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井10 蝶と蛹


和歌名わかな真愛まなは、宍戸ししど邸の門の前で、インターホンを押すのを躊躇(ためら)ったまま、しばらくそこで立ち尽くしていた。


「どうする、和歌ちゃん?これ、押していいんだよね?」「うん、多分。」「和歌ちゃん、押してよ。」「うん」「ねえ、」「うん」「ねえってば」迷った挙げ句、和歌名が指を伸ばして、えいっ、とばかりに力まかせにインターホンのボタンを押す。

……何の反応もない。「壊れてるのかな?」和歌名は立て続けにボタンを押した。カチャカチャカチャカチャ………。


「一回鳴らせばわかるんだけど……」インターホンから声がして、和歌名は、もう一回押そうとしていた指を離した。

「あ、あの、わたし達、さやかちゃんのクラスメイトの、双葉和歌名ふたば わかなと、」「高嶺真愛たかね まなです!」


一瞬の沈黙の後に、スピーカーから「…ふうん」と声がして、続けて「どうぞ」とくぐもった声が聞こえた。目の前でパチンと乾いた音がして、自動で木の門か(ひら)く。恐る恐る、2人が門をくぐると、その先には大きな松の木を中心にした日本庭園が広がっていた。背中で木の扉を閉めると、外界から隔離された、そこは別世界のようだった。


「た、たぶん、あっちが玄関だよね?」足元の玉砂利を踏みしめながら、2人は更に奥へと進んだ。母屋らしき建物に近付いていくと、途中、公園でしか見かけないような広い池が見えてくる。和歌名と真愛は、丸く湾曲したコンクリートの橋を渡りながら、整備の行き届いた庭園を見渡した。庭木の写り込んだ池の中を色とりどりの鯉が泳いでいる。

「……なんか、ほんっと、別世界…。」真愛がため息をつく。和歌名が、辿り着いた先の玄関に、どこかにインターホンがないかと探し始めた、丁度その時、


「やあ。」


玄関の橫の建物から、1人の少年が出てきた。真愛が和歌名の後ろに身を隠す。

…この少年?は、細身で中性的な見た目をしていて、身長は和歌名よりもちょっと低いか同じくらい。伸ばした黒髪が半分目にかかっていて、髪型には無頓着そうに見えるが、野暮ったいわけでもない。彼は無造作に手をポケットに突っ込んで、静かに微笑んでこちらを見ていた。

わたし達より年上だろうか、白いワイシャツの襟を紺色のベストから出していて、同じく紺色のパンツと黒い革靴という中学生のような着こなし。和歌名は若干警戒して、後ろに隠れる真愛を、腕を(ひら)いて庇うようにして立った。


「きみ達、さやかの友達?」「は、はい。えっと、あの……?」「ああ、ぼくのこと?」彼はポケットから手を出さずに、首の動きだけで柔らかい前髪を目から払った。思わずはっとするような整った顔立ちが見えて、和歌名は後ずさりした。

「ぼくは、宍戸あきら。さやかの兄だよ。」確かに、よく見るとさやかちゃんの似た雰囲気の顔…。「よろしく」とあきらがポケットから手を出して、和歌名の目の前に差し出す。

握手を求めてきた彼の手を、和歌名はじっと見つめるだけで、何も反応を返さなかった。「うふふ」あきらが手をさげる。


「あの…、さやかちゃんは、…いますか?」和歌名があきらに尋ねる。「いるよ。……でも今日は会えないかな?多分。」「今日、学校休んだのって、その、…もしかして、病気か何かですか?」和歌名の腰辺りを掴みながらぴょこんと顔を覗かせた真愛が、尋ねる。

「いや、病気ではないかな。」「……」「……」


「まだなにか?」あきらは、胸の前で腕を組んで2人のことを見つめていた。

「あの、わたし達、さやかちゃんにプリントと宿題を持ってきました。」「そうなの?ありがとう。」和歌名がランドセルから、プリント類と連絡帳、そして耳検査キットをその下に隠すようにして取り出すと、

あきらは、面白がっているような顔をしなかがら、それらを受け取った。

「じゃあ後は、さやかに渡しておくよ。」あきらはそう言うと、(きびす)を返して立ち去ろうとした。

「ま、待ってください。」「ん?」和歌名が拳をぎゅっと握りながら追いすがる。

「あのっ、さやかちゃんに…、会えませんか?」

あきらは立ち止まり、少し考え込むと、玉砂利を踏み締めて振り返った。「うーん、まだきみ達とは会えないんじゃないかな。」「え?どうしてですか?」

あきらは、家の白い土壁を見て、ふとあるものに目を止めると、にこやかに2人の少女達の方へと向き直った。


「見てごらん」あきらが指差したのは白い壁に張り付いた、茶色いアゲハ蝶の(さなぎ)だった。「……さやかはね。まだ蛹なんだ。」「……」「……」「…はい??」真愛が調子外れの声を出す。

あきらは構わず言葉を続けた。「アゲハ蝶は蛹のまま、越冬する前に死んでしまうこともある。……実際この子も死んでいるかもしれない。」不安げにこちらを見ている和歌名に気付いて、あきらは「知ってる?」と明るい口調で言い直す。

「蛹は蝶になる途上で、一度身体がドロドロに溶けたようになって、再び美しい蝶の姿に再構成されるんだよ。」あきらは、長い指で蛹の背をそっと撫でた。「まあ、これは都市伝説のようなもので、実際は、昔の体の不要な器官が壊されて蛹の中を漂っているのと、新しい体がまだ柔らかすぎて壊れやすく、…その境界線が曖昧になっているだけなんだけどね?」あきらは、かさかさに乾いた蛹の背中から指を離すと、「夢を壊したかな?」「…さやかもね、今それと同じなんだ。今の姿をまだ人には見せたくないんじゃないかな?」と言って悪戯っぽく笑った。


「……わたし…、」真愛が真剣な眼差しであきらと、そして次に和歌名のことを見た。

「中二病って初めて見た……。」


*********



妹の同級生を名乗る2人の少女が帰っていった後、宍戸あきらは、母屋とは別棟にある住居スペースへ足を向けていた。片方の手はポケットに手を入れ、もう片方の手には、さっき預かった学校からの配布物類を持っている。


離れにあるこの建物は、宍戸邸内では違和感のある佇まいで、無機質な立方体のコンクリートを基調とした、現代建築風のものだった。窓は少なく、日差しは主に上部の開閉窓から取り込まれている。

今はそれも閉じられていて、あきらが入口の扉を開けて、建物の中に入ると、廊下の間接照明以外の明かりはなく、室内はほぼ真っ暗だった。


「……さやか、いる?」廊下の突き当たりにある個室のドアを押し開けて、あきらは暗闇の中に声をかけた。

……段々と目が慣れてきて、家具らしい家具が何もないこの部屋の中央、板張りの床に一部だけ敷かれたタオルケットの上に…、

小さな人影が横たわっているのが見えた。

「さやか、今日、君のクラスメイトが来たよ。」呼ばれた人影は返事をしない。横向きになった体から床に腕を投げ出して、スカートの下で脚を交差させた姿勢のまま、身動き一つしなかった。

あきらは暗がりの中で、手に持ったプリントにざっと目を通すような仕草を魅せたが、すぐに興味を失って、腕をだらんと体の橫にさげる。

糸の切れた人形のような妹の姿を、兄は、頭の先から足先までゆっくりと観察した後、(きし)む板を慎重に踏みながら、一歩ずつさやかの体に近付いていった。


すぐ近くまで寄ると、あきらはしゃがみ込み、はだけた妹のスカートを、膝が見えないように直してやった。そのまま、あきらは妹の頭の橫に正座して座った。妹の頬にかかる、乱れた細い髪の束をそっと集めて、耳の後ろにかきあげてやる。

…ピンク色に染まった妹の小さな耳が(あらわ)になった。耳のそばのもみあげは、他の場所と比べて薄く、ほとんど生えていないので、地肌が直接透けて見えている。妹の胸は呼吸の度に、静かに膨張と収縮を繰り返していた。あきらは微笑んで、妹の顔に、自分の顔を近付けると、彼女のうっすら青すじのたったこめかみに、優しく口付けをした。


無表情のさやかのブラウスの下で、外からでも判別できるくらいに、心臓がとくとくと脈打って生地が揺れているのがわかる。


「……君はまだ蛹だ。」 あきらが耳元で囁く。さやかの虚ろな目は、暗闇の先をじっと凝視しているのか、または何も見つめてはいないのか、一度だけ(まばた)きをしただけで、反応を返さなかった。

「……ぼくには、わかっているよ。君は変身する必要があったんだよね?…もっと強い言葉で言えば、完全変態する(メタモルフォーゼ)必要があったと言うべきかもしれないが。」

あきらは、妹の学校の連絡帳を脇にどけると、ビニール袋に入った耳検査キットを取り出した。「…今日のあの子達だけどさ、ぼくの推測が正しければ、あれは、君の言っていた『偽りの人形(ひとがた)』と『戸惑いの王子』ではないかな?」さやかの反応はない。


「どうでもいいか。」あきらはそう言って、さやかの頭を持ち上げると、その下に自分の太ももをすべり込ませた。そして、妹の検査キットを手に取り、半透明の筒状の容器の、キャップを回して蓋を開けた。


キャップには、マニュキュアの容器に似た細長い棒がついていて、その先端は耳の内壁をこそぎやすいように、細かい溝と突起の繰り返しになっている。

あきらは、妹の剥き出しになったまだ幼い外耳(がいじ)をじっと見つめた。柔らかい耳たぶに触れた後、耳輪(じりん)に添ってななめに切れ込んだ溝に指を入れ、複雑な形をした内側のひだを、ゆっくりとなぞっていく。外側はすべすべで、三日月型の内側は少し汗でベタついていた。

目に見えないほど(ほそ)いうぶ毛を、指の腹に感じながら、あきらは妹の耳孔(じこう)の外周に触れる。そのまま彼の指は、耳珠(じじゅ)の硬い軟骨をつまみ、少しいじった後にぐいっと倒して、耳の孔を押し拡げた。

暗闇の中、あきらのもう片方の手で、スマートフォンのライトが光る。

あきらは、妹の耳の孔をのぞき込みながら言った。「随分と耳掃除に熱心だったようだね?」さやかの無表情な顔が熱を帯びて汗ばんでいるのがわかった。「入れるよ?」質問への返事を聞かずに、あきらは妹の耳に耳検査の棒を差し入れた。


彼女の耳の中は、掃除のし過ぎでかさぶたが出来ていて、軽くこするだけで、乾いた角質がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。同じ場所をしばらくこすり続けると、かさぶたの下から水っぽい汁が滲み出してくる。

さやかは、長い髪の奥を汗で湿らせながら、兄の膝まくらの上で、お腹に頭を押し付けて、体をよじった。

あきらは、妹が耳の中に痒みを覚えているのを感じ取って、更に同じ所をこすり続けた。さやかの首が、びくっと縮こまる。

あきらが、彼女の耳から検査棒を引き抜くと、その先端に少し血が付いているのが見えた。

「さやか。1人で耳をかき過ぎるのは……、良くないよ?内側が傷になっているじゃないか。」さやかは彼の太ももの上でうつ伏せになり、肩で息をしていた。あきらは、自分のももに妹の温かい息と唇から漏れる湿り気を感じながら、耳検査の棒を、容器の中にあるジェルに刺し、キャップを固く閉めた。


「明日も学校を休むのかい?」あきらは、妹の後頭部を優しく撫でながら聞いた。

……こくり、と妹の頭が(うなず)く。

「しょうがない子だ。まあ、そういうぼくだって、中学に入ってから、一度も学校に行っていないんだけどね?」「まあ、でも、君はこのままじゃいけないよ?…だってまだやることがあるんだろ?」あきらは急に両手を使って妹の頭を持ち上げると、自分は太ももを引き抜いて立ち上がった。さやかは軽く床に頭を打ち付けて、初めて「う」とだけ声を出した。「わかっているだろ?…ぼく達は、呪われた宍戸家の子供だ。勿論、ぼくだって(▪▪▪▪▪)このままじゃいられないさ。でも、ぼくは、もう宍戸家から降りたんだ。それに比べて……君は……君は、強い。君は多分全く違ったやり方で、宍戸家の責務を果たそうとしてくれているのだろうね。」


そう言うとあきらは自分のポケットに、妹の耳検査を()じ込んで、後は後ろを振り返らずに部屋を出ていってしまった。


暗い部屋に取り残されたさやかは、タオルケットの上で橫になったまま、膝を抱えて身体を丸めていた。さやかは、兄に膝まくらされていた時の、お腹の辺りにある付き出したベルトの硬い感触を、思い出していた。


次回、『衣埜莉ちゃんパニック』

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