井17 知佳ちゃんの秘密
村田知佳は校区内では、一番外れにある、都営団地に住んでいた。
家族は父親、母親との3人で、兄弟はいない。元々村田家は、別な町で窯焼きピザの店を営んでいたが、事業がうまくいかなくなり、3年前に店をたたんでいた。今は父親が運送業、母親がスーパーのパートをして生活を支えている。
知佳は小さい頃から内気な子で、友達らしい友達もいなかった。
引っ越しをする時は、殆ど夜逃げも同然で、娘が友達と別れてつらいのではないか、などを、気にしてあげることが出来なかった。
しかし実際のところ、知佳に仲の良い友達がいたかどうかは、正直微妙なところだった。
引っ越した後も、引っ越す前と変わらず、知佳は学校での出来事を親に話すこともなく、友達を家に連れてくるようなこともなかった。
唯一、学校での出来事を話したのが、ついこの間のこと。クラスメイトの綺麗な女の子が、授業中にジュースをこぼしてしまったとかで、優しい女の子2人が拭いてあげたりしていたんだ、と
どこか嬉しそうに母親に話していた。
夜が近付くと、知佳はより一層無口になる。
知佳は自分の布団は、自分で準備をする。
枕を防水カバーを覆い、その下に涎シートを敷く。このシートと枕カバーはごわごわとしていて、寝心地は決してよくないのだが、長年使っている知佳にとっては、これがすでに当たり前のものになっていた。
念入りに歯磨きをした後の、寝るまでの間は、メリノウール素材のマスクをして過ごす。知佳にとっては、唯一この時間が、自分は清潔な、可愛い女の子なんだと感じさせてくれる、大切な時間だった。
お医者さんに言われた体操も、寝る前に欠かしたことはない。
度の強い、大きな眼鏡をかけた知佳は、鏡の前で、いったんマスクを外した。
知佳の唇は、マスクかぶれでかさかさに乾いた見た目をしている。
知佳は口内で、舌を上顎にあてて、
「あー」「いー」「うー」と声を出した。
終わりにべろを手前に突き出し、それを3セット繰り返す。
いよいよ眠る時間になると、知佳は口のまわりに白色ワセリンを塗り、ジュニア用の紙マスクを付けると、その上からさらにポリエステル素材のベージュ色のマスクカバーを装着した。
最後にきちんと鼻呼吸をする為に、マスクを下にずらした後、眼鏡をはずして、枕元のケースにしまう。夜の水分だって、控えている。
ぼやけた視界の中、知佳は目を閉じた。彼女は部屋を完全に暗くして眠ることが出来ない子だった。その眠る前のわずかな時間、知佳は色々なことを考えることが出来た。
……もしも……わたしが…、……可愛い女の子だったら…。赤城衣埜莉ちゃんみたいに、…お姫様みたいに可愛かったら……。
……もしも、髪がさらさらで…、肌が真っ白で……、お人形さんみたいな顔をしていたら……。
きっとわたしは、こんな風にはならなかったんだろうな……
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ひんやりのした冬の朝の空気が、静かな部屋に光となって、カーテンの隙間から差し込んでくる。小鳥のさえずる声と、お隣の家がつけた暖房の唸る音が、1日が動き始めたことを伝える。
知佳は、いつもの朝のように、口のまわりに乾いた唾の臭いを感じ、夜のうちに出た涎で、べったりと湿った紙マスクが、頬に張り付いているのを感じていた。昨夜は量が多かったのか、顎から少し流れた涎が、枕カバーまで濡らしてしまっている。
知佳は上半身だけ体を起こし、馴れた手つきで、耳にかけたマスクを外し、汚れた内側を巻き込むように四つ折にすると、それを耳ゴムでくるくると縛り、ビニール袋の入った屑籠に捨てた。
……これ以上、体が大きくなって、涎の量が増えるようだったら、大人用紙マスクにしなければいけないわよ。ママがそう言っていた。
知佳は、しばらくパジャマ姿のまま、マスクも付けず、赤く染まった頬を、冬の空気に晒して、お布団の上にぺたんと座っていた。
何も気にしない小さな子供のように、知佳は鼻の下にある肌色の窪みを、出しっ放しにして、そこに部屋の冷たい空気を感じていた。
その幼い顔に反して、知佳の唇の上には、少しだけ薄いひげが生えていた。
…ふと、知佳は、昨日自分のことを身を挺して守ってくれた、和歌名ちゃんの姿を思い出して、パジャマの下で、胸がとくとくと動くのを感じた。
和歌名ちゃんが、わたしを守ってくれた。
和歌名ちゃんが、わたしに大丈夫、と言ってくれた。
和歌名ちゃんの目の前で、恥ずかしいわたしは、マスクの中に、ちょっとだけ涎を出してしまった……
……和歌名ちゃんは、きっとその臭いを嗅いでしまった、かもしれない……。
何かわからない感情が、胸の内に渦巻き、堪らず知佳はお布団の上に顔を伏せ、まだ涎の乾ききっていない、ひんやりとした口のまわりを、冷たい枕に這わせて、自分の唾液の臭いを嗅いだ。
唇を、左右に振りながらシーツに擦り付ける。
うつ伏せになった知佳の唇から、新しい涎が溢れてきて、彼女はそれを枕カバーにそっと垂らした。
「和歌名ちゃん……」
知佳は勇気を出して、実際に口に出して彼女の名前を呼んでみた。
「和歌名ちゃん…」
やがて知佳は四つん這いになり、髪を乱れさせながら、涙を溜めた目をぎゅっと閉じ、舌を出して、汚れた涎カバーを舐め始めていた。
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「………。」
無表情の村田知佳は、何もなかったように、学校へ行く準備を始めていた。
知佳は、パサついた前髪を分け目から左に掻き分けると、平たい髪クリップでそれを挟んで留めた。その後で耳の上の髪をいったんどかして、マスクの付けすぎでかさかさに荒れた小さな耳に、白色ワセリンを擦り込んだ。
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「村田さん、おはよ、ここで何してるの?」
5年生の階の廊下の突き当たりにある、外回りの非常階段へと続く、施錠された扉の横に立っている知佳を偶然見つけて、
和歌名が声をかける。
今日の知佳の服装は、グレーのパーカーと膝上の緑色のスカート。棒のように細い脚には、くるぶしまでの白い靴下と、汚れの少ない綺麗な上履きを履いている。パーカーには、女の子とクマが手を繋いだイラストが印刷されていた。
「その服、可愛いね!」
挨拶にも、褒め言葉にも、返事を返さない知佳に戸惑いながら、和歌名はあやふやに手を動かして、「それ、かわいいね」と彼女の服を再度褒めた。
一瞬怪訝そうな顔をして、知佳は自分の体を見下ろし、ちらっと一度だけ和歌名の顔を見ると、不機嫌そうに?目を伏せて
背の高い和歌名の脇をすり抜けるように、走り去っていってしまった。
……廊下は走っちゃダメなんだよ。
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「あ、和歌ちゃん、いた、いた。こんなとこでなにしてんの?」しばらく経ってから、入れ違いで真愛がやってくる。
「うん?ああ、べつに…。」「ふうん?」
「今日もさやかちゃん、来てないね。」話題を変えて和歌名が言う。「そうだね。心配だね……。」2人は黙り込み、じっと足元を見つめた。
真愛が上履きの爪先で、廊下の表面をきゅっと擦る。「ねえ、和歌ちゃん。」「ん?」「このまま、さやかちゃんがトーキョーコヒになっちゃったら…」「うん」「」
トウコウキョヒね。和歌名が真愛を見て微笑むと、真愛は「ん?」と首を傾げて、ま、いっかと、微笑み返した。
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…かわいいね。かわいいね……かわいい?
和歌名ちゃんが、わたしのことを、かわいいって言った?心臓が早鐘を打ち、目線が定まらず、知佳は、誰かに見られている時と似た不安をお腹に感じながら、
しきりにキョロキョロと辺りを見回していた。
マスクの中で、知佳の口はからからに乾いていて、自分でもわかるくらい、口臭がきつくなっていることに気が付いた。
(かわいい……?)わたしが?このわたしが?……和歌名ちゃんには、わたしがかわいく見えている…? このわたしが?
気が付くと、知佳の手の内側が、しっとりと濡れてきていた。
濡れてしまったことが気持ち悪くて、知佳は御手洗いに走っていった。
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村田知佳は、御手洗いの列に並んでいた。
五つ並んだラバトリーシンクは、1つを除いて全て塞ふさがっていて、知佳は、じっと順番待ちをしていた。
その 一番端にある洗面台は、ひと昔前から変わっていない、蛇口を捻ひねるタイプのもので、大抵の子は、直で触さわるのを嫌って、ここを使わないでいる。
もちろん知佳も、このタイプの洗面台は苦手だった。
知佳に限らず、今の子ならだいたいがそうなのだが、手首を使って蛇口をねじる動作そのものが、うまく出来ないのだ。
今までは、小学校にはこのタイプの御手洗いが残っていることが多かったが、あの感染症の世界的大流行の時、多くのが学校が改修を余儀なくされ、今ではあること自体が珍しくなりつつある洗面台だった。
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手を洗い終えた水穂が、背中側をちらりと振り返って見ると、順番待ちをしている村田知佳の姿が目に入った。隣で手を拭き終わって出ようとする咲愛に、「ね、あれ」と目で合図する。
咲愛も、後ろを見ると(…わかった。)とオーケーサインを出し、のんびりと手を拭き始めた。
知佳が両手をぎゅっと握ったまま、もじもじとしている。水穂と咲愛は、くすくすと肩を丸めて笑い、わざとゆっくりとした動作で、手を拭き続けていた。
咲愛の隣の子が、手を洗い終えて出ていこうとする。ほっとした様子の知佳が、一歩前に踏み出そうとした時に、
咲愛が、今洗面台にいる子に目配せして、後ろを見るように促す。
……ははあん、その子もすぐに了解して、ニヤリとした後、出るのをやめて、改めて手を拭き始めた。
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「今、混んでるから、そこ使えば~?」水穂が満面の笑顔で、知佳を見て言う。
そう言われた知佳はキョロキョロと左右を見渡し、大きな眼鏡を少し曇らせながら、
……5番目の洗面台へ足を踏み出した。
水穂と咲愛が可笑おかしくて仕方がないと
いう風に唇を噛んで笑いを我慢し、チラチラと横目で、この野暮ったいクラスの女子を観察していた。
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知佳は、迷いのある指先で、銀色の蛇口に手を伸ばした。でも、手が濡れているせいで、すべってうまく蛇口を捻ひねることが出来ない。背中を振り返り、知佳は、やっぱり他の洗面台に移ろう
として、一歩後ろへ下がった。
だが、しめし合わせたように、その間に他の洗面台は次の順番の子達が入って、埋まってしまっていた。
助けて……
助けて、……和歌名ちゃん。助けて……。
知佳は祈った。
背中からクラスの女子達の視線を感じ、知佳はもう一度、固い蛇口に湿った手を乗せ、
力一杯、それをぐいっと捻った。
加減を間違えた水が、びしゃあっと勢い良く飛び散って、慌てて蛇口を戻そうとする知佳の、袖とお腹の辺りを濡らしてしまった。
水穂や咲愛は、驚いたような顔をした後、すぐに顔を向かい合わせてアハハハと笑った…。
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「………」「……なんで……?」
……なんで和歌名ちゃんは、わたしを助けに来てくれなかったの?きっと、来てくれると思ったのに。
なんで……?
知佳がふと顔を上げると、廊下の向こうの方で、和歌名と真愛が楽しそうにお喋りしている姿が目に入った。
頬をピンクにして、お腹をかかえた和歌名がケラケラと笑い、肌がブラウンの真愛が、ツインテールをぶんぶんと振り回して、身振り手振り、何かを楽しそうに話している。
あ……、そうか…。
真愛ちゃんとお喋りしていたから、わたしを助けにこられなかったんだ。
なあんだ。そうか。
………。
………。
………真愛ちゃんがいなければ、
きっと和歌名ちゃんは、
わたしを助けに来てくれたはず……。だって、わたしを「かわいい」って言ってくれたから。
……あの、茶色い泥団子みたいな子、何か汚くてやだなあ。これは差別とかではない。ただ、なんか不潔な気がするだけ。
知佳は前髪のクリップを留め直しながら、指で黒い髪を櫛った。ぱさついた髪の間から、半透明の白いレースのような大きめのふけが浮いてきて、毛根付近で絡まったまま横たわる。
知佳は同じ指でマスクの位置を直すと、大きな眼鏡の奥で瞬きを何度か繰り返し、黙って教室へ戻っていった。
次回、『柿本聖羅先生の家庭訪問』