井12 ジェネシス・ウェーブ
御手洗いから出てきた赤城衣埜莉は、そのまま真っ直ぐに2階のロリータショップへ向かっていた。
彼女の後ろをついてくるキャリーカートも慌てているのか、衣埜莉のブラウンのローファーの踵にぶつかってくる。
ショップの前に到着すると、さっきの女性店員が、顔を上げた。衣埜莉は唇を噛んで、しばらくの間、通路の床に反射する天井照明の鈍い輝きを凝視していたが、
拳を強く握ると、意を決したように正面を見据えて、店内の方へ進み出てきた。店員は、最初少し驚いたような顔をしたが、すぐにこの少女のことを、興味深そうに、頭から爪先まで眺め始めた。
「あ、あの。」…あら、意外としっかりとした優等生の喋り方ね。でも顔を赤くして、栗色の髪をかきあげる仕草はどことなく大人っぽくも見える。
「すみません。今、そこに飾ってある服なんですが、」…学級会の司会でもしていそうな感じの子ね。
「こ、子供サイズはあるんでしょうか?」そう言うと少女はさらに顔を真っ赤にして涙目になった。か、かわいすぎるでしょ……。
「ごめんなさいね。」この少女に対しては、子供として接することに決めた女性店員は、「ごめんなさいね。これには子供サイズはないの。」と微笑みながら言った。「ロリータファッションはね、大人が着るものなの。」「え?」
…そう、ロリヰタはお嬢様やお姫様に憧れた、かつての女の子達が、過ぎ去った夢を叶えるファッションなの……て、それは言い過ぎか。まあ、とにかくね、あなたのような『リアルロリータ』がロリータを着たら供給過多で、私なんかは、もう死ぬわ。
「でも、でも!試着だけでも……、出来ませんか?」ああ、なにこの生き物、かわいすぎる……。
「うちはね、購入前提でしか試着できないの。」「そんな…」
まあ、それはそうとあなた、あなたの今の格好、結構エレガントでクラロリって感じですけどね。まあ、きっと甘ロリがいいのね。
「ごめんね。もうちょっと大人になってから来てね。」膝を折って目線を合わせてきた女性店員の、大きな胸元が衣埜莉の目の前で揺れた。
……どうして?わたしじゃ子供過ぎるってこと?こんなにお人形さんみたいに可愛い服を着るのに、もっと大人にならないといけないって、どういうことなの?
ふと、水穂ちゃんと咲愛ちゃんが家に来た時の光景が頭をかする。
「…まあ、子供っぽすぎるのは問題だけどね」
咲愛ちゃんが、曲げた人差し指を唇にあてがって、クスッと笑う顔を思い出すと、急に怖くなる。
…もう、わたしのハンカチには名前は書かれてはいない。子供じゃない。どこかのお嬢様みたいに、1人でまともにジュースも飲めないのとは違う。わたしは子供じゃない…て、あれ?わたしって、ばばくさいんじゃなかったっけ??
ショップの女性店員が見かねたように声をかけてきた。「ねえ、あなた。普通に子供服を探したらいいんじゃない?多分、普通に可愛いの、あると思うよ。mimiハウスとか?」
ミ、ミ、ハウス?あ、赤ちゃん向けでは?
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衣埜莉は、迷った挙げ句、子供服専門店mimiハウスが入っている階へ移動していた。このショップは、フロアの半分ほどの面積を占めていて、なるほど、見てみると、確かに赤ちゃん服から大きめの子供服まで、品揃えは豊富にあるようだった。フロアの奥へ進んでいくと、『発表会、セレブレイション』と垂れ幕のかかったコーナーが見えてきて、衣埜莉は再び息を呑んでいた。
所狭しと並べられた小さなマネキン達に、フワフワの可愛らしいドレスが着せられて並んでいる。
ピンク、水色、ペールホワイト、ベージュのジャンパースカートやワンピース。どれも細かいリボンが重ねてあったり、花柄がついていたり、趣向を凝らしたデザインで、さっきのショップよりもいい生地が使われているのが遠目にもわかる。
ローズガーデン。ゴブラン織り。チュールレース。ブーケ。ボンネット。 袖を絞ったフリルブラウス 。ヨーク襟……。パニエで膨らませたスカートが、小さなパラシュートのように開いて、フワフワと天空から舞い降りてきた天使達。……やがて衣埜莉も地上に舞い降りてきて、床に敷かれたペールブラウンの絨毯の上に静かに着地した。
衣埜莉が、棚に順番に掛けられた可愛いリアルロリータ服を物色していると、白髪を柔らかい紫色に染めた初老の?女性ショップ店員が、声をかけてきた。「あら、かわいいお嬢さん?なにかお探しかしら?」
衣埜莉は顔を赤くして彼女を振り返った。…わたしの頬、もう二度と白く戻らないかもしれない……。なんかまた御手洗いに行きたくなってきちゃった。気のせい、気のせい。
そう何度も手を洗っていたら、ハンカチがもう吸わなくなっちゃうじゃない。実際、衣埜莉のハンカチは湿り気を帯びていて、スカートのポケットを通して内側から太ももに張り付き、ひんやりとしていて少し気持ちが悪かった。
「このお店にはあなたのサイズはなさそうよ?」「え」「うん、うちのお店はね、120サイズまでなの。」「それって…」「うん、小学校3年生くらいまでかしらね。」
衣埜莉は、自分の姿を近くの鏡に映しながら考えていた。…わたしは痩せているし、着れるんじゃないかしら……。
衣埜莉には、さっきからどうしても気になっている服があった。
それは、一体のマネキン少女が着ていたもので、衣埜莉にはその少女だけが輝いて見え、周りに立つその他大勢のマネキン達が、彼女に対して花道を開き、衣埜莉を迎え入れているように見えた。
*********
少女の薄ピンク色のワンピースは、まるで幾重ものフリルの輪の罠に捕らわれて、魂の脱け殻になったお姫様のようだ。小さなリボンの蝶々達が肩や裾にとまって、静かに羽を休めている。
肩の上から羽織った白いボレロは、幼い少女が口をつけて溶けてしまった綿菓子のよう。甘くベージュ色の唾をつけて、飴細工の琥珀の中に、蝶々達は永遠に閉じ込められてしまう。
膨らんだ袖の先は、結んだリボンの大切なプレゼント。今か今かと、この少女にほどかれるのを待っている。ワンピースから覗いた白いパニエのひだは、さながら海に沈んだアコヤ貝の口のよう。真珠の淡い光沢、その一つ一つがボレロの前に付いたボタンに変化してきらめいている。
リボンクロス柄の白いストッキングは、少女の細い脚を縛る魔法の蜘蛛の巣。気をつけて!リボンの蝶々を捕らえようと、蜘蛛の毒牙が待ち構えているわ。
そして、ワンピースの背中に付いた大きなリボン。これは、この魂のない少女にくっついた機械仕掛けのゼンマイなのだ。わたしがそれを回すことで、初めてこの少女は命を吹き込まれて動き出す。
最後に、何よりも衣埜莉の心を掴んだのは、このマネキンの子の服が、あの神話世界のアイドル、ユグドラジェネシスの神衣とそっくりに見えたせいだった。
世界を創世する者よ…、わたしを生け贄に。
「…あの、これ、妹へのお誕生日プレゼントにしようと思うんです。」「あら、素敵ね。でも、これ結構高いわよ?大丈夫?お母さんはどこにいるの?」薄紫色の髪の女性店員が辺りをきょろきょろと見回す。
「いえ、今日は母はいません。わたしだけで買いにきました。」「そうなの?」「はい。お年玉からずっと貯めていたので、お金はあります。」「ふうん、妹さんのサイズは本当にこれで大丈夫?」「はい。妹は丁度120センチです。」店員の質問に淀みなく嘘で答える衣埜莉は、段々と口の中が渇いてきて、自分の声が耳の中で遠くに聞こえた。女性店員の方はそれに気付いていないようだった。
「セットで…18200円。はい、確かに丁度いただきました。妹さん、喜んでくれるといいわね。」衣埜莉は指が震えるのを必死に抑えながら、mimiハウスの赤い紙袋を受け取った。中には追加で購入したハンカチが7枚も入っていた。
「ありがとうございました!また来てね。可愛いお嬢ちゃん。」女性店員がにっこりと笑う。
紙袋をキャリーケースに入れた衣埜莉は、踵を返してレジから離れていった。
通路を歩く衣埜莉の足が、一歩踏み出すごとにどんどんと早くなる。
真剣な顔をしてさっきの美少女が、足早に店の前を通り過ぎていくのを見て、ロリータショップの女性店員がやっほー、と手を振る。
衣埜莉はほとんど走るようなスピードで、ショッピングモールの出口に向かっていた。キャリーケースの中には、ジェネシスのステッキと、神衣に似た可愛いロリータ服が入っている。幸せすぎて、なんだかお腹が気持ち悪かった。家に帰るまで待ちきれない。それに、だいたい家に帰ったらママがいるから、今日買ったものを試すことが難しい。早く試したい……、どこかに、誰にも見られず、これを着てみれる場所はなかったかな?
「………。」
あれ?
今わたし、誰にも見られずって言った?誰にも?それって……わたしの可愛い姿を、誰にも、てこと?本当に?誰にも?誰にも見せたくないの?見せなくていいの?
水穂ちゃんや、咲愛ちゃんは、わたしの可愛い姿を見たらなんて言うだろう?そう、きっと2人して、じゃれ合いながら「かわい~~~」とか言ってくれるんじゃないかな?「衣埜莉ちゃん、これだよ!これ!わたし達が言ってたのは!」「超絶かわいい~!」「お姫様みたい!」「ヤバ、めっちゃかわいいよ」「衣埜莉ちゃん、色が白いから、ピンクがめちゃめちゃ似合うよ」「あ、そういえばさ、」「なに?」「ほら、昔やってたアニメ、永久のディーヴァ」「あ、知ってる、なつい~」「衣埜莉ちゃんて、ちょっと、ユグドラジェネシスっぽいよね!」「あ、マジそれわかる!ぽいよね!」
「そ、そうかしら…?」
一瞬、衣埜莉の目の前で、眩い光が炸裂した。
「愛のために、世界を生け贄に!」キラーン
「聞きなさい。わたしは世界を創世する!」ビシッ
「行くよ!運命転換…メタモルフェーーーイトっ!」キュピーン…………
内側から鍵をかけた、駅構内にあるみんなの御手洗いの中心で、
レーヴァテインステッキを抱いて 、世界を統べる歌姫が、この地上に降臨した。
しかし、このピンクのワンピースの肩幅は、衣埜莉の体にはきつすぎて、胸回りもパンパンで、今にも前がはち切れそうに見えた。
…肋骨が締め付けられて呼吸が苦しい。今の衣埜莉は、アニメの中でしかあり得ないような、短かいスカートを履いて、裾からのパニエも隠し切ることが出来ないまま、広い御手洗いの中央に佇んでいた。
衣埜莉は、ステッキを持った手を合わせると、頭の上に高く掲げて
「ヴィゾーヴニルの羽根よ!」
と小さな声で言う。と同時に、両手の親指でプラスチックのボタンを押し込んだ。カシャリとステッキの側面から2枚の固い羽が飛び出してきて、電子音が鳴る。衣埜莉はもっと頭上に腕を伸ばし、脚を肩幅に開いたまま背伸びをして、天を仰ぎ見た。
「…十字展開…!!」
その言葉と共に、壁の遠い、この広めの御手洗いの個室が、一気に学校の教室へと様変わりする。
*********
水穂ちゃん、咲愛ちゃんを始めとする、クラスメイト達が、黒板の前に立つ衣埜莉の姿に注目していた。あの日、ハンカチがなかった日と同じ緊張感が、衣埜莉の呼吸を浅くさせ、動悸を激しくさせる。その不思議で切ないような?感覚が、もどかしいような、満たされないような、届きそうで届かない憧れに似た気持ちを思い起こさせる。
これはきっと不安定な呼吸数と心拍数が、衣埜莉の脳を騙して、まるで何かに焦がれて恋をしているみたいな感情と勘違いさせているだけなのだ。
だが今の衣埜莉には、その区別を明確につけることが出来なかった。
「衣埜莉ちゃん!?」「衣埜莉ちゃん!?」水穂と咲愛が大きな声で叫ぶ「え?……衣埜莉ちゃん?え!うそ?…………?キャーー!」これはアイドルへの歓声?いえ、違う…これは……?
「いのりちゃん₢∉₪₩!?」…なに?
「いやあ…………!」と叫んだ咲愛ちゃんが指差したその先で、ステッキを頭上に掲げた衣埜莉が、目線だけを下に落とすと、丈が短すぎて捲り上がってしまった自分のスカートからドロワーズ全体が露出しているのが見えた。
そしてそのウエストのゴムに添って見えたのは、痩せた体には不釣り合いに思える
丸く飛び出した白いお腹……。
その真ん中で、
…まだうぶ毛すら生えていない、衣埜莉の薔薇の蕾のように小さなおへそが丸出しになっていた。
「キャーーー!!!」教室中から悲鳴が上がり、あちこちで生徒達が一斉に騒ぎ出す。男子も、女子も、皆の騒ぎを見ても尚、このポーズを変えようとしない学級委員を見て、パニックになる。
再び何か白いものが、目の前で弾け飛ぶ。
我に返った衣埜莉は、みんなの御手洗いの、大きめの鏡に映し出された、女児の服を無理矢理着て、肩で息をしている自分の姿を見つけた。
急に天井のライトが何回か明滅を繰り返し、電気が切れて真っ暗になり、またブーンと鳴って光が戻る。やがてちらつきが消えると、衣埜莉は元の紺のブレザーとオリーブグリーンのプリーツスカートの姿に戻っていた。
衣埜莉は敷居のない洗面台にふらふらと歩いていくと、猫背になって今にも肘をつきそうな姿勢で、自動水洗のセンサーの下に両手をかざした。モールの時よりも、勢いの弱い、ぬるめの水がぴゅっと放出されて、指を濡らしたかと思うと、すぐにその放物線は小さくなり、ポタポタと雫になって止まった。
一度生まれただけの、現せ身の人間には、創生の波動は危険すぎる……。
でも、これで…、わたしは。いつでもユグドラアイドルに戻ることが出来るんだ……。もう、怖いものは…、何もないわ。はばくさい?子供っぽい?それがなに?わたしにはこれがある。衣埜莉は玩具のステッキを大事そうに、胸に抱き締めた。
*********
地元の駅に着いた頃には、衣埜莉は颯爽と細い髪を風に靡かせて歩き、道行く人が思わず振り返るいつも通りの衣埜莉に戻っていた。その顔は、より強く、より美しい。わたしは、かわいい。かわいい。かわいい。かわいい。わたしのかわいいは、誰にも止めさせない……!
次回、『』
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