テオの旅立ち
粗末な服を着ていても成長するにつれて美しさを増すテオには多くの少女が近づくようになってきたが、テオはまるで視界に入らないかのように歯牙にも掛けない。たまに寄ってくる男には憎悪の目を向けて撃退した。
学もあり剣の腕も確かなテオに叶う者など、この周辺にはもう存在しなかった。
それでも、孤高でありながら村の運営に適切な助言をし、農作物の収穫を上げたり害獣の罠を改良したりするテオは、ともすれば神聖視されるほどだ。
テオは、小さな村では手に余るほどの存在となった。
ほかの村や町からその姿を見に来る者が現れ、果てには遠く離れた城に住む小領主の耳にも届いた。小領主から登城するように遣いがやってきたが、テオは嫌悪の表情を浮かべた。どうせ、お眼鏡にかなえば諸侯か国王への『貢物』とするつもりなのだろう、と。
「目的は分かっています。謹んでお断りしますよ」
「平民ごときが断れると思っているのか!」
「無理にでも連れて行こうとするのなら舌を噛み切ってでも拒否します」
せせら笑うテオと顔を真っ赤にする使者の間にセザールが割り込んで頭を下げる。
「も、申し訳ありません、使者さま。息子はこう決めたらてこでも動きません。罰は受けますので……」
「父さんは罰を受ける必要はないよ。僕が決めたことだ。ねえ、そうでしょう? 使者さま。こんな子供に罰を与えるなんて小領主さまはそこまで狭量ではないでしょう?」
使者はまだ少年に過ぎないテオに気圧された。
この少年は教会にも目をかけられている。使者は、罰を与えるとややこしいことになると考え、苦々しげに口を歪ませて城へ戻って行った。
そんなこともあり、テオは誰もが簡単に声をかけることができるような存在ではなくなっていった。
*
テオは長じるにつれ不思議な焦燥感に襲われていた。どこかで誰かが呼んでいる。なのに自分は「その存在」を呼ぶ名を知らず、申し訳なさと切望する気持ちで焦がされたような気持ちになる。
一方、セザールとネージュも焦りを感じていた。
自分たちが住んでいる村や近隣の村や町に住む、テオと同じ年頃の若者たちは次々と結婚して子をもうけている。
それなのにテオは女性に一切興味を示さない。女性に限らず『人間』に、と言った方が正しいかもしれない。
親として子の将来を心配するのは当たり前のことだが、自分たちよりはるかに頭が良いテオに何か忠言するのは憚られた。
「それでも、私たちがいなくなった後のことが心配よ」
「けど、テオにはテオの考えがあるんだろう」
セザールとネージュはため息をつき頭を抱えた。
*
テオが十九になったある夜中。
空気はきんと冷え空の真上には細い三日月が輝き、辺りは静寂に包まれていた。
自室のベッドで眠っていたテオは、突然強い衝撃を感じ目を開けた。
目を見開き、全てを見通すように天井を見る。
心臓は激しく鼓動し、血管という血管は脈動する。感じたのは歓喜か悔恨か。そして、やがてその美しい両の眼からぼろぼろと涙が溢れた。
「ブロンシュ……」
*
翌朝、居間兼食堂には朝食の準備をしている母ネージュと机に皿を並べているセザールがいた。弟妹たちはまだ起きていないようだ。
テオは両親に声をかけた。
「父さん母さん、話があるんだ」
かしこまった様子の息子に、両親は訝しげな視線を向けた。セザールとネージュは、泣き腫らしたように赤い目元をしたテオにぎょっとした。
「な、なんだ? 朝っぱらから」
テオは今まで見たことがないような哀しげで小さな微笑みを浮かべ、二人を見た。
「僕はようやく自分のなすべきことを思い出したんだ。だから、行かなきゃいけない」
ネージュは手に持っていたレードルを落とし、セザールは焦って大きな声を出した。
「行くって、どこへ!?」
テオは柔らかく微笑んだ。
「父さん、あのペンダントを彼女に渡してくれてありがとう。おかげで僕は導かれ、彼女のもとへ辿り着ける」
セザールは戦慄した。(あのペンダント? ペンダントを『彼女』に渡した?)
「まさか……、あの魔女のところへ?」
その言葉を聞いた途端にテオの表情は変わり、険しい目でセザールを睨みつける。これほどの激しい感情を表すテオは初めて見る。
「魔女……? 私のブロンシュを愚弄したか?」
一瞬、テオの青い瞳が新緑のような緑色に光った。セザールとネージュは気圧され顔面蒼白となりガタガタと震えた。(誰だこれは。テオじゃない?)
一瞬の激昂の後、テオはすうっといつもの落ち着いた表情に戻った。瞳もいつもの色になっている。
しかし片手で目元を覆い軽く頭を振っているのは、もう二人の息子のテオではなかった。
「恩人に対して無礼を働いたことを許してほしい。彼女は私にとってなによりも大切な宝ゆえ、蔑まされることは我慢ならぬのだ。私はやっと彼女のそばに行くことを許された。お二人には今まで子として慈しんでくれたことに礼を言う」
息子であるはずのテオが胸に手を当て優雅に頭を下げる。傭兵であったセザールがかつて戦場で見た、騎士が諸侯に対して行なっていた礼だ。
セザールはへなへなと椅子に座り、ネージュはその場に座り込んだ。
「お前は……あの城に行くのか?」
「はい。私は今日のために生まれてきたのだと思い出しました。あなた方がブロンシュに私のペンダントを与えてくださったご縁で私はここに生まれ、ブロンシュと繋がることができました。心より感謝申し上げます」
セザールとネージュは、もはや大切な息子を引き止める術を持っていなかった。
*
テオは馬を駆る。
家を出る時、セザールからクロニテの仔である馬を渡された。セザールにとっては金や宝石にも等しい貴重品だが、愛する息子の門出に贈ったのだ。ネージュも食糧やらかき集めた路銀やらを詰めた袋を渡した。
セザールとネージュにとって、中身がどうであれ、テオは息子に違いない。
テオが礼を言って家を出た後、セザールとネージュは次男と長女が起きてくるまでぼんやりと椅子に座り込んでいた。
ネージュが妊娠したとわかった日、テオが生まれた日を思い出し、永遠の別れを心に刻んだ。