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井24 デスゲーム


村田知佳むらた ちかは、不織布のマスクの下で、苦しそうに呼吸をしながら、自分の手にハンカチをギュッと握り締めていた。


知佳の汗ばんだ額が、度の強い、大きくて分厚い眼鏡のレンズを曇らせる。

静まり返った教室に、知佳の踏み締める上履きの音が、きゅっ、きゅっ、と鳴る。手の中にある、汗で湿った自分のハンカチが、(にお)っていないかと気になって、知佳は手を持ち替えて、さりげなく人差し指の(にお)いを嗅いでいた。


その様子を、教室の角にある担任のデスクに戻った東三条ひがしさんじょうがじっと見ている。椅子に座った彼は、デスクの下でゆっくりとスラックスのポケットに手を入れ、音を立てないようにそっと、自身の財布に被さったマジックテープの蓋を、ピリピリと慎重に剥がしていた。そして指の先でゆっくりと、ナイロンの裏地を撫でる。


知佳の足音が近付いてくると、手を後ろにして座った、斉藤水穂さいとう みずほが、拒絶するように、自身の拳をギュッと握る。井上咲愛いのうえ さくらも同じように、拳を握る。

知佳が迫ってくると、クラスメイトの女子の大半は、拒否するように手を閉じていった。


誰に落とせばいいの……?知佳は目に涙が溢れてくるのを感じて、マスクの下で唇を噛んだ。男子に落とすなんて出来ない。だからと言って女子に落とすのも、なんだか怖い。


涙で滲んだ知佳の目に、背をぴんと伸ばして座る、赤城衣埜莉あかぎ いのりの姿が写った。淡い栗色の柔らかそうな髪に、大きな赤いリボンが留めてある。今日の彼女のコーディネートは、黒いブラウスに、ギンガムチェックのブラウンの吊りスカートだった。学校の授業に関しては、何事(なにごと)にも真剣に取り組む姿勢を崩さない衣埜莉は、先生に言われた通り、ピシッと手のひらを上向きにして後ろに出し、

まるで、そういうヨガのポーズがあるのではないかと思うほど、美しい姿勢で座っていた。


知佳は震える手で、衣埜莉の白く細い小さな手に、自分のハンカチを乗せようと、屈みこもうとした。が、気配に気付いた衣埜莉の肩がピクっと動いたので、慌てて知佳は手を後ろに下げた。


……『お便所』は、いや……。わたしがそこに入れられたら、絶対にいじめられる。

今の様子だと衣埜莉ちゃんは、きっとわたしにすぐに気付いて、あっという間にわたしはタッチされてしまう。


知佳が助けを求めるように、東三条先生を振り返ると、先生はさっと机の下から手を出して、何気ない様子で軽くパーマのかかった髪を撫で付け、「さ、早くしなさい」と口を動かした。


助けて……。知佳の目は自然と双葉和歌名ふたば わかなの方へ向いていた。今や知佳の手の中で、彼女のハンカチはじっとりと濡れていて、もうすぐ、円の外周を一周してしまいそうになっていた。


ーーーーーーーーーーーーーー


双葉和歌名は、目を閉じて心臓をどきどきさせながら背中側で手を開いていた。

不自然なこの姿勢を続けていると、肩が痛くなってくる。……手の上に、何かが置かれる感触があればいいのよね。そうしたら、すぐに立ち上がって村田さんに追い付いてタッチする……て、あれ?右回りだったっけ?左回りだっけ?

……まずい、反対側に走ってしまったらアウトな気がする。和歌名は焦り出し、自分の耳に集中して、村田さんの歩く気配を感じ取ろうとした。……『お便所』ってネーミング、なんかやだなあ。きゅっ、きゅっ、きゅっ、あ、足音が近付いてくる。右回り……てことは左から来てる?あれ?右からだっけ?

和歌名は頭の中をぐるぐるとさせて、緊張で体をひきつらせていた。


ーーーーーーーーーーーーーー


知佳は、ふと、和歌名のところに辿り着く手前で、床に広げられた薄茶色い手のひらが目に入って、歩くスピードを遅くしていた。


ずらりと並んだクラスメイト達の裏返された白い(▪▪)手のひらの中に、ぽつんと違和感のある茶色い皮膚。手の甲と手のひらの境目(さかいめ)がまだらになっていて……


……なんか、…すごく不潔。


ああ、そうか。


あそこなら、わたしの汚れたハンカチ(▪▪▪▪▪▪▪▪)とかを、捨ててもいいよね?汚ないから、いっそ男子のハンカチとかも、あそこに捨てちゃえばいいんじゃない?

マスクの下で知佳の呼吸が一層激しくなり、彼女の心臓が、小さな(ねずみ)のように、とくとくとくとくとくとく……と脈をどんどん早くしていた。


知佳は苦しくなってきて、誰も見ていないのをいいことに、先生に背を向けると、半分だけマスクを下にずらして、少し上向いた鼻の穴を外に露出させていた。今まで口呼吸をしていた知佳の、不織布のマスクの裏は水っぽくなっていて、若干口の(にお)いがした。


あなたが『お便所』へ行けばいいのよ。


知佳は、ツインテールに引っ張られて、丁度髪の真ん中に手のひらと同じ肌色の道を作る高嶺真愛たかね まなの後ろに立って、


湿ったハンカチを、彼女の手の中に落とす。…と同時に急いで時計回りに走り出した。


「ひゃ?なに?!」真愛は手に触れた濡れた感触に気付き、目を開けてから、それ(▪▪)を慌てて握り直すと、その場でバッと飛び上がって、

……すたっ、とスカートの中で両足を開きながら着地した。


すでに半分以上距離を開けて、村田さんが走って逃げているのが見えた。


ま~て~~~!真愛は上半身を深く寝かせると、ぷしゅうううと、口から呼気を吐き出し、上履きの爪先を起点に、

後ろに衝撃波を発生させながら、ずばぁーん、と前に飛び出していった。



駆け抜ける真愛の横をクラスメイトの女子達の髪の毛がぶわんと(あお)られる。

な、なに?あの速度は??逃げる知佳は、足をもつれさせながら、必死に、真愛が座っていたスペースを目指して走っていた。

あと、もう少し!あと!もう!すこし!知佳がそこへ到達する目前で、


「あ!!!」


腕をわざと後ろに伸ばした水穂の手につまずいて、知佳はバランスを崩して床に転倒した。薄目を開けた咲愛が水穂に(ナイス!)とジェスチャーを送る。

「だ、大丈夫??」追いついてきた真愛が、上履きを横滑りさせて、ズザザザザ………と倒れた知佳の、体ぎりぎりのところで静止する。


「え?なに?どうなったの?どうなったの?もう、目、開けていいの?!」と和歌名が膝を前に折って、まだ座っているのが見えて、真愛は思わず、ぷっと吹き出してしまった。


…………え。


………この女。わたしを笑った?転んだわたしを嘲笑(あざわら)った?

知佳は、眼鏡を床に飛ばし、黙ってうつ伏せに倒れたまま、教室の床に、痛みとは別な感情を溢れさせて、ぼろぼろと涙を(こぼ)していた。

「あーあ、村田さん、泣いちゃったー」と後ろの方で咲愛がからかうような口調で言う。


慌てて真愛が、知佳のことを助け起こそうとして、手を伸ばし、ふと自分が手に握っているものを見て、

「キャア!!」と、思わず、それ(ハンカチ)を床に投げつけてしまった。

それは* ビチャリ*と、音を立てて、知佳のスカートから覗いた、細いふくらはぎの裏にあたった。

「ご、ごめん!大丈夫?」すぐに真愛は(ひざまず)いて、眼鏡を拾い、知佳の肩に触れようとする。



(ううううぅ、うああぁぁぁぁぁぁぁぁ……)

知佳は悔しさのあまり、肩を震わせて、


じゅるるるるる…………あぁ、あぁ、ああぁ…


………マスクの中に(よだれ)を流してしまっていた。


それは、涙と一緒の水溜まりとなり、クラスメイト達は誰ひとりとして、そのことに気付いてはいない。


真愛の介抱に、あまりに抵抗するので、彼女も困り果てて、和歌名を連れてくる。和歌名は(どうしたの?)と真愛にささやき、

真愛は困ったように、和歌名に眼鏡を渡すと、知佳を指差して「助けてあげて」と言った。


東三条先生も心配そうに近付いてくる。


赤城衣埜莉は、離れたところで(この授業、何の意味があるのかしら)と腕を組んで立っていて、

咲愛と水穂は、このつまらない出来事(▪▪▪▪▪▪▪▪)を、大切な衣埜莉ちゃんの目から隠すようにして間に入って、彼女の視界を塞いでいた。


「村田さん?……大丈夫?」 片膝をついた和歌名が優しく声をかける。最初は反応がなかったが、「村田さん?」と、もう一度声をかけると、「ううっううっ」と唸りながら、知佳は体を起こして、和歌名の腕を掴み、涙でぐちゃぐちゃになった顔をこちらに向けた。


東三条先生が「…村田さん、申し訳ありません。」と言って、

優しく和歌名の手から、眼鏡を受け取って、知佳の顔にかけてやりながら、「保健室にいきましょう?立てますか?」と気遣うように、彼女の肩をそっと支えた。

「皆さんもすみません。……申し訳ないのですが、次の授業までに机を戻しておいていただけませんか」と、東三条先生が言い、丁度、目の前にいる和歌名が「はい、わかりました。」と返事をした。


そこで和歌名は、心配そうに遠巻きにこちらを見ている真愛を見つけ、立ち上がった。

……和歌名の目線の先を、眼鏡をかけ直した知佳も泣きながら目で追う。

和歌名は立ち上がり、一度ちらりと知佳の方を振り返ってから、真愛のところに戻ろうと一歩踏み出した……、その瞬間、


「むおっ?!」


和歌名は床にある、濡れた灰色の布に足を滑らせて、

…前につんのめって、

……手をバタバタさせながら、

………転ぶぎりぎりに体勢を整えようと、

…………変な具合に体を捻って、


「和歌ちゃん?!」と飛び出してきた真愛の上に覆い被さって、がたーん、と机と椅子を散らしながら2人して倒れ込んでいった。


「だ、大丈夫??」クラスメイト達が2人の元に駆け付けると、和歌名と真愛は、「いたたたたた………」と言って、すぐには起き上がってこなかったが、幸い怪我はなさそうに見えた。



………わ、和歌名ちゃん……?知佳は目の前で起こった光景がまだ信じられず、泣くのを忘れて呆然と目の前を見ていた。


……和歌名ちゃんが、わたしのために(▪▪▪▪▪▪▪)、高嶺真愛をやっつけて(▪▪▪▪▪)くれた………。


東三条先生が、大丈夫ですか?と声をかけ、「こっちは大丈夫です。村田さんをお願いいまーす!」という和歌名の声を聞き、知佳の胸の中で、コントロールしきれない感情が、ぐるぐると渦巻いて、汚したマスクを通して空気を何度も吸い込みながら、小刻みに浅い呼吸を繰り返していた。誰も見ていないところで、東三条先生が、さっと灰色の布を回収する。


和歌名ちゃんが。わたしなんかの、ために……。あの、汚ない女に、殴りかかってくれた……。









……わかな、ちゃん。





















わかなちゃん。




















……もう、しらないからね。





























……こんなに、だいすきに、させたのは、





































……あなたのせいなんだからね。

次回、『知佳ちゃんのお部屋』

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