井26 さやか様のお庭
11月のある晴れた日曜日、
宍戸家の庭師を務める港川紀之は、
冬の花々の手入れと、春に向けての草木の準備を行っていた。
彼は宍戸家のかつての当主から、庭全体の管理を任されていて、宍戸邸の日本庭園から、英国式庭園まで、そのほぼ全てが彼の作品であると言えた。
…東に病気の花があれば、行って薬剤を散布してやり、
西に年老いた木があれば、支柱を設置して、根っこに土を被せ、
南に倒れそうな松があれば、お神酒をかけて祈り、
北にカイガラムシがいれば古い牛乳を飲めと勧める。
港川は、一年を通して宍戸家の庭を健やかに保つ為に、尽力していた。
「さやか様。スズランには毒があります。確かにかぐや様がお好きなお花ではありますが…」
「失礼ながら、さやか様のお庭には似つかわしくないかと。」
白いワンピースの上に紺色のカーディガンを羽織った、宍戸さやかが微笑みながら振り返った。「みなとがわ、わかっているわ。」
さやかの何倍も年を重ねた港川紀之が、敵いませんな、といった顔で笑い、剪定鋏を地面に置く。「かぐや様には、スズランで生け花をするのは、おやめください、といつも言っているのですが……」「あの方は、アイリスも然り、強い香りのものを好まれる。」
さやかが「わたしはスズランの香り、好きよ。」と言って、ふわりとスカートを膨らませて、港川の横にしゃがみ込む。
最近はめっきり笑顔を見せなくなったさやかだったが、この庭師と話している時だけは、
幼かった頃のように笑う姿を見せることが多かった。「今日、学校でね、チューリップの球根を植えたのよ。」
「ええ、さやか様。今が一番適切な時期です。この気候なら、春には綺麗なお花を咲かせることが出来ると思います。」
「みなとがわは、チューリップの栽培が得意だものね。」
「ははは、お褒めの言葉、ありがとうございます。…そうだ、チューリップと言いましたら、さやか様のお庭にぴったりな…、『乙女のドレス』、という品種がございますよ。」
「素敵な名前ね。……でも、あなたにはわたしがどんなイメージで見えているのかしら?」うふふ、とさやかは柔らかく笑い、長いストレートの黒髪を、ぱらぱらと指の間で散らした。
「実際のところ、さやか様は来年のお庭はどうされるんですか?」
港川は、宍戸家も参加する春の恒例行事、各家人がプロデュースする庭の品評会、通称『庭園会』の相談役を、毎年、当然のように務める役割を担っていた。
「さあ、まだはっきりとは決めていないんだけど…」さやかの表情が若干曇る。「あの人は、今度はどんなお庭にするの?」
「そうですね……」港川の顔が悪戯そうに微笑む。
「あの方は、毎度の如く、バビロンの空中庭園みたいな感じですね。」
さやかが、そうでしょうね、とくすくす笑う。
「前回のは、水路に噴水。それと大きな庭石!」さやかが可笑しそうに言うと、港川も「薔薇とアミガサユリの調和?」と続けて、2人してハハハと肩を揺らして笑った。
「まあ、かぐや様のあの感性は唯一無二でございますね。ただやはり、尊敬致します。」
「カオスだけどね?」とさやかが答える。
「ところで、あきら様とは庭園会のことで何か話されましたか?」
「いいえ?」
「…そうですか。……あきら様、次回の会には参加なされないかもしれません。」
「え、知らなかった。そうなの?何故?」
「さあ……。私もそれを知りたかったのですが…。まあ、あのお年頃ですとお花を育てたりすることが恥ずかしいということも、考えられます。」
「まさか。あのお兄様が?」
その後、しばらく気まずいような沈黙が続き、さやかは近くにあった小ぶりのシャベルを掴んで、
ざくざくと土を削っていた。
「ああ、あと、そういえば、さやか様。あのお方、丁度あきら様と同い年くらいの時、なかなか見事な、サンシュユを使った庭を作られていましたね。」
さやかの手が止まる。
「ねえ、みなとがわ。」「はい」
「わたしね、わたしのお庭に欲しいお花があるの。」
「ええ、それはなんでしょう?」
「……ポインセチア。」
港川はさやかの横顔を見て「でも、その花ですと、会の時期には散ってしまいますよ?」と言う。
「いいの。わたしが今、欲しいだけだから。」
港川は少し考えるような顔をして「ポインセチアは、寒さに弱いですから、室内で育てる必要があります」と言って、「あれは元々、熱帯植物ですから。」と付け加えた。
「それと、葉や茎から出る白い液は、毒がありますね。」
「……知ってるわ。皮膚に触れると爛れたりするんでしょ?」
「ええ、気を付けてくださいね。まあ、でもわかりました。早速、温室にあるものから、さやか様用にいくつか見繕っておきますね。」
「ありがとう。」さやかはそう言うと、手の土をワンピースの端で払いながら立ち上がり、「じゃあ、よろしくね。」とだけ言って、庭師の側を離れていった。
さやかは、ゆっくりと植物園を横断し、春は薔薇のアーチになる、青銅色の鉄で編まれた空っぽの門を抜け、
その先にある、どこか一畳台目の茶室に似た、木で出来たごく小さな建物を目指していった。
実際にその建物には、躙り口のように、腰を屈めなければ入れない出入口があり、
さやかはそこの引き戸を開けて、膝をつきながら中に入っていった。
入ると、後ろに回した手だけで、戸を施錠する。
中は自然光だけが差し込む、薄暗い空間になっていて、畳の3/4ほどの大きさの足場の中央に、直径30センチほどの丸い穴が開けてあった。
さやかは、ワンピースが皺にならないように気を付けながら、その穴の側にしゃがみ込み、
備え付けの、和紙で出来たおはながみを、ほっそりとした鼻にあてがって
いきむようにして 鼻をかんだ。
顔を赤くして、二回、三回と鼻をかみ、緩い粘膜に包まれたものを、鼻の穴の先で捻るように摘みとると、
さやかは手の中で少し開き直したおはながみに、口に溜まった唾を少量垂らし入れて、そのまま足元の穴にぽいと投げ捨てた。
さやかは、慣れた手つきで、角に置かれた木箱から、おが屑をシャベルで掬い取り、
足元の穴の中へ2杯ほど流し入れた。
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さやかが、宍戸家の植物園にある、この茶室のような見た目のコンポスターから出ると、少し離れたところで、丁度、港川が
分解済みのおが屑を纏めたものを、ビニール袋から庭に撒いている姿が見えた。
その場所には、皇帝ダリアが咲いていて、垂れさがったべろのようなピンク色の花弁が、青い空を背景にして風に揺れていた。
さやかは、白いワンピースに風をはらませながら振り返り、煽られた髪を片手で抑えて
母屋にある自分の部屋へ帰っていった。
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この部屋は、宍戸邸全体を考えると小さ過ぎる質素な部屋で、その中央で薄明かりに照らされたさやかは、ゴブラン織りの布を敷いたオーク材の椅子の上に腰掛けていた。一人用の丸いテーブルの上には、母が生けた水仙が一輪、挿してある。あの人らしい花。たった10グラムで死に至る毒を持つ、可愛らしい草花。
テーブルの上には、今朝、さやか自身が行ったタロット占いが、まだ出しっ放しになっていた。
そのスプレッドを十字に展開させた10枚のカードの中で、唯一さやかが読み取ることが出来たのは、ワンドクィーンと教皇の赤い薔薇、そして逆位置の隠者の意味だけだった。
細かいレースのカーテンが掛かった、大正硝子の窓の向こうで、茶色くなりかけた芋虫が、
落ち着ける足場を探して、ゆっくりと移動しているのが見える。
さやかは手を伸ばし、窓硝子の裏から芋虫の腹を優しくなぞった。
窓から射し込む光の先には、マホガニー材で出来た黒い棚が静かに輝いている。その観音開きの扉には、今は鍵がかけられていなくて、小さな黄金色のつまみが、ただぶら下がっているだけだった。
さやかは、一瞬考え込むような素振りをみせた後、古い蝶番を軋ませながら、扉を開き、そこに幼少期から大切にしまわれていた、
『販促用に玩具店にのみ配布されたと噂される』、伝説の、非売品のレーヴァテインステッキを取り出した。
「…十字展開。」
そう呟くと、さやかは自分の 胸の前で交差した手の中で、プラスチックのボタンを強く押し込んだ。
……気が付くと、さやかは汗臭いレオタードを体にぴったりと張り付けながら、強い照明を浴びて、離れにあるダンススタジオに立っていた。床には封をしたままのペットボトルが転がっている。
さやかは、自分が今、どこにいるのかを理解し、ゆっくりと片膝をついて屈み込むと、足首に巻かれたトゥシューズのリボンをほどいた。そのまま汗で濡れた臀部を床につけて座り直し、両足のシューズを脱ぎ捨てる。
足の指の間に入っていたベージュ色のパットを取り出すと、それは強く臭っていた。
さやかは、自分のお腹を覗き込むようにして猫背になって膝を抱え、
その割れた背中から、肩甲骨の翼が外に向かって開くのを、静かに、待つことにした。
次回、『ジェネシス・インパクト』
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