井1 さやかちゃんの失敗
…、
……、
………、
あれ?
……授業中に、急な違和感を感じた。
視界の外で、なにかがうごめくような、
聴覚の及ばないところから、なにか吹き出すような?気がして……その気配と音の正体を確かめようと、視線をさ迷わせると、
?
?
?
……!?
隣の席に座る、宍戸さやかちゃんの椅子の下の方から、床を伝って水が流れ出してきているのが見えた。
さやかちゃんの真後ろの席で、『あ』と声を上げた男子が、ガタン、と音を立てて、机ごと後ろに下がる。
さやかちゃんは、不自然に力が入ったように見える、こわばった姿勢のままうつむいて、少しだけ後方に椅子を引いた姿で、
その黒く艶やかな長い髪を、清楚な女の子らしい可愛い顔の上に垂らして………、
…………身動きひとつしていなかった。
……さやかちゃんの座った椅子からは
ポタポタとしずくが垂れ落ちていて、床にひろがった水溜まりに、小さく跳ねているのが見えた。
……長い髪に覆われて、さやかちゃんの表情は読み取れない。
左側の席に座るわたし、双葉和歌名は、板張りの教室の床にひろがってきた水溜まりを見て、咄嗟に、自分の机の両端を掴んで、こちらの机も濡れてしまわないように、横へとずらしていた。
さやかちゃんの今日の服装は、深緑色のカーディガンと、チェック柄の入った薄い茶色のワンピースだった。
その、大きめの白い襟には細かい花柄があしらわれていて、長い髪にも、大人しい花冠のようなカチューシャをつけている。なんだか少し大人っぽいのに、それでいて女の子らしい可愛らしさのある、清楚な服装…。
普段、さやかちゃんとわたしはそこまで仲良しのグループではない。
だから、あまり積極的にしゃべったことはないのだが、隣の席に座る、この、静かな文学少女のような雰囲気のクラスメイトのことが、以前から気になってはいた。
………それに比べてわたし自身は、全然可愛くない、華がないタイプの女子だ。
ひょろっとした背丈。短めの髪は癖毛で、うまくまとまらない。服はいつもズボンか、キュロットスカート。
不細工な顔立ちなのは、自分自身でもよくわかっている。一重の細い切れ目。長い鼻。
痩せているせいなのか、髪型のせいなのか、目つきや、例えば歩き方のせいなのか、他の原因のせいなのか、
学校外でのわたしは、よく男子に間違えられることが多かった。……わかっている。それくらいわたしには、女の子としての魅力がないんだ……………。
………それにに対して、
さやかちゃんは、ストレートの長い黒髪と、小柄な身長。女の子らしいシルエット。ビスクドールのように決め細やかな肌。目鼻立ちは整っていて、あまり表情は変わらない。感情の起伏が少ないというか、かなり物静かな性格で、どこか近付きづらいイメージがあるにもかかわらず、
さやかちゃんは、その独特な清楚な印象から、クラス内ではそれなりの評価?を受けている女子だった。
いったい何が?
わたしは戸惑いながら、改めてさやかちゃんの姿を見据えた。
さやかちゃんはうつむいたまま、その細くて白い指を、お腹の上でぎゅっと結んで、時間が止まったように微動だにしていなかった。
よく見ると、お腹の辺り、濡れたワンピースのスカート部分に、水色の水筒が横倒しになっていて、中が全部こぼれてしまっているのが見えた。
口の開いたままの水筒は、さやかちゃんの、……色が白くなるまで強く握られた小さな拳の間で……、少しずつ中身の水をこぼし続けていた。
さやかちゃんが………、授業中に、
水筒の水をこぼしちゃった。
教室が大騒ぎになる前の、ほんの数秒の間、わたしは、さやかちゃんの身に起こったことを信じられない気持ちで見つめていた。
……………におい。
甘く、刺激の強いにおいがした。桃か、メロンか、乳酸飲料か。授業中には嗅ぐことのない、異質なにおい。この正体不明の甘いにおいが、わたしにはとても不快に思えた。
でもこれだけはわかる。
『学校に持ってくる水筒には、ジュースを入れてきてはいけない』『入れてきて良いのは、水か、お茶だけ』
それは、『ルール』だ。
それは、1年生であろうが、6年生であろうが、
たとえ先生であろうが、
守らなければならない、『ルール』なのだ。
なのに………さやかちゃんは、水筒に、ジュースを、入れてきている……?
わたしは、その事実に凄く動揺して、自分のみぞおち辺りに冷たいものが動いて、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
女の子用の小さめの水筒に、こんなにも沢山の水が入っていた、という事実に驚いてしまうほど、見慣れた水筒の大きさに比べて、実際の水量は、とても多く感じられた。
水筒の中身は、さやかちゃんの、スカートと、木の椅子の間からこぼれ、それは白いレース付きの靴下から、上履きまでを濡らしてしまっていた。
「あーーーー!」後ろの席の男子が大声で叫んだ。
「せんせぇーー!宍戸さんがっ、」
「水筒の水、こぼしちゃいましたーーっ!」
騒然となる教室。
わたしは、うつむくさやかちゃんの姿を、これ以上、見てはいけないような気がして、思わず目をそらした。
………もう。みんな気付いている…。
……これは、ジュースのにおいだ…。学校に持ってきていいのは、水かお茶だけ、と決まっている……のに。
……クラスメイト達が好奇の目で、
『大人しくて、普段あまり会話がないけど、ちょっと可愛い系の女子』の身に起こった出来事を見守っている。
半笑いの顔で見ている男子たち。
クラスで人気のある、比較的顔の良い女子たちが、お互い目配せをして、嫌悪感に満ちた、それでいて楽しそうな?いびつな表情を浮かべているのが見えた。
わたしは。
……なんだか、気持ちが悪くなってきて、今すぐ保健室に行きたいと思った。
…いいえ、違う。本当に行きたいわけではない。……ただ、気持ち悪い。それだけ。
……さやかちゃん…、どうして……?
どうして授業中に、水筒の中身なんかを飲もうとしたの?
どうして?
……物凄く喉が渇いて、どうしても我慢できなかった、とでもいうの?
……でも。でも、
あと20分もすれば。授業は終わったじゃない。
それからじゃダメだったの?
5年生にもなって。
……授業中に、ちょっと喉が渇くくらい、そう、それは誰にだってある。でも、どうして?どうして我慢できなかったの?
たったの20分。
こっそり飲もうとして、慌てて手元が狂ってしまったのか、水筒を、可愛いワンピースの上でひっくり返してしまったさやかちゃん。
たった20分を我慢できなくて。
きっと、ちょっと口をつけて、
少しだけ喉を潤そうとしただけかもしれないのに……。
5年生にも、なって。授業中に水筒の中身をこぼしてしまうなんて。
………恥ずかしい、
……男子だって見ているのに。
女の子が、こんなことするなんて、
嫌だよ。恥ずかしいよ。
なんで?さやかちゃん。
わたし、恥ずかしいよ。
………それにさ、誰かが『ルール』を破る姿なんて、それが誰であったとしても…、わたしは、見たくない。
みんな見てるよ?ジュースのことだって、ばれているよ?
…やめてよ。
……恥ずかしいよ。
思わずわたしも、
顔が赤くなるのを感じた。
急に我に返ったように、担任の柿本先生が、教卓から慌てた様子でさやかちゃんの席に駆けつけてきた。
「宍戸…さん…?」
まだ女子大生のような雰囲気の残る、若い柿本先生。いつも活発で、前向きで、にこにこ笑っている印象の柿本聖羅先生。………その薄く化粧をするだけでも十分な、綺麗で整った顔立ちが、今は、ぎこちない表情に固まり、ひきつって青ざめていた。
ためらいがちに柿本先生が、さやかちゃんの肩に手を触れる、
…か ……それとも触れないかの…その瞬間。
「うわあああああ₩₪₢∉≌㎯!!」
宍戸さやかちゃんは大声をあげて泣き出していた。
いつもの大人しい、落ち着いた雰囲気からは想像のつかない、大きな声。泣き言?わめき声?駄々をこねるように絞り出された叫び声?金切り声。
びくっと、柿本先生が、さやかちゃんの肩から手を離す。
そこで、
今までの様子を黙って見ていた、クラスで主導権を握るグループ内の、女子のリーダー格、学級委員の
赤城衣埜莉ちゃんが、
…少しだけ口角を上げて、どこか誇らしげにも見える表情で
頬を赤く染めながらポツリとつぶやいた。
「…涙。全然出てないじゃんwww」
……それは、独り言ではなく、誰かに聞かせる為の台詞。
すぐに賛同するように、取り巻きのいつもの女子2人が、お互いにさやかちゃんのことを
どこか小馬鹿にするような様子で、
繰り返し「や、っば(笑)」と言って、どこか嬉しそうに、顔を見あわせていた。
衣埜莉ちゃんは、いつもの物語の主役みたいに堂々とした態度で、やれやれ、といった感じで首を軽く振ると、
自分の席で背筋をピン、と伸ばして、すでに興味を失ってしまったかのように、黒板の方を見つめていた。
リボンをつけた、背中まである僅かに栗色を帯びた艶髪が、柔らかく光っている。
……………ざわめき。ひそひそ声。遠巻きの同情。大きな声で泣き叫ぶ、さやかちゃん。それをなだめようと、あたふたとする柿本先生………。
ーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーーー
「みんな、静かにして!」
混乱したクラス内の喧騒を破るように、1人の女子が声を上げる。
「かわいそうでしょ!」
高い位置に結んだツインテールをぴょこん、と揺らして、
勢い良く立ち上がったのは、わたしの一番の仲良しの女の子、高嶺真愛ちゃんだった。真愛ちゃんは、外国人の血が入っている女の子で、肌の色がブラウンで、瞳の色が緑色だった。
すぐに真愛ちゃんは、教室の後ろから雑巾を持ってきて、さやかちゃんの所に駆けつけてきた。
それから真愛ちゃんは、柿本先生とさやかちゃんの間に跪いて
何の躊躇もなく、
床の上のジュースを拭き始めた。
「大丈夫、大丈夫だから……、ね?」雑巾で床を拭きながらも、真愛ちゃんは時折、顔を上げて、笑顔でさやかちゃんに声をかけてあげていた。
我に返ったように、柿本先生も、さやかちゃんの顔を覗き込んで、体をそっと支え直す。慎重に、スカートの上から水筒を取り除く。
そして、今度はさやかちゃんの肩を掴んで、そっと胸に引き寄せてあげた。
…さやかちゃんは一瞬、強く抵抗したかと思ったが…、すぐに柿本先生の体にしがみついて、肩を震わせ始めた。
いつしか泣き声は小さくなる。
「………立てる?」柿本先生が、さやかちゃんの肩から腕にかけてを、ゆっくりさすりながら、手に少し力を入れる。
さやかちゃんは、無言で、こくりとうなずくと、顔を下に向けた状態で、そのまま椅子から立ち上がろうとした。
柿本先生に、両肩を支えられたさやかちゃんが、
少しよろけながら立ち上がると同時に、お腹の辺りで溜まっていたと思われる残りの水が、
……ボタボタと音を立てて、教室の板張りの床に跳ね落ちるところが見えた。
…わたしは、急に
……こんなにも、こんなにも、自分の心は狭かったのか、と知って、がく然として、自身の性格を情けなく感じて、今の自分の態度が、本当に許せなくて、真愛ちゃんのように、咄嗟に行動できなかったことを悔やんで……、
気が付くと椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
その瞬間に、わたしは、さやかちゃんと目があってしまった………。
わたしは、息が止まりそうになった。さやかちゃんは……、柿本先生の腕の中で、
…………肩が震えるほどに、悪戯な目で、笑うのを我慢していたのだ。
次回、『真愛ちゃんの正義』