井18 柿本聖羅先生の家庭訪問
「いつ、ご結婚なさるんですか?」
柿本聖羅は、職員室の自分のデスクで、昔ながらの青い分厚いファイルからプリントを外しながら言った。
「いやあ、実はですね。まだずっと先なんですよ。」低く落ち着いた声を、心持ち弾ませて、東三条克徳が黒いマスクの位置を上に直しながら答える。
「?」聖羅は、彼の顔を見てその先の言葉を待ったが、東三条はただ笑っているだけだった。
聖羅は、小学校の教師になってからも、まだ女子大生だった頃の華やかさ、溌剌さを残している女性で、
こういった聞きにくい質問でも、がんがんとしてしまうタイプだった。
「え?東三条先生、婚約したのに、まだずっと先って、どういうことですか?」
東三条は、困ったような表情を顔に浮かべて、「聞きたいですか?」と後頭部をかきながら言った。
「聞きたい!聞きたいです!もちろん!」顔の下で、両手をグーにして、聖羅が前のめりに迫ってくる。
東三条は、やれやれと微笑みながら、椅子を回転させて聖羅に向き直った。
「実はですね。」東三条がこそっと囁くように言う。「……いわゆる許嫁ってやつでして。前々から決まってはいたのですが、どうやら向こうの家の方でも、わたし達の縁談に、反対している勢力がいたらしくてですね、それが最近ようやく認められたらしいんですよ。
でも、まだまだ乗り越えなければいけない問題が山積みでして……」東三条がそこで言葉を切ると、
「ロマンチック……!」と、聖羅が目をキラキラさせて呟いた。
「そうですかね?」東三条は照れたように笑い、左手の薬指に嵌められた、銀色の指輪を見つめた。
「見てもいいですか?」聖羅は、少し図々しかな?とも思ったが、好奇心に負けて聞いてしまった。
「ん?ああ、ええ、どうぞどうぞ、いいですよ。」東三条が大きな手を、聖羅のデスクに乗せてひろげた。
……ピアノを弾く男の人の、細く長い指と大きな手。ひろげた指と指の間は、ピアニストらしく普通の人に比べて間隔があって、……やっぱり東三条先生ってカッコいい……。なんか、大人の男性って感じ。
「わあ……」聖羅が思わず溜め息をついたその指輪は、素材はわからないが、シンプルな意匠も何もついていないデザインに見せかけて、よく見ると細かい草花の蔦模様が全体に彫り込まれている高価そうなものだった。
「……すごいですね、これ。」聖羅が頬を赤くして言う。
「まあ、そうでもないかな?」と東三条は他人事のように言い、アハハ冗談ですよ、と笑った。
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「それにしても、柿本先生」
急に先生の声に戻って、東三条が手をしまいながら言う。
「宍戸家に行くんですってね?さやかさんのことで。」東三条はマスクの耳かけを横にずらして、「あの家は気を付けた方がいいですよ、ほんとに。」と言った。
「?」聖羅は一瞬首を傾げたが、すぐに彼女も先生の顔に戻って、東三条先生に聞き返した。
「私も聞いてますが…、宍戸さんの家って地元の名家なんですよね?」
「そうですよ。でも名家どころじゃない。…あれは、そう、華族?貴族?なんだかそんな感じですね。」「うふふ、なんか怖そうですね?」聖羅がまた女子大生の顔に戻って笑う。
東三条先生は、「まあ、気を付けてくださいね。あそこは発言力もあるから、下手な対応をするとクレームになりますよ?」「はい、わかりました!ワタクシ柿本聖羅、肝に銘じて参ります!」おどけてビシッと敬礼をする柿本先生を見て、東三条先生も、「まあ、柿本先生なら大丈夫ですかね、物怖じしない性格ですし、何より、……どこか憎めない。」「なんですかー、それ?」柿本先生が嬉しそうに、東三条先生の肩をぶつまねをして笑う。「だいたい、年上の私を差し置いて、若い柿本先生が担任ですからねえ。私は、所詮副担です…」
東三条先生がそう言って、さも落ち込んだ風に項垂れると、「やめてくださいよー」と柿本先生の明るい声が、職員室に響いた。
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聖羅は、今年買ったベージュ色のチェスターコートを着て、子供達の通学路を歩いていた。
…あれから一度も学校に来ていない宍戸さやかさんのことで、お家の人とお話ししなければいけないね、と生活指導の木村先生から話が出た。その後、校長先生を交えて、誰が宍戸家に行くかの話し合いが持たれたが、結局順当に、担任である私が行くことになった。
宍戸家かあ。聖羅自身は、ここが地元ではなかったので、この地元の名士についてもあまり知らない。が、他の先生の反応を見ても、宍戸家は、この地域では、何か特別な家柄だということが推測できた。
でも、そんなに良い家柄なら、私立の付属に行かないのは何故でしょうか?と教頭先生に聞いたことがある。
詳しく聞いてみると、どうやら宍戸家のご子息、ご令嬢は、小学校までは地元の公立校に通わせる決まり?になっているらしい。……どういうこと?
庶民の人生を体験することで、幅広い視点を得たうえで、本当の意味での上級国民を育成しているとか?
そう言えば、東三条先生のご実家もかなりのお金持ちと聞いたことがあるような。ピアノの国際コンクールにも出てたらしいし、なんで東三条先生みたいな人が、小学校の先生なんかやってるのかしら。
そう考えて聖羅は、自分が小さい頃から、小学校の先生なんかになるのが夢だったことを思い出して、苦笑いしていた。
……まあ、とにかく、子供達に罪はないわ。
さやかちゃんが早くまた、学校に来られるように私達大人がサポートしてあげなきゃね!
聖羅はすたすたと、しっかりとした足取りで道路を渡り、大きな門構えの宍戸邸に到着しても、怯えることなく、堂々とインターホンを押していた。
「約束をしておりました、わたくし、さやかさんの担任をしております、柿本聖羅と申します。」
「どうぞお入り下さい。」
聞こえてきたのは、落ち着いた声でゆっくりと話す女性のものだったが、
聖羅が中に通されると、出迎えてきたのは、中学生くらいの男の子だった。
「はじめまして。えーっとあなたは?」
聖羅はこの少年を見て、その物憂げな態度と整った顔つきに、年甲斐もなくドキッとして、きちんと目を見て話すことが出来ないでいた。
「え?僕ですか?……ああ、失礼しました。僕は宍戸あきら。この家の長男です。」
舞台のセットのように整然とした日本庭園には、庭師の梯子が数本、松の木にたてかけられていて、それが木枯らしに吹かれて、細かく左右に揺れているのが見える。黒い大きな剪定鋏が、どこか寂しげにポツンと放置されていて、広すぎる庭も、何だか寂しい感じで困りものだな、と聖羅は思っていた。
紺のダッフルコートの襟を立てて、宍戸家の長男を名乗ったその男の子は「どうぞ、こちらです。」と言って、母屋から外れた所にある、家の敷地内に更に建てられた白いブロック塀に囲まれた家屋に、聖羅を案内した。
その建物は、紺の瓦屋根で、壁は灰色の漆喰、白いブロック塀の内側にはさらに石垣があり、
聖羅が少年に案内されて建物に入ると、どこかの旅館のような広い玄関には、捻れた幹に似せた、鬼の子が絡み合う様を描いた大きな彫刻が鎮座していた。
「ここで靴を脱いでください」と言われるまで、土足で入ろうとしていた自分に気付いて、
聖羅は顔を赤らめた。
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「じゃ、僕はここで失礼します」 端正な顔立ちを長めの前髪で半分隠した少年は、一瞬、聖羅のことを見て、何か言いたいように、口を開きかけたが、肩で溜め息をついて、首を軽く振って去っていった。
やがて聖羅もさすがに緊張してきて、脱いだコートを腕にかけながら、深呼吸をすると、廊下の突き当たりにある、洋室の扉に手をかけた。
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「………」
「あなたが、さやかの担任の柿本先生ですか?」聖羅が通された洋室は、会食をするスペースのような見た目で、大きく長いテーブルが、部屋の中央を縦断していた。
スリッパに履き替えた聖羅は、気圧されないように、心持ち鼻を上に上げ、背すじを伸ばしてなるべく堂々としてにこやかに微笑んでから、ゴブラン織りの布を張った輸入家具らしい木製の椅子に腰を下ろした。
天井には小さなシャンデリア。テーブルランナーは、赤い着物の帯をリメイクしたもので、金糸の鯉の鱗柄が強いアクセントになっている。聖羅の前には高そうな湯飲みが置かれていて、丁寧に切り分けされた羊羮も出されていた。
テーブルを挟んで、商談のように座っているのは、意外に地味目なスーツを着た女性だった。てっきり、和服に日本髪の女性が出てくると思っていたので、聖羅はある意味ほっとしている自分に気付いた。
女性は抑え目な化粧をしていたが、その意志の強そうな表情のせいで、きつい濃いメイクをほどこしているようにも見える。なるほど、さやかさんのお母さんというだけあって、綺麗な方だ。その女性が、聖羅のことを「柿本先生。」と呼んだ。
事務的な冷たい喋り方に思わず聖羅はお腹の辺りが冷たくなるのを感じた。
「はじめましてっ。今回こちらに伺っ……」「前置きはやめましょう。」ピシャリと女性が聖羅を制する。
「私は、さやかの母親です。こちらも単刀直入に言わせていただきます。……今回のことに関しては、率直に言って…」女性の静かな迫力に聖羅は、気付かれないように、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あなたを許すつもりはありません。」
「え?ちょ?、ちょっと待、あの、その、どういうことでしょうか?」
さやかの母はその言葉を無視して、聖羅の顔を一度も見ずに言葉を続けた。
「あなたは担任として、どう説明するつもりですか?」
せ、説明?て、なにを?
「説明出来ないのですか?では、あなたは一体ここへ何をしにきたと言うのですか?」「す、すみません…」「謝罪は受け付けません」
どうすればいいの?こんな怖い人初めて……
聖羅は涙が出そうになっている自分を必死に我慢して、「あ、あの、さやかさんが、学校に来れていないことについて、今日はお話しできたらと思いま…」
「黙りなさい!!」
聖羅はぎょっとして、言いかけた言葉を呑み込んだ。他人からここまで強い敵対の言葉を受けたことがない聖羅は、呼吸が早くなるのを歯を食い縛って抑え「すみません……」と反射的に答えていた。
「あなた、わかっていないようだから、言わせてもらいますが、」「すみません、いえ、あの…申し訳ございません」「担任のくせに、子供が授業中喉が乾いたのを我慢させたんですか?」「いえ、でも、水筒は、休み時間中にすませるのが」「それで年頃の女の子に、授業中に飲み物をこぼさせた?はあ?あなた何をしたかわかっているの?」「す、すみません。で、でもさやかさんは、学校にジュースを……」「ちょっと、ちょっと、この女は何を言っているの?」さやかの母親が、後ろを振り返った、その視線の先に、防犯カメラのレンズが見えた。「あ、あの、さやかさんのお母さん、この度は、その、不登校は…さやかさんがジュースを持ってきていたということにも…」聖羅の額に汗が流れていた。
「は?この期に及んで、宍戸家の娘を侮辱までしようと言うの??呆れたわ!うちのさやかが、学校にジュースを持ってきたと?言っておきますが、宍戸家は日頃からジュースなどは飲んでおりません!なんて女なの!!」
「あ、あの、も、申し訳ございません、……わ、わたし、そんなつもりでは」
母親は聖羅のことを見ようともしなかった。聖羅は涙を溜めて必死に言葉をつないだ。「わたしはっ、さやかさんに、つまり、また、学校に来てほしい、とだけ……」「はい?」その鋭い言い方に、聖羅の背中が縮こまる。「……」「どの口がそんなことを言うのかしら。全部…、あなたがしたことなのではないの?」「申し訳ございません……!」聖羅は、涙がぽろぽろと自分の頬を伝っていくのを感じていた。
それに気付いたさやかの母は、ようやく聖羅の顔を見て、今初めて彼女に会ったように、急に優しく声をかけた。
「あなた。まだお若いのね。」ぐすりと聖羅が鼻をすする。
「ほら、落ち着いて。ここにあるお茶でも召し上がりなさい。」「い、いえ……」「そうおっしゃらずに。」「い、いえ、お気持ちだけで……。本当に結構で…」
「宍戸家が出したものを、飲めないとでも言うの!!」
「?、!」
「飲みなさい!」「え?あ、あ、あ」
「飲みなさい!」聖羅は泣きながら焼物の湯飲みを手に取り、震える指で口元へと運んでいった。
その時に、さやかの母が言った。
「さやかは失語症になったわ。全部、あなたのせいでね」
聖羅の手から滑らかな手触りの湯飲みがすべり落ち、紺色のタイトスカートの上に落ちた。
聖羅は自分のお腹の下で、生温いものが広がっていくのを感じ、それがストッキングの中の肌と、撥水加工のある表面を伝って流れ落ちていくのがわかった。
やがてぼたぼたと、高級そうな紫の絨毯に、濃い沁みが広がっていく。
「……あなた?え?やめてよね。
はあ……もう、この部屋、絨毯全部張り替えになるわね。あ、でも気にしなくていいわよ。その椅子はもう捨てるから。」さやかの母は軽く首を傾けながら、聖羅の椅子の下を冷ややかな目で覗き込んでいた。
「その椅子のセット気に入ってたのよね…。まあでも、一つだけって訳にもいかないから、これも全部入れ替えになるわね…。」
「あなた、お名前は柿本先生とか言いましたっけ?着替えはこちらでご用意して差し上げます。今、人を呼ぶから、
そのままお待ちなさい。」
さやかの母はそう言うと、立ち上がってもう一度、聖羅の椅子の下を覗き込むと、フンと馬鹿にしたように小さく笑い、スマートフォンを取り出して、誰かに連絡をし始めた。
次回、『許嫁』