井29 紫園くんのおうち
宍戸家お抱えの運転手、田邉良輔は、バックミラー越しに、後部座席に座る宍戸家の御曹司、宍戸あきらに対して笑顔を向けていた。
「…田邉さん、さっきから何ですか?にやにやとして。」
「これは、これは、申し訳ございませんでした。」
「て…田邉さん?まだ何か言いたそうですね?」
田邉は再びにっこり笑うと、「あのあきら様が、こうも変わるとは驚きですよ。」とウィンカーを出しながら言う。
「あの、小さいお方をいたくお気に入りのようで……。」
「やめてくださいよ。」とあきらも笑いながら答える。「今回宍戸家は、吉城寺家の方々に、ご迷惑をおかけしてしまいましたからね。許嫁とか……、全く。紫園くんの方もいい迷惑ですよ。どこで、何をどう間違えたのか……。」あきらは溜め息をつき、膝の横に置いた菓子折りを包んだ風呂敷に手を乗せていた。
田邉は、「?」と少し首を傾げてから「まあ、とにかく…ですね、吉城寺家と仲良くされるのはいいことですよ。」と言ってハンドルを右に回した。
数日前、吉城寺家の方から遊びに来てほしいとのお誘いがあり、
今日あきらは、最近再び通い始めた学校が終わるとすぐに、迎えにきた宍戸家の車に乗って、そのまま紫園の家へ向かっていた。
お土産の菓子折りは、前もって使用人に用意をさせておいたものだった。紫園くんはお菓子が大好きだから、どんなものでも喜んでくれるとは思ったが、あきらは念入りに下調べをして、評判のガレットを取り寄せていた。
「さあ、着きましたよ。」田邉は先に車を降り、後部座席の扉をわざわざ開けて、あきらが降りてくるのを待った。
あきらが車を降りると、田邉は「多少長居していただいても大丈夫ですよ、わたしはここでお待ちしていますから。」と、今にもウィンクでもしそうな顔をして言い、紺色の制帽を脱いで、その形を両手の指で整えた。その後、彼は白髪を後ろに撫で付けて、もう一度帽子を深く被り直すと、あ、本当にウィンクをしたよ……。
「……あ、うん、田邉さん、今日はありがとう。紫園くんも、何だか楽しみにしてくれてるみたいだしね。じゃ、行ってくるよ。」あきらはそう言うと、前髪を綺麗に掻きあげ、風呂敷を掴み、吉城寺邸の青銅色の門の前に立って呼び鈴を鳴らした。
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ほんの数秒待つと、すぐに慌ただしくなった邸宅の方から、人々が湧き出してきて、遅れて吉城寺夫人が笑顔で、ただ慌てて、ほとんど青ざめながら、あきらを出迎えてくれた。
「失礼いたしました。こんなに早くお着きになられるとは……。もっと早くにわかっていましたら…」
あきらは笑顔で困ったように、「まあまあ」と言い、「紫園くんはどこですか?」と聞いた。
吉城寺夫人は、(まあ、さっそく…)と頬を赤らめて口を抑え、「紫園は、あきら様にお菓子を食べていただきたい、と今キッチンに籠っておりますわ。」と嬉しそうに返した。
あきらは、吉城寺家の使用人達に囲まれるように広い廊下を案内され、甘い匂いのするダイニングの方へ誘導されていった。風呂敷に包まれた菓子折りは、気を遣い続ける使用人達にとうに奪われて、その上、あきらはコートもマフラーも、何もかもを剥ぎ取られ、
今は苦笑いしながら夫人の後ろをついて歩いていた。
どこもかしこも真っ白な、広いダイニングに入ると、あきらは紫園の姿を見つけて「やあ。」と言って手を上げる。
紫園は、ぱっと顔を輝かせ、「あきらさん、ようこそ!」と言った。
紫園は、調理実習で着るようなチェック柄のエプロンと、白い三角巾という姿で、小さい手に対して大きすぎるように見えるミトンをはめて、フライパンを握ったまま首だけでこちらを振り返っていた。
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「なにを作っているの?」あきらが笑顔で尋ねると、紫園は顔を赤くして俯いて、「……ア、アップルケーキです。」と言う。
「この子ったら、わざわざ酸っぱい林檎を使ってケーキを焼くんだ、て言って。」吉城寺夫人が本当に困ったように頭を振りながら言う。「あきら様のお口には合わないんじゃないかしらと言ったんですよ?」
「いいえ、そんなことないですよ。」とあきらが言う。「ママ?あきらさんに変なこと言わないでよ?」紫園が怒ったようにそう言うと、夫人はおほほ…と笑った。
紫園はキッチンに戻ると、折り畳み式の足場に登り、砂糖を焦がしてしまわないように、パンケーキをひっくり返した。
今年の異常気象のせいか、前もって買っておいた林檎は、酢っぱくて身もすかすかだった。でも、それをケーキにすることで美味しく食べられるということを紫園は知っていた。卵と植物油を多めにした、ふわふわの生地に、バターとシナモンをたっぷり入れて、薄く切った林檎を並べれば、後は焼くだけ。はい、もう出来上がり。
仕上げにホイップクリームを乗せて、可愛いお皿に切り分ける。
上機嫌な紫園の後ろ姿を見ながら、吉城寺夫人が、「あきら様」と声をかける。「はい?」あきらも、紫園の小さな背中を見ていたが、声をかけられて振り返る。
「紫園のことですが…」「はい。」「あの子、自分のことをぼくって言いますでしょ?」「?」「それって…その、…どう思われます?あきら様としては。」「どうって…まあ、普通なんじゃないですか?僕だって、ぼくって言いますし。」
「も、もちろんあきら様はそれでいいんですが…」吉城寺夫人はチークを塗った頬の下を更に赤くして年甲斐もなく、目鼻立ちの整ったあきらから、乙女のように目を逸らした。
「確かに、吉城寺の方々は、言葉遣いも礼儀もきちんとされている印象ですものね。…でも、まあ、紫園くんはまだ小さいですから、もうしばらくあの感じでもいいのかな、なんてアハハ、僕が偉そうに口出しすることじゃないですよね。」とあきらが手を頭の後ろにあてて笑う。
吉城寺夫人は、そんなあきらを眩しそうに見て、「うちの紫園を…そこまで…」と呟いて、ルンルンと体でリズムを取る自分の娘の背中をもう一度見やっていた。
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「ママ!もうそろそろ向こう行ってよ!」紫園がプンプンとしながら食卓にアップルケーキを置き、ミトンをした手のまま、腕をエプロンの胸の前で組んで膨れっ面になる。
「はい、はい、ごめんなさいね、お邪魔虫は退散するわ。」「あ、吉城寺さん、僕が持ってきたお菓子、後で皆さんで召し上がってくださいね。」「あら、ありがとうございます。でも、そんなにお気を遣ってくださらなくても…」「もう!早く向こう行って!そうだ、あきらさん、ぼくの部屋へ行こ!そっちでケーキ食べてよ!」
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紫園の部屋は二階の突き当たりにあり、扉には白く塗った木の札が掛けられていて、
そこには『しおん』と、
これまた木で作られた文字が貼られていた。
「お邪魔します。」とあきらがかしこまった風に言うと、「どうぞ、ようこそおいでくださいました。」と紫園もふざけてお辞儀をする。あきらは紫園からケーキの乗ったお盆を「持つよ」と受け取って、気持ち腰を屈めるようにして彼の部屋へと入っていった。
それとはなしに部屋を見回したあきらは、棚に沢山並んだぬいぐるみと目が合い、その次に、几帳面そうにぴちっと並んだ本やゲームソフトの列を見、淡い色を中心としたクッションやベッドをちらっと見やり、
ふと、棚の一角に『悠久のディーヴァ』の絵が描かれた箱が目に入り、
あ、これ、小さい頃さやかが好きだったアニメだ……と考えていた。
「なんだか女の子の部屋みたいだね。」と思わずあきらが口走ると、
紫園が「女の子みたい?みたい、ってなに?ぼくが、女の子みたい?失礼しちゃうな」と言って、すぐにあきらにお盆をミニテーブルに置くよう促した。
「あはは、ごめんごめん、失礼だったね。気にしないで。」とあきらがテーブルの前に座りながら言う。
用意された水色のクッションの上に腰を下ろすと、あきらの目にふと、紫園の学習机の下の空間が目に入った。きちんと整理された部屋の中、そこにだけ一冊の雑誌らしきものが落ちていて、片方のページが折れて丸まっている。
すぐ手の届く距離だったこともあり、あきらは気を利かせたつもりで、それを拾って「落ちてたよ」と紫園に向かって差し出した。
「あ…」
二人してその雑誌に目を落として固まる。
あきらが手に持って開いているページには、
中学生くらいの可愛らしい女の子のモデルが、ポーズを取っていて、その上に『*モテカワコーデ*気になる彼に胸きゅんアピール!』とピンク色の文字が印刷されていた。
「あ、これっ、ち、違うの!」真っ赤な顔をした紫園がミトンをしたままの手で、雑誌を奪い取る。
あきらは一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐにクスッと笑うと、「ちょっと紫園くんには早いかな」「?」「でも、まあ、健全だとは思うよ。恥ずかしがることないよ。僕だって可愛いものは好きだからね。」とあきらは、ついさっき人生の先輩の見本を見て学んだウィンクを、パチリ、とした。
紫園はエプロンから除かせた丸襟の上で、首の根元まで赤く染めて、「…₩…₩…₩….…」と俯いて唇をすぼめていたが
「………」「………」
やがておずおずと、ためらいがちに、小さな声で囁くようにして、こう言った。
「じゃ、じゃあさ、ぼくがこういうのを着たら、どう思う?」
「………」
え?そっち?
ま、まあ今の時代、悪くはないんだろうけど……。
「紫園くんには今の方が似合っているとは思うな。」あきらがそう言うと
「うん、わかった。あきらさんは、こういうエプロン姿が好きなんだね」と紫園がニッコリと笑った。……ちょっと待って…話が変な方に……。
「い、いただきます。」あきらは、紫園が作ったアップルケーキにフォークを差した。
「あ…、これ、おいしいよ!」
あきらが頬張った口を押さえながら言う。
紫園は、ぱあっと顔を輝かせ、にやけてしまう口元をミトンをした手で隠していた。
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「ところで、紫園くんは一緒に食べないの?」
向かい合わせに座った紫園は、さっきから、結局(にま~)と笑う顔を見せながらミトンの手で頬杖して、あきらの食べる姿を見ていた。
「あ、うん、そろそろぼくもいただこうかな?」「どうぞ、どうぞ」と、ご馳走されている側のあきらが、逆にお皿を差し出す。
紫園が黄緑色の四葉のクローバー柄のミトンを手から外して、フォークを手にしようとした時、
「ちょ、ちょっと、それ?!」と言って、あきらが紫園の左手を掴んだ。
驚いて、紫園があきらの手から逃れようとするが、彼は強く掴んで離してくれなかった。
「見せて。」と言って、あきらは紫園の左手の薬指の、黒く汚れた絆創膏を顔の前に持ってきた。
「…これ、いつから替えてないの?」
紫園が目を逸らす。
真剣な表情をしたあきらだったが、やがて、やれやれと首を振り、優しく微笑むと、「全く、しょうがないなあ。もうちょっと自分のことに気を遣いなよ、ね?」と言って、
紫園に家の薬箱を持ってくるよう指示した。
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「紫園くん、指にバイ菌が入っちゃったらどうするの? 」ゆっくりと紫園の薬指に巻いた絆創膏を剥がしながら、あきらが溜め息をつく。
慎重に剥がしきると、巻いていた部分の皮膚だけが、白くふやけていて、傷口からは、もう血は出ていなかったが、周辺の皮だけが固くなり、ぱっくりと割れたままになっていた。
「これじゃ治らないよ。」あきらは、そっと紫園の小さな指を摘み、持ってきてもらった古い木の薬箱から、綿棒を取り出した。
「……しみる?」紫園が少し涙目になりながら、恐る恐る聞く。
「いいや、消毒液は使わないよ。そもそもね、しみるってのは、皮膚の組織を破壊してるってことだから。逆に治りが遅くなることだってあるんだ。だから石鹸で綺麗に洗うだけで十分だよ。」
「大丈夫?それ、なにかのシュウキョウとかじゃない?」
「あはは、紫園くんて、難しいこと知ってるね?……大丈夫。僕を信じて。」
「うん…。でも、ちょっと恥ずかしいから、一人で洗ってきていい?」「ん?ああ、勿論だよ。行っておいで。」
数分後、紫園が戻ってくると、あきらは新しい絆創膏を一枚取り出し、改めて彼の薬指に巻いてやった。
「はい、おしまい!……後はちゃんと毎日替えること。ほら、約束して。」「はい。」「指切りする?」紫園は慌てて首をふるふるとする。
「こ、子供じゃないから!」「アハハハ、わかったよ。でも、忘れずに替えること!」
「じゃ、じゃあ、あきらさん、また明日変えてもらっていい?」
あきらは、今紫園が言った言葉の意味を考えてから、「しょうがないなあ。まだ一年生だからいいけど、一人で出来るようにならなきゃ駄目だよ?」と言って、彼のふわふわとしたマッシュルームカットの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「や、やめて、ぼく子供じゃない!」と紫園は言ったが、すぐに幸せそうにあきらの肩にもたれて、クスクスと笑い出した。
「そういえば……」とあきらが紫園の肩を掴んで、体を離しながら言う。
「何故か、今年の舞踏会、紫園くんも招待されてるらしいね。」
きょとんとした顔で、紫園があきらのことを見上げる。
「まあ、ここにきて急に交流が増えたけどさ……、宍戸家の分家でもないのに、吉城寺家が招かれるなんて…、」あきらがケーキをまた一切れ口に運ぶ。「どういう風の吹きまわしなんだろうね?」
最初は冷静に話を聞いていた紫園だったが、やがて目を白黒させて、わたわたと顔の前で手を振り始めた。
ちょ、……もしかして、ぼく、ド、ドレスを着るの?
な、なんか、超、恥ずかしいんですけど……?!
次回、『庭園会への準備』




