井31 井戸端会議
「宍戸さんて、めっちゃお嬢様らしいよ。」
学校の御手洗いで、井上咲愛がハンカチをしまいながら言った。
「へえ、そうなんだ。」 斉藤水穂が、洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめながら答える。
「お金持ちそうには見えなかったけどね。でも確かに、話しかけてもあんまし答えないし…、」水穂は頭を斜めにして、耳の上辺りに付けた濃いピンク色のリボンの位置を直しながら言葉を続ける。「…ああいうのって、実はわたし達のこと、育ちが違うとか思ってバカにしてたのかな?」「えーヤバいね。確かに言われてみたら、そうかも。」咲愛は自分のショートヘアの毛先を軽く指で弾いて、鏡に向かって左右に首を振ると、今日も髪がふんわりしているかを確かめていた。
「まあ、でも、なんのかんの言って、授業中に水筒の水こぼしましたたけどねー。」と言って水穂がくすりと笑う。「お嬢様だったら、もう転校とかしちゃえばいいのに。わたしだったら、もう恥ずかしくて学校に来れないよ。」「実際、来てないしね。」
咲愛はスカートのポケットからヘアブラシを出すと、髪をブラッシングし始めた。
水穂の方は、表現運動の時間にやったダンスの振り付けを無表情で躍りながら、口パクで歌を唄っていた。
「関係ないけどさあ。」咲愛が髪を梳かしながら話題を変える。
「村田さんてさ、いっつも同じ服着てない?」「あ、わかる、あのグレーのパーカーのやつでしょ?それと緑色のスカート。女の子と、なんか変なクマが手を繋いだイラストのやつ。」
「ほんっと、あればっかだよね。」「最近さあ、 村田さん、双葉さんや高嶺真愛とよく一緒にいない?」「そういやそうだね。あの臭いのとよく一緒にいられるよね。」「え、それ言っちゃう?」「えー、だって実際臭いじゃん。あと、申し訳ないけど、フケすごくない?」「ああ、ヤバいよね。ちゃんと髪、洗ってんのかな?て感じ。」「まあ、皮膚の病気かもしれないから、あんまし言うとヤバいかもよ。」「…わかってるって。」そう言うと咲愛は、艶のある黒髪を満足そうに手で撫で付けた。
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「………」
すぐ側の鍵のかかった個室の中で、村田知佳は息を潜めて、
クラスメイト達の会話の内容を聞いていた。
知佳は、他の人間が自分のことを話題にしているのを聞いて、
陰口を言われているだけなのに、
…胸がドキドキするのを抑えることが出来なかった。
「村田さんて、いっつもマスクしてるよね。」咲愛が興味なさそうに話を続ける。
「言われてみれば、わたし、村田さんの顔、見たことないかも。」と水穂も言う。
「なんか、大きな眼鏡もしてるし、……マスクと眼鏡を外したら、絶世の美少女だったりして!」「アハハ、なにそれ、ウケるんですけど!」
知佳は、ぽおっとした表情で、御手洗いの個室の中で、
……徐に、自分のマスクを外していた。それを腰に付けたポーチにしまい、次に度の強い分厚いレンズの嵌まったラズベリー色の眼鏡を外して、おなはがみのロールの蓋に置いた。
薄い壁一枚を隔てて、知佳は、涎が乾いてかさかさになった頬を露にして、そっと目を閉じ、胸に手をあてた。
『え?村田さん?』『村田さんの素顔って、こんな可愛かったの?』『あ、知佳ちゃん、おはよ……え?え?嘘でしょ?…か、かわいい……。』
『知佳ちゃん』『なあに、和歌名ちゃん?』『知佳ちゃんの素顔、見せてほしくないな。』『?』『知佳ちゃんのかわいい顔、他の人には見せたくない…』『和歌名ちゃん?』『知佳ちゃんの本当の姿……、
わたしだけのものにしたい……ダメかな?』
『わかった。和歌名ちゃんがそう言うなら、わたし……そうしてもいいよ。』
「アハハハ…ない、ない。給食の時とかたまに見るけど、悪いけど、あれはマスクしてる方がいい感じだね。」と水穂が顔の前で手を振りながら言う。
「毒舌……」と咲愛が言ってクスクスと笑う。
知佳は、それを聞いても、特に表情を変えず、ポーチから袋に個包装された新しい紙マスクを取り出し、カサカサとした音を立てないようにして、慎重に袋を破こうとした。
その途端、知佳の隣の個室で『ジャーーー』と水を流す音がして、扉がバタンと勢い良く開かれ、誰かが出ていく気配がした。
「さっきから聞いてたら……、あんたら一体なんなの??」
あれは、高嶺真愛ちゃんの声だ。…さっきから何の音もしてなかったけど、いつ鼻をかんでいたんだろう。
斉藤さんと井上さんも驚いているような様子で、身じろぐ気配がして、二人とも言葉を発することも出来ないでいるようだった。
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「ちょっと、あんた達、人の悪口もたいがいにしなさいよ。」真愛が堂々とスカートの下で両足を肩幅に開いて、鋭い眼差しを二人に向ける。
「な、なによ、あんたこそ、今まで物音も立てずに、盗み聞きしてたわけ?」咲愛が顔を赤くして言う。
「ど、……べ、べつに盗み聞きしてたわけじゃないわよ。」今度は真愛が、ブラウンの顔を内側から赤くして、ビシっと二人に向かって指を差した。
「とにかく!あなた達、村田さんのこと、なんでそんなにひどい言い方するの?!イジメでしょ!」
「別にイジメてなんかいないわよ!あ、あの子が……、なんか…、イジメられるような感じ?なのが、いけないんだからね!」咲愛がしどろもどろになりながら言う。
「なにそれ?このこと、東三条先生に言うからね!」
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個室の中で知佳は、みんなが自分のことを話しているのを聞いて、一層胸の鼓動を早めていた。
知佳は、まだマスクを付けていなかったが、眼鏡だけを掛け直し、苦しそうに口呼吸をしながら、どうにか壁の向こうの様子が見えないか、閉じた扉の間に顔を近付けていた。
「…ちょ、せ、先生に言うのはやめてくれない?」水穂が不安げに髪のリボンを触りながら言う。
「わ、わたし達、 村田さんのこと、…友達だと思ってるし。」
……ともだち。
その言葉を聞いた知佳は胸が苦しくなり、不安げにグレーのパーカーの下から片方の腕を入れ、さらにインナーの下に手を滑り込ませて、激しく鼓動する心臓を肌の上から直接押さえた。
「そうだよ!」咲愛が真愛に向かって叫ぶ。「わたし達、村田さんのこと、好きだし……、それに、ほら、その、かわいいから、わざと、いじめて…、いえ、そう!いじわるしてるの……、
そうだ!ほら、高嶺さんだって、村田さんはかわいいって思ってるでしょ?」
「え…」急に話をふられて、真愛が絶句する。「そ、それは……か、かわいい…って、もちろん思っているけど……?な、なによ、だからイジメていいってのはおかしいでしょ!」
真愛が再びビシッと水平に人差し指を咲愛に突き付け、弾みにツインテールがポンと上下に跳ねる。
今では知佳は息をするのも、ままならない様子で、苦しそうに「うっ、うっ、」と口から声を漏らし、身体中が切なくなって、個室の壁に頬を付けて目を閉じていた。
……斉藤さんが、わたしのことを、友達って言った……、井上さんが……、わ、わたしのことを、かわいいって言った……。それに、真愛ちゃんまで、本当は、わたしのことを、か、か、かわいいって思ってるって……。
知佳は頭を壁に押し付けながら温かい涙が、目の端から溢れ、頬を伝っていくのを感じた。
やがて緩くなった鼻水が流れ落ちてきて、笑顔を浮かべた唇までも濡らす。
……みんな、本当は、わたしのこと……。ありがとう……みんな……わたし…わたし………。
「と、とにかく!今度、 村田さんのこと悪く言ったりしたら……、東三条先生に言うからね!!」真愛が胸の前で腕を組み直し、二人を睨みつけた。
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三人の気配が消えた後、知佳はようやく落ち着いてきた胸を撫で下ろし、改めて綺麗なマスクを耳に掛け直していた。
それでも、まだ知佳が個室から出ないのには、ある理由があった。
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……知佳は、今朝、東三条先生に呼び出され、恐る恐る扉を開け、誰もいない音楽室で、そのままじっと待っていた。
音楽室の絨毯の埃っぽいにおいと、湿気を帯びた木の香り。教室に置かれた数々の楽器の内部にある空洞が、黙っていても空気を反響させているようで、耳鳴りがする。
ガラリと、扉を開けて、東三条先生が入ってきた。入るとすぐに背中を向けて、扉の辺りをカチャカチャと弄る。
「やあ。」明るい声で、先生が笑顔を向けてくる。知佳は俯いて、体の横で拳をただぎゅっと握っていた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。」東三条先生が優しく知佳の背中に手を添えてくる。彼女の背中は、パーカー越しにもわかるくらいに湿り気を帯びていた。
「この服、いつも着ていますね、……お気に入りですか?ふふ、かわいいですよ。」
知佳の返事はない。
やれやれ、と東三条は微笑みながら首を振り、「大丈夫ですよ。」と言った。「今日は先生のお手伝いをしてもらいたくて呼んだだけです。」知佳がちらりと一瞬顔を上げる。
「そう、お手伝いと、いうのは……、これです。」知佳は先生が手にしたものを見て不思議そうな顔をする。
……それは、よくある設置型の芳香剤だった。
「先生は、学校の美化委員の顧問もやっているんですけどね。」先生がその芳香剤を愛おしそうに撫でる。
「先生でも、これを設置できないところがあるんです。」それを聞いて知佳が(?)と顔を上げる。
東三条が知佳に耳打ちする。「(女子の御手洗いです。)」
知佳がびくっと体を縮こまらせる。
「ほら、あそこは一番臭いが気になる場所ですよね?」東三条が知佳のマスクをした顔の側で、くんくんと鼻を鳴らす。知佳は顔を真っ赤にして再び俯いた。
(ふふふ)と東三条は嬉しそうに笑い、「村田さんにはですね、これを、3階の女子の御手洗いの個室に設置してきてほしいんです。
あ、でも、…このことは、誰にも言ってはいけませんよ?」
「な、なぜですか…?」ようやく声を出した知佳は、自分の喉がかすれて、うまく喋れないことに気付いた。
「あははは、いいことはですね、人には黙ってやるのがいいんです。
……とは言え、注意してほしいんですが…。このことを他の誰かに話したりしたら…….、村田さん?(わかってますね?)
あなたの赤ちゃんみたいな紙マスクのこと、クラスのみんなに言いますからね?」
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御手洗いの個室の中で、
知佳は、手に持った芳香剤をじっと見つめていた。パッケージには『 ジャスミンの薫り』と書かれている。
その香りを嗅ぎながら、知佳はふと『ジャスミン』の『ジ』の点々のところに合わせて、見えないくらいの小さな穴が空いていることに気が付いた。
試しに指で擦ってみると、そこに凹凸を感じ、確かに穴が空いていることがわかる。知佳は片目を閉じてその小さな穴を覗き込んでみた
……中で微かに光るものが見える。なんだろう?と思いながら知佳は、その芳香剤を東三条先生に言われた通りに、シンク台のタンクの角に立てた。……パッケージの花の絵が、丁度前を向くように、角度を整えると、
知佳は一応水を流して、扉の鍵を開けて外に出た。
……一番奥、3番目にある個室。そこに芳香剤を置いてきたことを、後で東三条先生に報告すればいい。別に、何か悪いことをしている訳ではない。
知佳は手に残る華やかな甘い香りを、鼻に近付けて、笑顔になって友達のいる教室へと戻っていった。
次回、『和歌名ちゃんの悩み』