井2 真愛ちゃんの正義
柿本先生に肩を抱かれながら、さやかちゃんが教室を後にすると、
自習を命じられたはずのクラスメイトたちは、一斉に立ち上がって、おのおの興奮しながら話し始めていた。
わたしは、急いで雑巾を掴んでくると、高嶺真愛ちゃんのすぐ隣にしゃがんだ。
そして2人して、教室の床と、汚れてしまったさやかちゃんの椅子を拭き始めた。
「和歌ちゃん、……あんがと。」真愛ちゃんが小さくつぶやく。わたしとしては、自分が最初からこうしなかったことが恥ずかしくて、
…黙ったまま、手を動かしていた。
……ジュース…、乾き始めてべとべとする…。
真愛ちゃんは、わたしと同じことを考えていたのか、「そのまま拭いてて」とだけ言い残すと、
先に1人で雑巾を洗いに教室を出ていった。
………わたしは……、椅子にこぼれたジュースを雑巾に染み込ませながら、さっきのさやかちゃんのことを思い返していた。
……さやかちゃん…、笑っていた?
変な言い方になるけど、『まるでなにかを企んで』、
それがうまくいったみたいに、
……にやっと笑っていた?……本当に、笑っていた?
さかやちゃんがしていた表情を例えると、そう、……あれは悪戯そうな顔。
笑っていることがばれないように、必死でこらえていたような顔。
わたしの見間違い?…そんなことが在るだろうか?……そんなことが……?
わからない。頭が混乱する。
………。
……やはりわたしの方も、雑巾のすべりが悪くなってきたので、さすがにもう洗いに行こうと思って、ゆっくりと立ち上った。
顔を上げると、目の前に、腕を胸の前で組んだ赤城衣埜莉ちゃんが、立っていることに気が付いた。
衣埜莉ちゃんの今日の服装は、いかにも、『お嬢様』といった出で立ちで、普通の子なら、余所行きに着るような紺色のフォーマルなスーツに、グレーのプリーツスカートというコーディネートだった。
今日も、衣埜莉ちゃんのトレードマークとも呼べる、大きな赤いリボンが、栗色がかった髪の後ろで留められている。
「よく素手で触れるわね」
わたしが、反射的に汚れた雑巾を背中側に隠すと
「……それ、水とかじゃないよね。ジュースだよね?」と衣埜莉ちゃんが指をさした。
わたしがまだ何も答えられないでいると、
「あはは、そんなに睨まないでよ。」と衣埜莉ちゃんが笑う。
「まあ、でも意外よね。あの、さやか嬢が、学校にジュースを持ってきているなんてね。」
その瞬間、
衣埜莉ちゃんの後ろに立つ取り巻きの女子たちを、かき分けるようにして、濡らした雑巾を手にした真愛ちゃんが戻ってきて、
わたしと衣埜莉ちゃんの間に立った。
真愛ちゃんは、可愛いブラウンの顔を赤くして怒っていた。「なに、その言い方?…誰だって……!ジュースくらい飲むでしょ!」
衣埜莉ちゃんは、ふん、とした様子で顔を少し上げると、薄目を開けてこちらを見返しながら、こう言った。「でも普通、学校では、飲まないわよね。」
「っ………」……真愛ちゃんが少し怯む。
衣埜莉ちゃんが続けて言う。「それに、だいたい、わたしは、ジュースをこぼしたりしないわ。」
「………」
「…………」
衣埜莉ちゃんは、自分が『ジュースをこぼす』という言葉を、はっきり口に出してしまったことに気付いて、顔を赤らめた。滑らかな髪を、耳の後ろにかきあげる。耳たぶがピンク色に染まっている。
真愛ちゃんは、その隙をつくようにして言葉をたたみかけた。「なにを偉そうに!ジュースなんて……誰でもこぼしたことあるでしょ……!」
それを聞いた、後ろにいる取り巻きの女子の1人が、「え~?それって、赤ちゃんの時か、あって幼稚園の時くらいだよね~?」と、大きな声を出す。
「そうだよね~」と、後ろに立つ彼女らは顔を見合わせて、目配せをした。
「…それとも~?高嶺さんは、おうちでは今でもスタイをして、ジュースを飲んでるのかなぁ?」「ウケる~」
「そんなはずないでしょ!人のこと、そんな風にバカにして…何が楽しいの!」真愛ちゃんは、凄く怒っていた。
「スタイなんて、うちの弟だって卒業してる!!」
……わたしは、ふと、亡くなる前のおばあちゃんが、大人用スタイを、お母さんに交換してもらっている姿を思い出してしまい…、
胸がちょっと苦しくなった。
さっきまでの勢いとは違い、急に黙り込んでしまった衣埜莉ちゃんの顔を、ちらっと見やると、
「なによ?」と慌てたように、こちらを睨み返してきた。
衣埜莉ちゃんは、アニメの女の子がするみたいに、可愛らしい顔を首まで真っ赤にしていた。
「あー、なんか、もう、どーでも良くなってきちゃった。」衣埜莉ちゃんがうーんと天井に向かって伸びをする。
「もう、こんな話、やめよ?」と、そのまま後ろの取り巻きの女子たちに、可憐な笑顔を向け、彼女らを連れて、颯爽と自分の席の方に戻っていってしまった。
「……なにが、『やめよ?』よ。」衣埜莉ちゃんのグループが去ると、真愛ちゃんが、わたしの方を見て言った。
「自分から言い出したくせに!」
「もう、いいよ、真愛ちゃん。……それより、さやかちゃんのこと、心配だね。」
「うん……心配だよね。でもさ、誰にだって、失敗はあるわけだし。」真愛ちゃんが、考え込むように、眉間にしわをよせると、ほっそりとした自分の顎に人差し指をあてがった。
「うーん、…確かに、このことで、いじめられたりしないか心配だね。」
「ね、真愛ちゃん、そうなったら、わたしたちで守ってあげよ?」
(あ…)
またやってしまった。思わずわたしが口走ったのは、その場しのぎの、耳に心地好いだけの言葉……本心とはかけ離れた台詞。
……真っ先に、さやかちゃんを助けに行動した真愛ちゃん。それに対してわたしは……。
どの口が言う。
わたしは、もう、真愛ちゃんの顔をまともに見ることすら出来なかった。
「さっすが、和歌ちゃん!」
真愛ちゃんが、勢い良く、わたしの肩に抱きついてきた。不意をつかれたわたしは、少しよろめいて、思わず、こちらも肩を強く抱き返してしまった。
真愛ちゃんはフウッと温かいため息を吐いて、「…正直、赤城さんたちのグループ、ちょっと苦手なんだよねー。」と、こそっと、わたしの耳元でささやいた。
「……でも、ある意味、男子顔負けの、わか様が睨みをきかせてくれたら…、」真愛ちゃんがわたしの目を覗き込む。
「百人力だよ!」
真愛ちゃんはニッコリと笑い、チャームポイントの八重歯がきらりと白く光った。
「さ、わか様!きれいにしちゃおっか!」
わたしは、促されるままに、座席の脚も含めて、いっさい、べたべたが残らないように水拭きして、仕上げの乾拭きまでを念入りに行った。
……途中、手伝いを申し出る男子もいたが、真愛ちゃんが即「およびでない」と、門前払いにした。
なんなら、さやかちゃんの机に近づいてきた男子のことを、心底軽蔑しているように見えたくらいだった。
…… はあ。
わたしは、何回目かの雑巾をすすぎながら、御手洗いの鏡に映った自分の顔をぼんやりと見ていた。
……男子顔負け、か。
真愛ちゃんには、わたしのことがどう見えているんだろう。
さっきから、あの『わか様』とかいう変な呼び方、気に入ってしまったみたいだし。
……やっぱりわたしって、そんなにも女の子らしくないのかな。もちろん、自分が可愛くないのは、わかっている。
でも……わたしだって、女の子らしいのが嫌いなわけではない。ただ、自分には似合わないと知っているだけ。だからと言って、わたしは男の子じゃない。
きっと。真愛ちゃんみたいな、可愛い女の子には、わたしの気持ちなんて…決してわからないんだろうな。
濡れた雑巾を、ぎゅっと絞ると、冷たくなった指が、骨までじんと痛んだ。
ーーーーーーーーー
………その日、さやかちゃんは教室に戻ってこなかった。
帰りの会で、柿本先生は、普段よりもずっと真面目な顔をして、教壇の前に出てくると、「…誰にでも失敗はあるの。」と話し始めた。
「想像してみて。もし、失敗したのが、自分だったとしたら。」
「どんな気持ちになる?」
「残念なことに、今日のことを、隣のクラスの子たちにも言いふらしてしまった人がいます。」
「それ、自分がされたら、どんな気持ちがしますか?」
……わたしだったら、明日から学校に行けないと思う。……さやかちゃん、本当に、大丈夫かな……。
さやかちゃんの机の中は、柿本先生によって片付けられていて、すでにランドセルもなくなっていた。……体操着に着替えて帰ったのかな?お母さんに迎えにきてもらったのかな……。
「でも、先生!」ひとりの男子が急に大きな声を出して、手を挙げる。
びっくりして少し反応の遅れた柿本先生。指されるよりも前に立ち上がったのは、いつもふざけて、みんなを笑わせるのが得意な男子、早川雄大くんだった。クラスのムードメーカー的な立ち位置にいる子で、一部の女子には結構人気がある。
正直、わたしはちょっと苦手だ。
「でも、先生、」早川くんが言った。「宍戸さんは、ジュースを持ってきてたんですよね?」
「それっていいんですか?」
……一気に教室内がざわつく。
柿本先生は、そういった言葉を予想していたのだろうか、一瞬怯んだようにも見えたが、やがて諦めたように微笑むと、早川くんに顔を向けた。
わたしは、前の方の席に座る真愛ちゃんの様子を見て、少しハラハラしてしまった。
……丁度斜め前に立つ、早川くんに今にも飛びかかって、顔面にパンチでも食らわしそうな、凄い形相をしているのが見えたからだ。
「……先生ね。」柿本先生は、額の前髪をそっとかきあげてから、なにかを優しく言いかけた、その時……。
「ちょっと、早川!」机の上に、バン!と手をついて、真愛ちゃんが、ツインテールを跳ね上げさせながら立ち上がった。
「…あんた、宍戸さんが、どうしてジュースを持ってきてるって思ったのよ!?」
「は?」
「とぼけないで!あんた、どうして、さやかちゃんがジュースを持ってきたとわかったの!」
「な、なに言ってんだよ、おまえ、おまえだって、みんなだって、さっき言ってただろ」
「あんたに、聞いてんのよ!答えなさいよ!」
クラスのみんなも、真愛ちゃんの余りの剣幕に圧されて、黙って成り行きを見守っていた。柿本先生が、またなにかを言いかけようとした瞬間に、偶然、再び真愛ちゃんの言葉が上に重なった。
「こぼれたのを拭いたのは、わたしと、わか…双葉さんなんだからね!」
急に自分の名前が出てきたので、わたしはびっくりして、座ったまま椅子から飛び上がりそうになった。
「そりゃ、誰だって、あのにおいを……」早川くんが口ごもる。
「は?? ……キモ。あんた、女子の水筒のにおい嗅いだの?」「な、嗅ぎたくて嗅いだわけ……」「……キモいんですけど。」
「ちょ、待、なんでそうなるんだ!おい、双葉、お前も、拭いてたなら、わかるだろ?」
……わたしは、答えずに、ただ早川くんを見返すことしかできなかった。「なんだよ~、その顔は?怖いんですけど?おい、見捨てんなよ~」
「……あ、そうだ!赤城、お前らはさっきジュースって言ってたよな~」「だ、だまりなさい、あ、あれは、わたしの勘違い…よ!変なこと言わないで!」衣埜莉ちゃんが、赤いリボンよりも顔を真っ赤にして否定する。
いつしか、教室中に小さな笑いが起きて、少しずつ広がっていく。
しばらく、事の成り行きを見守っていた柿本先生が、胸の前でパンと手を叩いた。「……もう大丈夫そうね。」
「ちょ、ちょっと、なに言ってるんですか先生、俺、ちっとも大丈夫じゃないですよ~!」
「」「」「」
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「…ほっんと、男子って最低だよね。」
肩をいからせながら、 ピンク色のランドセルを左右に揺らす真愛ちゃんが、言う。
紅潮したブラウンのおでこが、汗で微かに光っている。
「わか様が、睨んだときの、早川のあの慌てよう!」真愛ちゃんがクスクスと笑う。
「……うん。」わたしは曖昧にうなずきながら、(明日から、なにもなければいいな。)と漠然と考えていたのだった。
次回、『衣埜莉ちゃんの部屋』