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井15 大ピンチ咲愛ちゃん


「ねえ、見た見た~?」


井上咲愛いのうえ さくらが得意気な顔をして、斉藤水穂さいとう みずほのことを肘でつついた。


水穂が「なに、なにー?」と言いながら、咲愛のわきの下をつつき返して、「やめてよ~」と咲愛が笑う。

「で、なんなの?」「聞いてよ!わたし、見ちゃったんだ。」「なにをよ」


咲愛がショートボブのカールした髪の毛先を人差し指で(はじ)きながら、にやっと笑う。「ちょっと耳貸して」

「……東三条ひがしさんじょう先生、最近マスクしてるじゃん?」「ん?あ、そうだね」「あれね、わたし、見ちゃったんだ。」「え?なに?」「先生がマスク外してるとこ。……めっちゃタラコ唇!」堪らなくなって咲愛がクスクスと体を折って笑う。「なんか、(から)いものでも食べて、唇がこう、腫れちゃった感じ?」咲愛がそう言ってウフフと口を押さえた。

「やめなよ、病気かもしれないじゃん?」そう言う水穂もつられてクスクスと笑っていた。「東三条先生、ちょっとカッコいいって思ってたのになあ。なんかガッカリ。」「アハハハ」咲愛が真面目なキメ顔をして、指で作ったチョキを、自分の唇にあてがって作ったタラコ唇 を見て、水穂が爆笑する。


「何かおかしいことがありましたか?」


突然、後ろから東三条先生の声が聞こえて、2人は飛び上がった。「あ、せんせい?!」「お、おはようございます」「…ございます」


そのまま2人は逃げるように廊下を駆けていった。

「こら~、廊下を走ったら駄目ですよ!」よく()おる大きな声で東三条先生は2人を注意したが、すぐに顔をしかめて、黒いマスクの中央を摘まんで位置を直した。その後は黙って、仲良くクスクス笑いながら走り去る井上咲愛と斉藤水穂の後ろ姿を見送っていた。


生徒達が、体育館の全体朝礼へ向かい、廊下に人気(ひとけ)が無くなった頃、

東三条克徳ひがしさんじょう かつのりは、誰もいない教室に戻ってきていた。

彼はゆっくりと生徒達の座席を見渡すと、一人の女子生徒の机に近付いていった。……歩み寄りながら、大きめのジャケットの前のボタンを無造作に外す。一瞬辺りを伺うような素振りを見せた後に、すっとその場に屈み込むと、女子生徒の机の横に掛けられた手提げ袋から、何か(▪▪)を取り出した。

……それは数えると、たった数秒間の出来事。東三条は、それ(▪▪)を終えると、素早く全てを元の位置に戻して立ち上がっていた。

その後、彼は背すじを伸ばして、ジャケットの前を直しながら、大股の急ぎ足で体育館へと向かっていった。


**********


休み時間。咲愛と水穂が連れ立って、校庭の脇にあるタイヤの遊具に腰掛けながらお喋りをしていた。衣埜莉(彼女達のボス)は、学級委員の仕事で柿本先生の手伝いをしていて、いなかった。


「校長先生の話、長過ぎ。」「ガチでやめてほしいよね。話、つまんないし。」2人は顔を見合わせてクスクスと笑う。

「あー喉渇いた。」咲愛は、そう言うと、持ってきていた水筒のワンタッチの蓋をピョコンと上げて、注ぎ口を自分の口に持っていった。「こぼさないでよ~」水穂が言うと、「笑わせないでよー!」と咲愛が肩で押し返す。


咲愛が口をつけた、その時だった。


「うふ!?」反射的に水筒を口から離して、咲愛はあともう少しで中身を(こぼ)しそうになり、慌てて水が唇からあふれないように受け止めた。……危なかった。


「ちょ、ちょっと、やめてよ咲愛」水穂が咲愛の体を支える。「もしかして笑わせちゃった?ごめんね?」謝る水穂に対して、何も答えない咲愛を見て、「……どうかした?」と心配そうに尋ねる。


「……なんか味が変。」「?」「…うっすいオレンジみたいな味」「え??まさか咲愛ちゃん、ジュース持ってきちゃったの??」


「そんな訳ないじゃん!」咲愛が手をぶんぶんと振って否定する。「わたし、今朝、麦茶を入れてきたよ?……でも、なんか……洗剤みたいなにおい?がする……かな?」


それを聞いた水穂がはっと何かに気付いたような顔をして言う。「もしかしたら、水筒洗ったまま、ちゃんとすすげてなかったんじゃない??」


「え、やばっ、わたし、ちょっと飲んじゃった…。ひょっとして、わ、わたし、……死ぬ?」「だ、大丈夫だよー、飲んだのって少しだけでしょ?味も薄かったんでしょ?」「う、うん、そうだけど…」

青冷めた顔で咲愛が、水穂の二の腕に(すが)る。「……ママがちゃんと洗ってなかったんだ……もう、さいあく…」


************


2人は、こそこそと喋りながら、肩を寄せ合って、校庭の端にある、プレハブで出来た体育倉庫の裏にやってきていた。

「ヤバいから、ここで、捨てちゃうよ」「え?ここで捨てるの?大丈夫かな?……でも、わかった。…わたし、誰か来ないか見ててあげるから、急いで捨ててきちゃいな。」


本当は御手洗いで捨ててしまいたかったのだが、さすがに御手洗いに水筒を持って入ることが(はばか)れた為、咲愛達は、あれこれ迷った挙げ句、ここへ辿り着いていた。

「こっち見ないでよ。」「バカ、わかってるよ、早く捨てちゃいな」


咲愛は、水筒の蓋を根元から捻って(ひら)こうとした。…が、今日の水筒は、やけに固く締められていて、びくともしなかった。

「まだ?早く捨てちゃって」「わかってるよ!」

咲愛は蓋を取るのを(あきら)めて、上蓋の細い注ぎ口だけを(ひら)いた。そして水穂がむこうを向いたことを確かめると、顔を赤くしながら、雑草に埋もれた古い側溝に股がって、

水筒を逆さまにして、下に向かって中身を流し始めた。


乾いたコンクリートの表面に、音を立てながら水が跳ね落ち、しゅううっと静かに沁み込んでいく。


……早く、早く!なかなか全部出終わらない水筒にやきもきして、咲愛は辺りをきょろきょろと見回した。

「まだなの?」「待って!そう()かさないでよ!」「誰か来たらまずいよ」「わかってるって!」「なにぐずぐずしてるの?」「うるさいな!今終わるから!」


********


ようやく全部を出し終えた咲愛は、立ち上がって、スカートのしわを直すと、ビンクのカバーのついた水筒を両手に抱えて走ってきた。

「もー、長過ぎ!誰か来ないかヒヤヒヤしちゃったよ!」「なによ、仕方ないじゃん、なんか蓋が固くてさ……」


2人が校舎の中に戻っていくのを見届けると、教員用駐車場の隅にある死角に立っていた東三条先生が、眉間にしわを寄せて、物陰から現れた。しばらくは、何かを考えるような表情を浮かべていたが、上着のポケットに入った金の懐中時計を確認して、足早に体育館倉庫の方へ向かっていった。


先生は、周囲を2、3度軽く見て、誰も近くにいないことを確認したのち、今度はわざと、何かを探している風に、やや大袈裟にキョロキョロと周りを見回し、さも偶然を(よそお)って、体育倉庫の裏に回り込んでいった。


……すぐにお目当てのものが見つかった。

古い側溝の側の雑草には踏まれた跡が付いていて、東三条先生が上から覗き込むと、中には少し泡だった水溜まりが出来ていて、

ついさっきまで(▪▪▪▪▪▪▪)、この場所で誰がが水を(こぼ)していたということがわかった。


マスクをした東三条先生の目が、嬉しそうに笑う。ジャケットのポケットからスマホを取り出すと、側溝の中を数枚撮影し、まだ沁み込みきっていない水溜まりに素早く小指を這わせると、

もう片方の手でマスクを鼻まで下ろし、濡れた小指の(にお)いを嗅いだ。

東三条先生は、鼻歌を歌いながら、自分も校舎に戻っていった。

……さあ、楽しい音楽の(▪▪▪▪▪▪)時間の(▪▪▪)はじまりだ(▪▪▪▪)


ーーーーーーーーーーーー


「黙ってたら分からないよ?」

うつむいたままで返事をしない井上咲愛を見て、東三条克徳ひがしさんじょう かつのりは、もう一度優しく声をかけた。


「あんなところで、水筒の中身を捨てるなんて…、どうしてそんなことをしたの?」立ったまま、咲愛のことを見下ろしている東三条は、黒いマスクの位置を少し直して、いかにも困ったような顔をして、無言の女子生徒を見つめていた。


「黙っているということは、……井上さんが、ジュースを学校に持ってきていたことを認めた…と思われても仕方がないよ?」

「ど、どうしてそうなるんですか?!」顔を上げた咲愛が目に涙を溜めて言う。

「ようやく、喋ってくれましたね?」東三条の目が優しげに笑う。


咲愛は、3時間目の授業が終わったタイミングで、東三条に声をかけられて音楽室に連れてこられていた。

先生が用意したパイプ椅子に座るように(うなが)され、まず最初に言われたのが、「井上さん、体育倉庫の裏でのことなんだけど…」という一言だった。


その後、何を言われたのか、正直、咲愛はよく覚えていない。ただ、何故か東三条先生は、咲愛があそこで何をしていたかを、知っているようだった。


「あのね、水筒を検査すれば分かるんだよ?嘘をついても、すぐバレてしまうからね?」東三条は、咲愛の横にしゃがんで、ゆっくりと言葉を噛み締めるように言った。

「そんな……」

咲愛は思った。あの水筒には、きっとまだオレンジの薄い香りが残っている…。それを東三条先生に確認されたら……、わたしはギルティ(▪▪▪▪)じゃん。

どうして、バレたんだろう?え?…………え?ひょっとして、水穂ちゃんが言ったの?

まさか…?でも、でも、あのことを知っているのは、わたしと水穂ちゃん以外誰もいない。

でも、なんで?なんで言っちゃったの?誰と誰と誰に言ったの?どうして、わたしだけが先生に呼び出されているの?水穂ちゃんはどこ?ひどいよ、ひどいよ、水穂ちゃん。


「違うんです、先生!」咲愛が大きな声を出す。東三条は意外そうな顔をして、何かを言いかけたが、すぐに腕を組み直して、咲愛の言葉を待った。


「……水筒は、お母さんが洗剤をすすぎきれてなくて……、だから変な味がして、先生!わたしじゃないんです!……水穂ちゃんが!斉藤さんが!わたしに…、わたしに捨てちゃえばって言ったんです!わたしは、あんな所で捨てちゃいけないってわかってました!斉藤さんが、斉藤さんが、捨てろって言ったんです……!」咲愛の頬をぽろぽろと大粒の涙が(こぼ)れて、ピンクグレーのウール風のスカートの上に落ちた。


呆気(あっけ)に取られて、黙ってずっと聞いていた東三条は、ふふふとマスクの中で声を出さずに笑うと、すぐに顔をしかめて、マスクを(わず)かにずらした。

……それでも、目はまだ笑っていた。東三条は、ピアノの上に置かれたメトロノームの針を、指で弾き、カチ…カチ…とそれはゆっくりとリズムを刻み始めた。


「そうなんですね。」東三条は、下を向いて泣いている咲愛の髪の毛をじっと見て、前髪から分け目にかけて露出している生白(なまじろ)い頭皮を観察していた。カチ…チーン、カチ、チーン…カチ…


木で出来た指揮者用の小さな台の側で、加湿器がコポコポと音を立て始める。次にカチッという音がして、その後に続いて甘い香りの蒸気が、シューーーと吹き出してきた。突然メトロノームが止まる。

…… 東三条は、

低く落ち着いた声色で、

囁くように、

咲愛の耳元でこう言った。「…でも、斉藤さんと君は仲の良い友人ではなかったんですか?……どうして、そんなことを?」


「斉藤さんは……、」咲愛がぎゅっと目を(つぶ)って涙を頬に(あふ)れさせ「いつも、ずるいんです…。」と言った。

「ん?どういうことかな?」

咲愛はスカートの上で拳をぎゅっと握った。「なんか…、水穂ちゃんて…、いつも自分だけ赤城さんに気に入られようとして…」

「ん?赤城さんて?ああ、学級委員の?」

「赤城さんに気に入られようと、いつも髪にリボンをつけたりして、」「…そうなんだ」「わかってるんです。いつもふざけて変なことを言って、赤城さんに嫌がられるのは、わたしなんです……、水穂ちゃんだって思ってるくせに、自分だけ気に入られようとして……」「確かにそれは、ちょっと嫌だね。」


咲愛はふと、東三条先生が、ポケットに入れた手を不自然に?もぞもぞと動かしているのが気になって、涙で滲む視線をそこに向けた。


東三条先生は、仕立てのいいグレーのスラックスに付いたポケットから、ステッチの部分の布を少し広げて、何かくすんだカーキ色(▪▪▪▪▪▪▪▪)の物を指に摘まんで半分引き出していた。


……なんだろう?咲愛はぼんやりとそれ(▪▪)を見つめていた。東三条先生の方も、咲愛の視線の先に気付いたが、真剣な表情を崩さず(おはなしをつづけて?)と目で返し、もう少し、それ(▪▪)を摘まみ出した。


「………。」


……それは、ナイロン製のお財布だった。外周には黒の帯状の縫い目が入っていて、マディダスのロゴがちらっと見える。……え?え?


え?え? ……それは、まるで、小学生の男子(▪▪▪▪▪▪)が持つような(▪▪▪▪▪▪)、マジックテープ付きのお財布だった。

咲愛のお父さんが使っている、本革の黒い光沢のある、肉厚のものとは、全然違う(▪▪▪▪)お財布。

東三条先生がポケットから半分出しているのは、安そうなナイロンで出来た小さなお財布だった。その、折り目が縮んで皺になった蓋は、2重に被さったまま内側に向かって巻き込まれていて、表面は、汗染みのように(まだら)になっていた。その廻りでは、黒い帯の縫い目からほつれた糸が、(ねじ)れた見た目で、所々外に飛び出している。


え?東三条先生が?小学生の男子みたいな?ダサい(▪▪▪)マジックテープの小さなお財布を?ポケットから出している?え?どういうこと?咲愛は混乱して、今自分が(▪▪▪▪)泣いていた(▪▪▪▪…)ことさえ(▪▪▪▪)忘れて(▪▪▪)それを見ていた(▪▪▪▪▪▪▪)

……咲愛の目の前で、東三条先生は、子供みたいな、それでいて長年使いふるされたようにも見える、自身のくすんだ色のお財布を、とうとうポケットから全部取り出してしまっていた。それは、先生の腰の前の辺りでストラップに吊るされて、力なくだらんとぶら下がった。先生の左指で婚約指輪がきらりと光る。


先生の黒いマスクが、呼吸に合わせて、鼻のところでピクピクと痙攣している。スラックスの前に垂れ下がったカーキ色の小さなお財布は、マジックテープの蓋を巻き込んだまま、()み込んだ汗の酸っぱい臭いがした。


我に返った咲愛が「きゃーーーー」と大きな声を上げる。


……その後のことは、よく覚えていない…。

ただ、音楽室から出る直前に、先生からスマホの画面で、体育倉庫裏で撮影された画像を見せられて、「このことは、先生と井上さんだけの秘密にしようね?」とだけ言われた。


……秘密?秘密ってなんのことだっけ?心臓だけがドキドキとして、なんだか息が苦しい。秘密?……ああ、そうか。東三条先生のタラコ唇(▪▪▪▪)のことか。

先生、ごめんねー。もう、水穂ちゃんには言っちゃったけど、まあ大丈夫かな。わたしと(▪▪▪▪)水穂ちゃんとは(▪▪▪▪▪▪▪)親友(しんゆう)だからね!


咲愛は鼻の奥に残った甘い香りに首をかしげながら、廊下を走って戻っていった。



今日も1日、宍戸ししどさやかは、学校に来なかった。

次回、『知佳ちゃんという子』

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