井11 衣埜莉ちゃんパニック
「衣埜莉ちゃん、ほんとにママ、ついていかなくていい?」
さっきからママがまた同じことを言ってくる。
わたし、赤城衣埜莉は、「もうっ、さっきから何度もいいって言ってるでしょ!1人で行くから!」と強めの口調で言葉を返す。
今日のわたしのコーディネートは、紺色の制服風ブレザーと、膝上のプリーツスカート。2本線の入った白い靴下と、エナメル調のブラウンのローファー。肩にはマドラスチェックのポシェットを下げて、仕上げに、後ろで編んだ髪をまとめる赤い大きなリボンを結び、丸い白縁のサングラスを額に乗せていた。わたしは、玄関の姿見の中でプンプンと怒ってみせた。
「はい、はい、もうわかったわ。…でも、気を付けていってらっしゃいね?今日は、水穂ちゃんや咲愛ちゃんとも一緒じゃないのね?」「そうよ、…もう!わたし、そこまで子供じゃなんだから大丈夫よ。」「子供じゃないから心配なのよ。」「訳わかんない。」「まあ、いいわ。お昼までには帰ってくるのよ。車で迎えに行かなくていい?」「いいって!」
今日は土曜日。
ここ数日のわたしは、ママが急場しのぎで買ってきた微妙なデザインのハンカチを持って学校に行っていたが、今日になって、ようやく!自分好みのハンカチを!買いにいくことが出来るようになったのだ。今日は念のためコットンティッシュをポシェットに入れ、可愛いレース付きの不織布のマスクも何枚か入れてある。鼻血が出たのはあの日一回きりだったので、あれが本当に鼻血だったのか、よくわからない。ママもこれは人それぞれだから、と言っていたし、今はこのことは忘れていようと思う。
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わたしは、気合いを入れて地元から3個先の駅にある、大型商業施設シオンモールへ単独乗り込むことに決めていた。
さすがにハンカチ選びに友達を連れていくのは、恥ずかしい気がするので、今日は1人きりだ。お年玉から貯め続けているお小遣いも沢山持ってきている。なんなら、それなりのお洋服も買えるくらいの金額をお財布に入れてきた。『魔法のキャッシュレス決算』puypuy にも、かなりのお金が入っている。
わたしは、ペールピンクの地にコスモスの花柄の入ったキャリーケースを背中に従えながら、鼻歌でも歌いたい気分で駅のコンコースを歩いていた。道行く人が、もれなくわたしを振り返り、目で追ってくる視線を感じる。
「今の子見た?」「見た見た!可愛かったよね」「小さいのに、なんか大人っぽくない?」「ザお嬢様って感じ?」「ヒソヒソ…」「コソコソ…」うふふ。もっと噂をしなさい。良い気分!「でもちょっとマダムっぽくない?」ん?「アハハ、確かに。」「ハリウッド女優?」「アハハ、ウケる!」え?え?わたしは、自分の顔が赤くなっているのを感じながら、急ぎ足で広い歩道橋を斜めに突っ切っていった。
モールの入り口のショーウィンドウに、マネキンの家族が飾られている。何気なく、そこに目をやって、わたしは、ぎょっとして立ち止まった。
……この家族のママの服装が、わたしとそっくりだったのだ。紺色のブレザー、モスグリーンのプリーツスカート、靴下こそ違うが、あとはそっくり。ご丁寧に髪の後ろにも、派手ではないが、赤系のリボンシュシュを付けている。丸いサングラスを額に差しているのも同じ。…靴の色まで同じとは。とどめは、ペールカラーのキャリーケース。色こそ違えど、大きなマリーゴールドの柄が、わたしの持っている花柄の物と似たような感じがした。
……ま、まずいわ。今日のわたし、ひょっとして、ばばくさい??どうして出掛ける時、ママはそう言ってくれなかったの?……あ、ママにそれを期待するのは無理か。わたしのセンス、おばさん?おばあちゃん?
軽いパニックになったわたしは、額に吹き出した汗を手の甲でとんとんと拭い、まずは人目を避けようと、一番手近にある御手洗いへ急いだ。
午前中の早い時間だったが、その御手洗いにはもう行列が出来ていて、わたしは、穴場である5階のトレーニングジムのフロアにある御手洗いへ急行した。
エレベーターに乗っている間も、数人の女子高生がわたしに向けてくる視線が気になって、じっとフロアランプだけを凝視する。扉が開いたと同時にスタートダッシュだ。
背中に残していった女子高生の1人が、「顔、真っ赤にしててカワイイ!」と友達に小声で囁くのが聞こえた。……わたしは地獄耳なので、皆さん、陰口には注意するように。全部聞こえてますから。
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人気のない御手洗いの、シンクの鏡を見ながら、わたしは呼吸を整えていた。…そう、まずは落ち着こう。
わたしは、白い洗面台の上に上半身から覆い被さった姿勢になって、肩の力を抜くと、自動水洗センサーの下に手を入れた。すぐに吹き出してきたお湯で指先が濡れる。出始めた直後の勢いのあるお湯は、指の間を伝って二股に分かれて、周囲に水滴を飛び散らせながら排水口の中に落ちていった。しばらくは指の股から零れ落ちる水の感覚に身を任せていたが、やがてわたしは温かいお湯の間で両手の指を交差させて、何度もこすり合わせた。そのうちに水流は弱まり、最後に雫がポタポタと垂れ落ちてから、完全に止まった。わたしは白い陶器のシンクの外に手を出し、指にスナップをきかせて、残った水気を軽く周りに跳ね飛ばした。腕を雫が滴って、多少袖が濡れてしまったが、湿った手のひらに苦労しながらわたしは、スカートの深めのポケットからハンカチを抜き出した。今日のハンカチは、無難にレースの付いた白いものだ。隅にはすみれの刺繍がさしてある。当然、これには名前は書かれていない。
正直に言うと、これはこれで可愛いのだが……うん、まあ、でも。今はママのセンスは置いておくとして。今日は頑張って、ばばくさくない物を探さないとね……。
わたしは、折りたたんだままのハンカチで、指の股に残った水滴を軽くたたいて、水分を染み込ませるようにして拭き取ると、もう一度顔を上げて自分の姿を確認した。
この前、うちに遊びにきた時の、水穂ちゃんと咲愛ちゃんの言葉がよみがえる。「……衣埜莉ちゃん、趣味が渋いよね」
「確かに。こういうのも、すごく可愛いけど」
「衣埜莉ちゃんてさ、もぉっとー、…何て言うかさ、『可愛いの』が似合うと思うんだ」
ふん、なによ!あなた達よりも、わたしの方が、ずーーーーーーーっと可愛いんだからね!!
……とは言え。今日のわたしの格好は少々まずいのかもしれない。あわよくばこのモール内で、わたしに似合う『可愛いの』が沢山見つかるといいな…。
わたしは御手洗いを出て、2階の婦人服売り場へと向かった。
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シオンモールには、衣埜莉のお気に入りのブランド が入っている。この店は、店先に大きなテディベアが座っていて、ショップのロゴにも、キルトを着てバグパイプを吹くベアがあしらわれている。扱っている服も、いつもの赤城家の好みにピッタリなフォーマルなものが多い。
しかし、その日、彼女の目を引いたのは、向かいにあるロリータファッションのお店だった。そのお店のレイアウトは、全ての色がパステルピンクと、パステルブルーで統一されていて、床と壁は、リボンとお花の模様で敷き詰められている。薄っぺらなレースのカーテンと、アールヌーボー風のプラスチックの家具。薔薇の造花、表紙だけの洋書。100円ショップにでも並んでいるような、稚拙な細工のアンティーク加工のフォトフレーム。全てがチープで、陳腐で、偽物くさくて、安っぽい。店員の女の人は、それなりに可愛い顔をしていたが、胸が大きすぎるせいか、着ているロリータ服はあまり似合っていなかった。
それでも、衣埜莉は、頬を紅潮させてふらふらと、そのショップに引き寄せられていった。鼻の頭が少し剥げた、憐れなマネキンガールが一式着せられているのは、ピンクのハイウェストのフリルジャンパースカートとラッセルレースのハイソックス。ビニール質のメリージェーン靴。花籠のようなヘッドドレス、どれも価格が安過ぎて、生地もペラペラで、縫製も甘く、袖口や、ボタンホールがほつれて糸が所々飛び出しているのが伺えた。
正直、これらは、今衣埜莉が着ている服の半分の値段にもならない気がする。それでも……、わたしには、これらが堪らなく魅力的に見えた。
心臓がとくとくと鼓動を早め、胸がいっぱいになって、胃酸のせいで、みぞおち辺りから酸っぱい唾が込み上げてくる。
……いつか見た記憶。テレビに映るサブスクの画面の前に、小さなわたしが背を向けて座っている。丸襟のワンピース。グレーのチェック柄。赤いリボン。スカートの中でももを内側にして、脚をぺたんと横に開き、お腹の上に肌が陶器で出来た巻き髪の少女の人形を持っている。
テレビ画面に映し出されているのは、ふりふりのロリータドレスを着て、アイドルを目指して歌い踊るアニメの女の子達。そのキャラクターのうちの1人は、水色の長い髪に赤い大きなリボンを付けている。普段は、どこにでもいる普通の小学生である彼女達は、魔法のステッキを使ってスーパーアイドルに変身するのだ。
『わたし、こういうドレスがほしい。』場所が変わって、わたしはママと2人で大きなデパートの輝く床の上にいた。「うーん、衣埜莉ちゃんには、もっとこういうのが似合うと思うわ。」ママが持ってきたのは、シックな紺色のワンピースと、柔らかいグレーのカーディガンのセット。ワンピースの裾にはリボン状の小さな花柄が付いている。
試着室で、胸に2羽の小鳥が飛んでいる形のカメオブローチを付けてもらう。「かわいい!」とママが手を叩いてニッコリと微笑む。わたしもそれを見て、満足げに微笑む。ほんとだ。わたしってかわいいな。
「ねえ、このステッキがほしい。」玩具売り場でママの手を引きながら、わたしが言う。「そうねえ、ママがもっといいお話を教えてあげるわ。」……ママは、サリー・ホッパーシリーズの大ファンだった。魔法に憧れるのなら、外国文学を読まなきゃね、まさかの原文で……。まあ、イギリスって、色々おしゃれよね。英国伝統の高級ファッションに身を包むわたしも、素敵だから……。
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じっと外から見ていた衣埜莉に、ロリータショップの店員が気付いて、ぎこちない接客スマイルをしてくる。悪気はないのだろうが、子供の扱いが苦手なのかもしれない。子供とどう接したらいいのか、お客様として接した方がいいのか、あやすように接した方がいいのか、その迷いのせいで、ただ単にうまく笑えなかっただけかもしれない。
衣埜莉は足早に前を通り過ぎ、キャリーケースを握る手に汗をかきながら通路を曲がっていった。
……息が苦しい。衣埜莉はブラウスの前部分をぎゅっと握り潰して、肩で呼吸をしていた。…可愛い、…可愛い、…可愛い!全部、かわいい!
深呼吸をした後、気持ちを落ち着かせようと、気を紛らわせられる何かを探して、衣埜莉は視線をさ迷わせた。
ふと家電量販店の玩具売り場のエンドが目に入る。
それを見て、衣埜莉は再び息が止まりそうになった。
あれは……、アニメに出てきた魔法のステッキだ。そ、それも、これは…今続いている『同シリーズの最新作のもの』ではない!衣埜莉が小さい頃見ていた過去作のキャラクターが持っていたものだ!間違いない!何故これが今になって、ここで売っているの??
衣埜莉は、はやる気持ちを抑えてエンドの前に立ち、商品の説明を食い入るように読んだ。
魔法の杖……。作中では、蒼天の天使ジェネシスが持っていた、この世界に4本しか現存しない、レーヴァテインステッキのうちの一つ。ユグドラアイドルになる為に必要な神器。
え?待って、今度映画がやるの?だから再販されたの?それともこれは、映画バージョンが新しく商品化されたってこと?……でも、今それはどっちだっていい。後で調べればいいから。とにかく、わたしは今これが欲しい!
『永久のディーヴァ』略して『AQDV』。シリーズ第2作目。3人のユグドラアイドル、『マリオネット』『ラビリンス』そして『ジェネシス』が、愛の力で世界を統べる為に芸能活動?をする人気アニメ。4人目のユグドルは結局明かされなかった。4人目は貴女ということだろうか。
……わたしは、ジェネシスになりたかった。
わたしは……、誰よりもジェネシスになりたかったし、わたしは、そう、ジェネシスみたいになれるくらい、一番、一番可愛いんだ。キャラものの玩具なんて今さら恥ずかしい。恥ずかしい……はずなのに、わたしは、今…、今ここに、世界を創世するアイドルになる……!!「お会計5800円です。」
衣埜莉はキャリーケースに、プラスチックで出来たユグドラジェネシスのレーヴァテインステッキを収納し、心臓を激しく鼓動させながら、堪らず、御手洗いに再び駆け込んでいた。
入るとすぐに、白い仕切り板の付いたラバトリーシンクの一つに体を滑り込ませ、もどかしそうに袖を捲り上げる。2つ隣の洗面台で、手を洗っていた高校生らしい女の子が、一瞬だけ、仕切り板の内側に入る前の衣埜莉のことを横目で見て、思わずその美少女然とした姿に2度見してしまう。
衣埜莉はさっき手を洗ったばかりだったが、手のひらを上に向けて、自動水洗センサーの下に指をかざすと、目を閉じて温かいお湯を勢いよく出した。衣埜莉は思わず身震いをして、深く深呼吸をした。溜め息が出て、やがて鼓動の速度が幾分ゆっくりになる。落ち着かなきゃ。落ち着かなきゃ……。
途切れ途切れになって、やがてお湯が止まると、衣埜莉はハンカチで濡れた手をそっと拭き取った。そして、決意したように顔を上げ、鏡の中の自分を見つめる。
わたしは…、そう。世界を、創世する。
次回、『ジェネシス・ウェーブ』