井19 許嫁
「これは……?一体、どういうことですか」
貴賓室に呼ばれた、宍戸あきらは、母親の向かいに座った若い女性が、椅子の足下に水溜まりを作ったまま俯いている様を見て、
思わず大きな声を出していた。
……この人は、さっきの女の人だ。まだ若い快活そうな女性だった。いったい何が……?
「あきら。この方、お茶をお溢しになられたの。お着替えと、帰りのタクシーを手配して差し上げなさい。」
何故、わざわざ中学生の男子である僕にそんなことを、させる? あきらは母親の顔が歪んだ笑みを浮かべて、この若い女性を見下ろしているのを見て、すぐに合点がいった。
大方、この人に辱しめを受けさせようというところか。……なんて女だ。
あきらは、母とは目を合わせず、「立てますか?使用人を呼びますから。…心配しないでください。」と、この若い女性の背中を支えて、部屋の外へ連れ出していった。
「あきら、それが終わったら、後でお話しがあるから、母屋の方で待っていなさい。」
母親の声には答えず、あきらは扉をカチャリと閉じた。
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「さっきの方はどなたですか?」
宍戸邸本宅の、暗い薄明かりの差す広い和室に戻ったあきらは、ポケットに手を入れたまま、母親に尋ねていた。
「ああ、あれ?あれは、さやかのところの担任の先生よ。……ポケットから手を出しなさい。」あきらが茶色いスラックスの脇から手を出すと、母親は言葉を続けた。
「 まあ、多分、元担任になるわね。……あの女はもう駄目だと思うわ。」
「あなたは、一体あの人に何をしたんだ。」
「別に何もしていないわ。」そう言って母は、ラインストーンの並んだ爪のマニュキュアを眺めていた。彼女は今、畳の上に直に置かれた黒檀色のアンティーク椅子に脚を組んで腰掛けていて、細長い台の上に無造作に散らかった、やりかけの生け花の残骸の中に腕を投げ出していた。
古い柱の周りを改装して作られた部屋の一角に、戦前から使用している立派な柱時計が立っている。その重い機械仕掛けの針が、ゆっくりと、この仄暗い部屋に時を刻んでいた。
「それよりも、あきら。あなたを呼んだのはね、とてもいいお知らせがあるからなの。」
「いいお知らせ?」あきらが怪訝そうな顔をして母の目を見つめ返す。
目鼻立ちの整った息子の顔を見て、彼女は満足そうに微笑んだ。
「いいお知らせ。許嫁のことよ。」
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「はあ。まだそんなことを言っているんですか。僕は、さやかの許嫁のこと、全く認めていないですからね。あんな男、さやかには相応しくない。
…あ、それとも、いいお知らせというのは、婚約解消とか、そういうことなんでしょうか?だいたい、家柄だか何だか知らないが、あいつは、年が違い過ぎるじゃないですか。」
母は急に饒舌になった息子のことを眺め、目を細くして眉間にしわを寄せた。
「あなた、さやかのことになると、必死ね」
彼女は、剣山に刺しかけていたアネモネの茎を指で弄び、花鋏を気だるそうに摘まむと、
ちょきん、と薄紫の花の首を切り落とした。
「私が言ってるのは、あなたの許嫁のことよ。」「は?」
「あなた、さっき年が離れ過ぎてるとか、言ってたわよね。今朝、全会一致で決定されたあなたの許嫁、今年、入学したばかりの小学校1年生よ。」「は?」「おめでとう。」彼女は、ふふふと笑って、手に持った花鋏を机の上に放った。
「午後からあの子、ここに来るわよ。初顔合わせになるから、きちんとした服装に着替えておきなさい。」「また勝手なことを……!」
「あなた、最近学校にも行かないでブラブラしているらしいけど、宍戸家の長男が、いつまでもそんな体たらくでは、」「困りますからね。」
最後の母の一言に含まれた裏の意味に、あきらはぞっとして、身を震わせた。
もう、行っていいわ、と手を平たく払うように振った彼女は、
スマートフォンの、ペールピンクのキルティング柄のカバーを開くと、おもむろに次の連絡先をタップしていた。
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30分ほど、生け花を弄っていた宍戸かぐや(さやかの母)は、来客を知らされて、椅子から立ち上がり、花を屑籠にまとめて捨ててしまった。
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「お久し振りです。」
静かに部屋に入ってきた男性は、黒いマスクをした東三条克徳だった。
「早速だけど、多分、来週から、あなたに、さやかのクラスの担任を受け持ってもらうわ。」東三条は、手を前に下ろしながらジャケットの前で組み合わせて「突然ですね。何かあったんですか?」と言った。
「どうもこうもありません。」宍戸かぐやは、スマホの画面に出た通知をちらっと眺めると、パタンとカバーを閉じてから言った。
「何のために、あなたをさやかの側に置いていたと思っているんですか。ピアニストの道を蹴ってまで、あなたは宍戸家の娘に尽くすと誓ったのでしょう?それどころか、
あの若いだけの無能な女教師のおかげで、あなたの未来の妻が大変なことになってしまったじゃないの。」「……申し訳ございません。私がついていながら。大切な娘さんをつらい目に合わせてしまって。」
「さやかは、傷付いているわ。」「はい。」「あの日、帰ってきてから、あの子は一言も発していない…」「…そうなんですね。」
「許嫁であるあなたがあの子を支えないでどうするの。」
「……返す言葉もありません。」
「その指輪、さやかにも常に身に付けるように言いなさい。私の時は鎖をつけて、首から提げたまま肌身離さず持っていたものだわ。」
そう言うとかぐやは懐かしそうに首元をそっと撫で、しばしの間沈黙が続いた。
「 ……さやかさんに会えますか?」
東三条がくぐもったような声で訊く。
かぐやは、ぼんやりとした表情をして顔を上げ、今目の前にいる男が、誰なのかわからない、とでも言うように、目を細めて、東三条の顔を凝視した。
「……そのマスク、どうかしたの?」
「いえ、ちょっとかぶれてしまいまして。…あと一週間もしたら治ります。」
「美しい顔が台無しね。」「そんな……、恐れ入ります。」「冗談よ。」かぐやは、スマホケースを再び開け、しばらく画面に指をスライドさせて、複数の何かを確認し終えると、
「さやかは、離れにいるわ。……会って元気付けてやって。」と、疲れたように椅子に深くもたれ直しながら言った。
東三条が「有難うございます。」と言ってすぐに部屋を出ようとする。するとまた、かぐやが面倒臭そうに体を起こして、言った。
「…わかっているとは思うけど、18になるまでは、あの子はまだあなたのものではないということを、決して忘れないでね。」それだけ言うと、かぐやはまた、深々と椅子の背もたれに体重をかけた。「承知しております。」と東三条は、深々とお辞儀をして、立ち去っていった。
かぐやは、再び胸元を無意識に触り、目を閉じて懐かしい記憶の中に潜っていった……。
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……急にまた冷えてきたな。
東三条は、玉砂利を踏みしめながら、コンクリートの立方体の建物に近付いていく。吐く息が白くなり、そのまま水蒸気になって消えていく。
いったん彼は立ち止まって、建物全体を目に収めて、入り口の場所を探した。
無機質なこの建物は、ぱっと見、入り口も、窓も、どこにも無いように見えて、東三条は周りを一周してみることにした。
「おい」
後ろから声をかけられ、東三条は振り返った。
そこには、紺のダッフルコートを着て、襟を立てた宍戸あきらが立って、こちらを睨んでいた。
「やあ、お久し振り。」と、東三条が言う。
「お前、どこへ行くつもりだ?」と、あきらがぶっきらぼうに言う。
「さやかくんのところですよ。」「ふざけるな、変態ロリコン野郎」
東三条は驚いたような顔をして、「それは心外ですね。私は婚約者の所へ行こうとしているだけですからね?」と柔らかい口調で返した。
あきらは黙って東三条の前に立って、足元の砂利を強く踏んだ。
「…君は何か誤解しているようですね。
……うちはね、代々、呪い師の家系でしてね。今も家族には精神科医や、セラピストが多いんです。」「…何の話だ?」
「私自身は音楽の道で、人の心を癒すお手伝いを出来たらと考えていますが、……こう見えて私、児童心理学の論文を発表したこともあるんですよ。
だから、私なら、今のさやかくんの力になれるかと。」
「妹に……、これ以上近寄るな!」あきらは、前髪の奥で瞳を燃やして、東三条のことを睨み続け、その場から一歩も動こうとはしなかった。
しばらく膠着状態が続き、寒さで手が悴んできた 頃、
あきらが先に口を開いた。
「そのマスク、どうしたんだ?」
「…君には関係ない。」
冷たい外気に鼻を赤くしたあきらは、思案するように俯いて、「僕はお前のこと、これっぽっも信用していないからな。あの人は、なんでお前なんかを……」と呟いた。
立ち放しでいた東三条は、寒さのあまり、体の芯が冷えて縮こまり、乾いた肌の表面で、段々とスラックスの中で靴下がずれ 自分の脛毛を数本、ゴムの内側に巻き込んできてしまったことに気付いていた。
相手には気付かれないように、東三条は
落ち着かなげに僅かに体を揺すった。
内側に巻き込まれた脛毛が突っ張られて、不快な感じがする。何より、ここにいる堂々とした男子中学生の前で、大人である自分が、靴下の内側に脛毛を巻き込んでしまっていることが不安な気持ちにさせる。
……どこかで、早く直したい……。丸まってしまった靴下を修正したい……。
東三条は、大袈裟に肩を竦めて「また出直してきましょう」とだけ言うと、「さやかくんによろしく」と、大股で歩み去っていった。
東三条の姿が見えなくなると、あきらは、緊張していた体の力を抜いて、ふうっと溜め息をついた。……あの男、正直、恐ろしい。東三条には……、自分には無い、大人の落ち着きがあり、才能もあり、家柄も良く、背も高く男らしい……。
実際、さやかはあの男のことをどう思っているのだろう。表面上は、嫌っているように見えるし、事実、宍戸家の古い風習の多くには反対している、と思う。
今回のことだって、さやかには、何か考えがあってこうしている節?がある。言葉を話さなくなったのだって、きっと自ら選び取った選択だ。
……そうに違いない、と言うよりも、せめて、そう思いたい……。
今日もさやかに会いにいこうと、あきらは目の前のコンクリートの建物の扉に手をかけていた、丁度その時。
スマートフォンが震え、手早くそれを取り出すと、画面が柔らかく明滅しているのが目に入った。
あきらはスマホを持っていない方の手を、ポケットに入れたまま、親指で画面をスライドさせ、電波の向こうに返事をした。
「はい」
『あきら様。吉城寺紫園様がご到着されました。』「だれ?」
そう言って、あきらはすぐに、ああ、そうか、と一人で了解していた。
来たのか。……僕の許嫁が。可哀想に。まだ小さいのに。まだ何も知らないだろうに。
……一体うちの家はどうなっているんだ。
あきらは、気乗りしない様子で、貴賓館の方へと向かい始めていた。
……今日はもう、さっきの部屋は、使えないだろうな。あきらは一度だけ、さやかのいる建物を振り返って、諦めたように首を振ると地面に目を向けながら再び歩き出していた。
次回、『吉城寺紫園』
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