井30 庭園会への準備
宍戸家の庭師、港川紀之は、お気に入りの緑色の大きなスコップを手に、冬の閑散とした庭を歩いていた。
鼻唄まじりに、翌年に向けての株分けをしながら、広大な庭を見て回っていると、せわしなく木の枝の間を飛び回るメジロが目に入る。
この時期は花も少なく、単純に鑑賞するだけならば寂しい季節と言える。
だが夏場と違い、直射日光や虫に悩まされることがあまりないこの冬の庭作業が、
港川は、結構好きだったりもした。
春を待つ、チューリップやヒヤシンスに腐葉土を被せ、これからやってくる厳しい寒さに備える準備をする。
来年の春に執り行われる、次の『庭園会』の会場に選ばれた、この宍戸家の英国式庭園は、
古式然とした日本家屋の外観からは想像できないほど本格的なもので、園芸家達の間ではかなり有名なスポットだった。すでに、庭の一角は、それぞれの庭師達に貸し出され、目隠しをされて、施工が始まっているところもある。
港川は、小さな花壇にもそれぞれビニールをかけ、冬への対策を抜かりなく行う。
宍戸家のかつての当主に、彼がこの庭を任されたのは、もうかれこれ30年以上も前の話になる。
今では、あの、小さかったかぐや様に仕え、そればかりか、そのご子息、ご令嬢のお庭をお手伝することになろうとは、
港川は、その過ぎ去った年月に軽い眩暈を覚えて、いったんスコップを土に差して、高い水色の空を見上げていた。
「港川。」聞きなれた声がして、彼がスコップを掴み直して後ろを振り向くと、
白のダウンコートを羽織った宍戸かぐやが、すぐ側に立っていた。
「すみません。」と港川は思わず謝った。謝罪の言葉を受け、かぐやは、いいのよ、と片手を上げ(あなたは、いつも宍戸の庭によく尽くしてくださっています。多少の休憩を勝手に取ろうとも私は気にしません。)という意味で、彼がさっきまで見ていた先の同じ空を見上げ、次に冷たい眼差しで彼の方を見直し、港川もその意味を完全に理解して、(恐れ入ります)と頭を下げた。
「港川。」「はい。」「今年の土はどう?」「はい、もう十分に仕上がっているかと。」「そう。……見せてもらえるかしら?」
港川は、「わかりました。」と答えると、かぐやの前に立って歩き出した。
彼が向かった先にはペルシア風の白い八角形の東屋が建っていて、それは庭園内の小高い丘にある休憩所のように見えていた。
実際にそこへ近付いてみると、屋根の下には、複数の木箱が円形に並べられていて、足場が狭くなっており、人が休めるようなスペースにはなっていない。
港川は、かぐやに先に入るよう促し、彼女は少し顔をしかめながら日陰の中へ入っていった。
足元に並んだ木箱は、一辺が70cmほどの、木目が美しい杉で出来ていて、上部はガラス張りの蓋になっている。
そのガラスは結露しており、港川はその一つに近付いて、蓋に付いている蝶番を軋ませながら、ゆっくりと開いた。
かぐやは手の甲を鼻にあて、思わず眉間にしわを寄せたが、それ以上は嫌がる素振りも見せず、上からそれを覗き込んでいた。
「これは、さやか様のものです。」港川がどこか誇らしげに言う。
木箱の中は、発酵したような見た目の湿った土で充たされていて、分解しきれていない、まだ新しいおはながみや液状に分離した何かの分泌物が混ざり合い、慣れない人間なら思わず顔を背けたくなるような強い臭いを放っていた。
「少し、臭うわね。」とかぐやが言う。
港川は、「お待ちください。」と言ってスコップを掴み、中の土を優しく撹拌し始めた。黒く湿り気を帯びた土を掘り返すと、中から沢山のミミズが顔を出し、くねくねと蠢く。
「春には、これは良い土になります。…良い土壌は、良い花、良い作物を育てます。」
「あきらの方はどう?」かぐやは、もう蓋を閉じるように港川に指示しながら尋ねる。
「発生していた虫の卵は全て除去しました。もう、大丈夫でしょう。」「そう、それは良かったわ。」
「あと、こちらは最近、よくお越しになる、吉城寺家のお嬢様のものですが…、ご指示はありませんでしたが、一応、作り始めております。ご覧になりますか?」「……相変わらず、気が利くこと。」とかぐやは港川のことを見下すようにして微笑み
「見せていただかなくて結構よ。でも、そのまま続けなさい。……あきらが自分の庭に使用するかもしれないわ。ありがとう。」と言って手を振った。
「これが、かぐや様のものです。」港川が木箱の前で、ほとんど傅きながら指し示す。
かぐやは、ほとんど興味のなさそうな顔をして、ガラスの蓋を上から覗き込んだ。
「ご存知の通り、今は亡き旦那様のご指示により、かぐや様がまだお小さい頃から少しずつ継ぎ足して使用しております。これは……宍戸家の庭の土には欠かせない栄養素でございます。」「知っているわ。…それで?」
港川は土の上に膝をついて目を伏せながら言った。
「恐れながら…、来年の春より、ペラルゴニウムの土を、……さやか様のものにしようかと考えております。…よろしいでしょうか。」
かぐやの表情は変わらず、港川の頭を 見下ろしていたが、「港川。」とぽつりと言った。
「許しません。」
「はい。大変失礼を致しました。もう、二度とこのようなことは申しません。お許しください。」港川はしっかりとした声で、謝罪の言葉を述べた。
「…もう、いいわ。顔を上げなさい。」かぐやが優しく港川の肩に手を置く。
「今日、私がお前を訪ねたのは、庭園会の相談のことなの。」「何なりと。」
「次回は、桜を中心にして、回りを薔薇で放射状に囲おうと思うの。」「はい。」「今年、切る予定だった古いソメイヨシノ、」「はい。」「あれの最期は、私の庭に移してからにしてほしいの。」「かしこまりました。」
かぐやは「頼んだわよ。」とだけ言うと、後は振り返らずに、その場から立ち去っていった。
……相変わらず、かぐや様は無茶なことをお願いしてくる。
港川は微笑み、膝の土をはたいた。
もうすぐ、年の暮れに開催される舞踏会も近い。毎年、この日には多くの来賓があり、港川もコンポスターの回収に忙しく働くことになる。それらは、良い堆肥となり、春の庭園会の会場に使用されることになるだろう。ただし宍戸本家のものは、門外不出となっていて、この東屋 周辺には、何人足りとも近付くことを許されてはいない。
港川は、愛用のスコップを手にして、自分もその場を離れることにした。
……さて。昼食を食べた後は、クリスマスローズの様子を見て、あきら様に、春の庭園会の参加をどうなさるおつもりか聞いてみよう。紫園様の土を使うことをお話したら、ひょっとしたら気が変わって参加されることもあるかもしれない。
…それとも、まだお話ししない方が良いだろうか。
港川は、古い焼却炉の側にある小さな小屋に入ると、手を消毒し、用意してあったサンドイッチを食べ始めた。
次回、『井戸端会議』




