井14 真愛ちゃんの悩み
日曜日の冬の朝。
今年は異常気象のせいで、ここしばらく暖かい日々が続いていたが、
今朝、双葉和歌名が目を覚ますと、部屋には一気に冬がやってきたような寒さが忍び込んでいた。和歌名はぶるっと身を震わすと、改めてベッドに潜り込んでいた。
……この一週間は、色々あった。
……月曜日からは、さやかちゃんは来てくれるかな…。今思えばあの時、さやかちゃんが笑っているように見えたのは、わたしの気のせいだったのだろう。
あれだけ感情を爆発させて泣いてしまっていたのだから、あの瞬間は放心状態で、きっとさやかちゃんだって、混乱していたに違いないんだ…。
あの日、咄嗟にさやかちゃんを助けてあげようとしたのは、真愛ちゃんだけだった。この前、さやかちゃんのおうちに行った時、真愛ちゃんが来てることを伝えてもらった方が、よかったのかな?
そうすれば、さやかちゃんは、わたし達に会ってくれたかもしれない。会ってお話が出来たら、わたし達がさやかちゃんの味方だってことを、教えてあげられるのにな。
……でも、もしかしたら、さやかちゃんは、あの時わたしが『汚い』と思って、机を引いたことに気付いていたのかもしれない。
……。
………。
……わたしって……、やっぱり最低だ……。
プリントを持っていったあの日、さやかちゃんはきっと、わたしが来ていたことに気付いたから、顔を見せたくなかったんだ。そうだよね、わたしなんかに会いたくないよね。それなら、真愛ちゃんだけの方がよかった。わたしは余計だったんだ……。
ベッドの中の温かい毛布にくるまって、和歌名はずっとそんなことを考えていたが、やがて起き上がり、自分のくせっ毛の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
和歌名はそのまま、うーんと伸びをして、腕を背中側に回してストレッチをすると、パジャマ代わりにしているバーカーのフードを頭に被り、すくっと立ち上がった。
目を軽くこすり、あくびをする。くよくよしていても仕方がない。
部屋を出てすぐ脇にある階段を降りていくと、ダイニングでは、テレビの人間が喋る音と、ヤカンのお湯が沸騰している音がした。
和歌名は、はだしの足の裏に廊下の冷たさを感じながら、お風呂場のすぐ横にある扉を開けて中に入っていった。
……。……さむい。ひんやりとした御手洗いの薄明かりの中で、和歌名は、ロール状になったおはな紙をからからと回して手の周りに巻き取ると、蓋の折り返しを使ってそれを千切り取った。
元々、和歌名は毎朝の鼻のとおりがいい方で、鼻詰まりになったことは、あまりない。慣れた手つきで、和歌名は自分の鼻を柔らかい白い紙で覆うと、あまり大きな音が出ないように、ふんっといきんで、紙の中に柔らかいものを出した。
その後は2、3回、鼻の穴を片方ずつ押さえて、息を止めながら喉の方から鼻にかけて力を込め、出てきた緩く滑る感触を紙の中に掬い取るようにして包み込んだ。和歌名は最後にちらっと包み紙を開いて、ちゃんと綺麗に拭い取れたかどうかを確認して、ポイと水の中へそれを捨てた。
和歌名は、鼻洗浄器が苦手だった。その方がいいと言う人が多いのは知っている。でも何となく水がかかるのが怖くて、自分の家の鼻洗浄ですら試したことがなかった。
レバーを引き、水を流す。……。
……今日は真愛ちゃんと遊ぶ約束をしている。と、言うより、今日もと言った方が早いのかもしれない。5年生で同じクラスになってから、わたしと真愛ちゃんは、ほぼ毎日のように遊んでいた。こんなに沢山遊んだのは、幼稚園の頃以来かな?
あの頃のわたしは、引っ越してきたばかりで友達がいなかったから、いつもついてきて色々ちょっかい(笑)を出してきてくれた真愛ちゃんの存在が嬉しかった。あの頃から真愛ちゃんは可愛かったな……。
*********
朝食を食べ終わってから、20分くらいした頃、玄関のチャイムが鳴り、高嶺真愛がやってきた。
開口一番に言ったのは、「早くスマホ欲しいね」だった。
「わたしもだよ。でも、うちは6年生になってからだって。」和歌名が答えると、「うちも~。あーあ、早くスマホ持って、和歌ちゃんと一杯お喋りしたいなー」と真愛が言った。
真愛が和歌名の親に挨拶をし、そのまま2人は二階の子供部屋へ上がっていった。
部屋に入ると、和歌名は真愛が着ていた緑色のダウンジャケットを受け取り、壁のフックに掛けた。
いつも思うが、真愛の服やバッグが置かれだけで、部屋が一気に女の子らしくなる。勿論、本人がいればなおのこと、だけど。
「なにする?」と和歌名は勉強机の椅子を斜めに傾けてバランスを取って座りながら言った。昨日は、まだ暖かったこともあり、和歌名達は近くの児童館で無料貸出の一輪車に乗って遊んだのだった。
真愛ちゃんは一輪車に乗るのが大好きだ。わたしも好き。手を繋いで走ったり、競争したり、2人で乗ることも楽しいが、一輪車って乗って走っていると、不思議に自分だけにスポットライトが当たっているような、何か心地好い感覚がする。なんだろう、女の子って、バランスを取る遊びが好きなのかな?わたしだって女の子だから一輪車くらい乗れるし、乗るのも楽しい。
……でも、まあ、真愛ちゃんほどではないかな。真愛ちゃんに一輪車を与えると、丸1日、夕方近くまで平気で遊んでいる。
「今日も一輪車で遊ぶ?」わたしが聞くと、珍しく真愛ちゃんは首を横に振って「今日はいいかな」と答えた。
「ん?どうかした?」少し心配になって和歌名が尋ねる。
真愛ちゃんは、ツインテールを前に下げてしばらくうつむきながら、襟についた黄色いリボンを指でくるくる弄っていた。やがて顔を上げると、
きわめて明るい声でこう言った。
「わたしさ、昨日から鼻づまりなんだよねえ」
「あ、そうなんだ?」和歌名も軽く答える。
「鼻をあっためるといいとか、わきを圧したりするといいって聞くよね。」「ふうん、そうなんだ。和歌ちゃん詳しいね?和歌ちゃんも鼻づまりがちだったりする?」
早速わきの下に手を入れて揉みながら真愛が言う。
「わたしはそうでもないけど。」和歌名が人差し指の爪で頬をかいて言う。
「なんか、こう、結構たまってる感じするんだよねえ」真愛が自分の鼻の上の方をつまみながらつぶやいた。「あんまり続くとお肌にも悪いらしいしね、あーあ、ユウウツ…」
「ちょっと待ってて」和歌名はそう言うと下の階に降りて、母親に作ってもらった蒸しタオルを持って、すぐに戻ってきた。
「どうぞ。」蒸しタオルを受け取った真愛は、「あ“~、しみる~」と言いながら、天井を見上げて顔全体にタオルをかけた。和歌名は、片手をついて床に座っている真愛の背後に回り込み、体を挟むようにして腰を下ろすと、彼女のわきの下に手を入れた。
「ひゃっ!」真愛が悲鳴を上げる。和歌名は「じっとしてて」と言うと、ぎゅうっと真愛の肋骨と二の腕の間を、上に向かって押し上げた。「んは!?」真愛が変な声を出して体を硬直させる。「ほら、もっとリラックスして!」「ちょ、ちょっと、わ、和歌ちゃん!?」
真愛は自分がわきの下に、汗をかいてきたことに気付いて、慌てて和歌名から体を引き剥がした。「もう!じっとしてて、って言ったでしょ!」和歌名がふざけて、ぷんぷんと胸の前で腕を組んで、真愛のことを睨む。真愛は「わ、わ、和歌ちゃん!わたしをコロス気?」と言って冷めたタオルでピシッと和歌名の肩を軽くぶった。
「あ?!あれ、わ、わたし、なんか、さっそくちょっと…」と真愛が視線をさ迷わせながら言う。「…お、御手洗い借りていい…?」
「いいよー」と、和歌名が楽しそうに笑い、いってらっしゃい、と手を振る。真愛はブラウンの肌の内側をピンク色に染めて、足早に階段を下っていった。
**********
真愛が、双葉家の御手洗いに入るのはこれが初めてではなかった。と、言うよりも……どちらかと言うと使い慣れているといった方が正しい。
真愛は扉の鍵を閉めた。それでも他人の家の芳香剤の香りって、なんか…落ち着かない。使っているおはな紙の種類も違う。真愛は詰まった鼻の奥を少しふんっとさせて、先にカバーシートの蓋を開けた。あ……。
……中に溜まった洗浄水の中に、ふやけて四散したおはな紙が漂っているのが見えた。多分?だけども、流れきっていなかったのかな……。前に使った人って……、
ひょっとして、和歌ちゃん?
…でも違うかもしれない。家族の人かも。そう思いながらも、真愛は思わずそのまま洗浄水の中を観察してしまった。
……汚い、と思った。崩れた紙がもやのように、水を濁らせていて、よく見ると所々黄色や緑色の破片が漂っているのが目に入ったところで、真愛は慌てて目を反らした。
真愛は、壁に備え付けられたおはな紙を、音を立てないように静かに手に巻き取って、ゆっくりとそれで自分の鼻を包み込んだ。
水を流して音を消さないと、双葉家の人達に、真愛の鼻をかむ音が聞こえてしまう。
真愛はレバーを引いて水を流した。
洗浄水の中で渦を巻きながら、汚れたものが吸い込まれていく。
おはな紙を指に一緒に巻き込みつつ、真愛は慎重に自分の鼻の穴を探っていた。奥の方はまだ詰まっている感じがしたので、確かめるように周辺をつついてみる。
元々、真愛は鼻をかむのがあまり上手ではなかった。だから小さい頃から、どちらかと言うと、鼻をほじるようにして、中を取り除くやり方をしていたのだ。
どうせ、誰かに見られるようなことではない。真愛は、やはり思い直して、おはな紙をもう片方の手に移すと、左手の人差し指と小指を器用に交互に使って、直接、鼻の穴に指を差し込んだ。中で指を動かすと奥の方で固まりがあるのがわかる。それを掻き取るようにして引っ張り出すと、鼻腔の一番奥からつながった、ねばついたものが糸を引いて引き摺り出されてきた。喉の手前から鼻までを、つんとした冷たい感覚が突き抜けることに耐えながら、途切れないように、それを慎重に全部抜き取った。
涙目になった真愛は、自分の指からだらんと垂れ下がった、べとべとしなものを確認すると、それを左手に乗せた紙に、丁寧に擦りつけた。
……*出た*
水を流すと、真愛はほっとして頬を赤らめた。
「でたよーーー!」部屋に帰るなり、真愛は元気良く成果を報告し、スカートの脚を開きながら胡座をかいて、絨毯の上にすとんと座った。
真愛が(ニカ~)と顔を綻ばせながら笑った。お約束の八重歯がきらりと光る。「和歌ちゃんのおかげ!あんがと」
つられて和歌名も笑う。「じゃ、これから何して遊ぶ?」
「う~ん、今日も児童館かなあ?」「一輪車?」「うーんと、……今日は………トランポリンかな!」「いいね!じゃ、いこ」
「いってきまーす!」2人は並んで道を駆け出していた。児童館までの距離は5分ほど。宍戸邸とは、反対側の通りを渡り、新しい老人ホームと、5階建てのマンションを過ぎると、児童館はすぐに見えてくる。最近、舗装し直されたばかりの道路と、逆にまだでこぼこのままのアスファルトの道を通過して、マンションの横にある高い目隠し用の生け垣に、走りながら指を滑らせて、
2人はくすくすと笑い合いながら走っていった。
「とうちゃーく!」真愛が、勝った!と手を上げて大喜びして跳ねる。和歌名は大袈裟に息を切らした振りをして、膝に手を置いてはあはあと肩を揺らした後に、アハハと笑ってから、この~っと真愛に掴みかかった。寒さは感じなかった。元々、2人ともコート類は置いてきていたが、それでもまだ暑いくらいだった。
真愛は幸せそうに、ふざけて和歌名にもたれかかり、和歌名はそんな友達の顔を見つめて、……ほんとにいい子だな、と思って微笑み返していた。
次回、『大ピンチ咲愛ちゃん』