは嗅がないでほしい……。知佳は瞼をきつく閉じて、ひたすらそう願っていた。
そして、その願いの通りに雄大は、臭いを嗅がなかった。
早川くんは、そういうことはしない。
知佳は安心したように目を閉じて、靴下の脱げた両足を雄大の前に投げ出していた。
雄大が、知佳の足の裏の、情けなくなるくらいに平坦な扁平足を、そっと指でなぞる。
知佳は唇を噛んで、その感触を我慢した。
雄大は、知佳の平らな足裏に優しく爪を立てると、掻き回すようにそこを擦り始めた。
知佳は、ふくらはぎの筋肉を突っ張らせて、足指を握ったり、開いたりを繰り返し、雄大の指の感触を必死に我慢をしていた。
やがて、べたついてきた汗で、指の滑りが悪くなってくると、雄大が指を動かすのをやめる。
「……わたし、女の子だけど、『秘密少年探偵団』に入っていいの…?』とろんとした目で知佳がそう尋ねると、
雄大が少年らしく屈託のない笑顔で、もちろんさ、と言った。
知佳の目に涙が溢れ、頬をつたっていく……。視界がぼやけていく………涙の膜が、天然のレンズとなって、再び目の前のものに焦点が合うと、
……そこには東三条先生の顔があった。先生の唇がニヤリと歪む。
……い、 いやっ!!
知佳の手が空を振り払うと……、
……、布団の中で、目が覚めていた。
知佳の厚手のジュニア用紙マスクは、顎の方にずれてしまっていて、夜のうちに出た大量の涎が、枕をぐっしょりと盛大に濡らしていた。
……パジャマの襟と、寝ている間に口の側にあてがわれていた片方の袖までもが、湿って嫌な臭いを放っている。
そればかりか、今朝は鼻も少し出てしまっていた。
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「……もう……私、どうしたらいいか……」
知佳の母、村田真理亜は額から髪の束を一房垂らし、両手で顔を覆っていた。
知佳の父親は夜勤でまだ帰ってきていなかった。
ダイニングテーブルの横には、この寒い冬の朝にも関わらず、知佳が肌着姿のままで立たされている。
「5年生よ?!」食卓の椅子に腰掛けた真理亜が顔を上げて言う。
真理亜の顔は、娘の知佳にあまり似ていなく、色白で、昔のアイドルのようなあどけなさを残す可愛らしいタイプの美人だった。ただ、その美貌も今は生活と子育ての苦労で疲れ果てて衰え、目の下と鼻の横に皺となって刻まれている。
真理亜は、唯一娘とそっくりな神経質そうな大きな目をキョロキョロとさせ、「5年生よ?」ともう一度言った。
「マスクはどうしたのよ?!今朝はな、ん、で、こんなに濡らしたの?!」「寝ている間にずれちゃって…」「はい?ずれちゃったって何よ?誰が毎日、毎日、あなたのものを洗っていると思っているの??……もう!いい加減してよ!」
大声を出した真理亜は、戸惑う娘をなおざりにして、年甲斐もなく、(うわあん)と大声で泣き出していた。
「ママ……ごめんなさい」「うるさい!」「ごめんなさい」「黙りなさい!」「ごめんなさいぃ……」知佳も目からボロボロと涙を溢し始める。
「うるさい!」真理亜が椅子からガタンと立ち上がる。「もう!こんなものがあるから、あなたがいつまで経っても治らないのよ!」真理亜が勢いを付けて、知佳の顔からマスクを剥ぎ取ってしまう。
「やめてぇ……」「……こんなものに頼っているから!……あなたが治そうっていう意志を持てないのよ!」真理亜は、知佳の部屋へ走っていき、紙マスクの袋を鷲掴みにすると、
そのままベランダに出て、生ゴミのバケツの中へ投げ入れて両手でギュウっと潰してしまった。
「ママ、やめてぇ、やめてよぉ………」
「うるさい!もう、マスクも全部捨てる!今日の学校も、マスクなしで行きなさい!……授業中に涎でも垂らせば、あなたも、このままじゃまずいと思って、治すよう頑張るでしょ?!」
「やめて!やめてよぉ……イヤァァァアア!!」知佳が涙で顔をぐちゃぐちゃにさせながら、金切り声を上げる。
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背を丸めて畳に座ったまま、身動き一つしない母の後ろ姿を見て、
知佳はゴミ箱から拾ってきたマスクをして「……いってきます……」と言うと、玄関から出ていった。
真理亜は、汚れた娘の布団とパジャマをそのまま床に散らかしたまま、スマホを取り出すと、
その場でluinのパズルゲームをやり始めていた。
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「おはよう!」和歌名が声をかけてくる。
知佳はぎょっとして、黙ったまま顔を見返す。
「知佳ちゃん、あのさ、昨日の御手洗いのことだけどさ……。」
知佳の顔が赤くなる。
「驚いたでしょ?でも、あれはさ……」
そこで早川雄大が割り込んでくる。
「おい、村田?ちょっとこっち来て!」
「なあに、早川くん?今、わたしが知佳ちゃんと話してるんだけど?」
「お………」と雄大が何かを言いかけて、すぐに真っ赤になって目を逸らす。
今日の和歌名は、ほんの少し丈の長いブラウスを着ていて、フリルのように波打った裾がふわりと揺れて、どことなく、いつもより、なんとなく、見ようによっては、女の子らしく、見えないこともなかった。
「なあに?なんか言いたいことある?」と和歌名が詰め寄ると、雄大は更に真っ赤になって、「な、なんでもねーよ!お、俺は村田に用事があるんだ、さ、行くぞ!」と言って、先にスタスタと歩いて行ってしまった。
「ご、ごめん、和歌名ちゃん、わたし、ちょっと行くね」と言って、知佳が雄大を追い掛ける。
「……早川と村田さんって友達だったっけ?」そう言いながら、高嶺真愛が後ろから歩いてくる。
「さあ…?」と和歌名は言って二人が去った方向を目で追っていた。
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「……なあに?」黙ったままの雄大に向かって、知佳は落ち着かなげに尋ねた。
「お前さ、……バッヂどうしたの?」
「あ、そ、それね、わたし、思ったの。秘密少年探偵団なら、秘密にしておいた方がいいかなって。」
知佳は毛玉のついた紺色のカーディガンを捲り、タックインブラウスの胸付近に留められた銀色のバッヂを見せた。
覗き込んでくる雄大に、知佳は顔を赤くして、急いでカーディガンの前を閉じる。
「なるほど!それ、カッコいいな!」早速雄大も、肩のバッヂを黒いパーカーのフードの内側に付け替えて隠す。
「さて。仮団員くん。」雄大が偉そうに腕を組む。「昨日の東三条先生の件だが……、」すぐに知佳が何かを言いかけようとするのを手で押し止めて、雄大が言葉を続ける。「この件は今後暗号で話すことにしよう。東三条先生のことを話す時は、今後、『Hの件』と言うように。」知佳が微妙な顔をする。(さ、どうぞ?)と雄大が話の続きを促す。
「え、えっちの件だけど、」知佳がしどろもどろになりながら言う。「…あ、あの人は、ひ、人の弱みにつけこんで、脅してくるような人なの……」「具体的には?」「え……?」知佳は背中が汗ばんでくるのを感じた。
「ほら、わ、わたしがいまだに…マスクをしていることとか……」「え?なんでそれが弱みになるんだ?」「え?だ、だって……」「だいたいちょっと前まで、みんなマスクしてたわけじゃん?いまだに村田がマスクしてるからって何だよ。
それで、ひが、あ、Hは、何て言ってたの?」
「え、あ?……お、驚いちゃったよ、き、君はまだマスクをしているのか、って……。」
「何だよ、それ?あーあ、俺、東三条先生のこと尊敬してたのなあ。……なんかがっかりだよ。」雄大が後頭部に両手をやりながら言う。「Hがそれで、村田に、無理矢理、3階の女子の御手洗いの調査を依頼してきたってわけか?」「ちょ、調査って……その言い方……」
「ところで村田は調査自体は嫌だったの?」「え?い、嫌に決まってるよ…」「そっかー、やっぱし女子はこういうの怖いもんな?」「…?」「でも、まあ、俺としては、やり方は強引だけど、七不思議を調査するには、Hのアプローチは科学的と言えるんじゃないかと思っている。」「えーっと……、な、七不思議って?」「?」今度は雄大が首を傾げた。
「え?村田は今まで何の話をしてたの?」「な、七不思議って、その、わたし、知らない……。」
雄大は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに、ああ、そうかと納得して笑顔を返しながら言った。
「ごめん、ごめん。そうか、さすがに七つ目の不思議については知らないよな。……実を言うと、……俺も知らないんだ。」
「?」
「そうびっくりした顔をするなって。」
「学校の七不思議、その七!」雄大が人差し指と親指を直角にして、頬を押さえながら眉間にしわを寄せる。
「七つ目の謎は誰も知らない!それを知ったものは、必ず死に至るという………。」
……じゃあ、いったい誰がその話を伝えたのよ……?
知佳は思わず突っ込みそうになる自分を抑えて雄大の顔を見つめた。……て、言うかわたし達今何の話をしていたんだっけ?
「まあ、とにかく。Hから預かったこの芳香剤、片っ端から校内に設置していこう。」「え、でも……それって?」「 まずは理科室。(動く人体模型)次に音楽室。(甘い香りとメトロノーム)後は廊下や中庭とかかなあ。(赤い蝶と黄色い蝶)…こうなったら、俺達が先回りしてHより先に映像をチェックしてやろうぜ。うまく出し抜けば、こちらに勝機はある!」
勝機ってなに……?知佳は雄大の話に精一杯ついていこうとしてきたが、すでに諦めていた。
「結局、村田は俺を手伝ってくれるの?」
((……まだ、3番目の個室で何があったかを確認してはいない……。))知佳と雄大は、偶然同じことを同じタイミングで考えて、顔を見合わせると、
そのことが伝わったように、照れくさそうに笑い合っていた。
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その頃、東三条克徳は、職員室で物思いに耽っていた。
……昨夜、自宅で確認した3階の御手洗いの映像。ほとんどの時間、何も映っていなかったが、最後に面白いものが見れた。
双葉和歌名と高嶺真愛。あの二人、前々から怪しいとは思っていたが、やっぱりな…。
二人して御手洗いの個室で抱き合っていやがった。
まったく……。興奮させやがるよ。東三条は無意識に薬指の婚約指輪をくるくると回して、
また、楽しみが一つ増えたことへの喜びを噛み締めていた。
……しばらくは、あの馬鹿げた秘密少年探偵団は泳がせておくか。偶然にまた、何か大きな獲物が釣り上げられるかも知れない…。あの将来有望な早川雄大には何か別な褒美を与えておくかな。あのかわいい弟子と一緒に楽しめる、特典映像でもご用意して差し上げると致しますか。
予鈴と共に東三条は立ち上がり、弾む足取りでホームルームへと向かっていった。
次回、『上映会』